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陸奥大内氏
●唐花菱
●多々良氏流


 多々良氏流大内氏の一流といい、長門守護大内持世の子義世を祖としている。貞治六年(1367)、将軍義詮は奥州管領斯波氏を牽制するため、奥州総大将に任じられた石橋棟義が多賀国府に下向した。そのとき、石橋棟義とともに大内義世が奥州に移ってきたことが陸奥大内氏の始まりと伝える。
 しかし、義世の父とされる大内持世は、嘉吉元年(1441)の「嘉吉の乱」に遭遇して重傷を負い京都で没している。さらに、持世は応永元年(1394)生まれであり、棟義が奥州に下向したという貞治六年にはこの世に存在していなかった。これらのことから、義世を持世の子とするのも、棟義に従って下向したという説にも無理があるようだ。また、各種大内氏系図にみえる持世には子供の記載はないのである。

出自に関する諸説

 『福島県史』には、大内氏はもともと若狭国小浜に住んだが、晴継の代に塩松に来住して石橋棟義の臣となり、その子宗政の代は石橋義衡に仕えて文明年間(1496〜86)に小浜城を築いて居城としたと記されている。『相生集』では、「大内氏は大崎家の旧臣、若州小浜の留守居たりしに、大崎家の勘気を受けて石橋家の臣下となり、当所(小浜)へ城を築て移る。いまの名は則ち、若州小浜を移したるなるべしと大概記に見ゆ」と記されている。
 また、『姓氏家系大辞典』では「其の出自は詳らかならざれど、或は菊池の族なりと云ひ、家譜の説には、多々良姓大内持世の子太郎左衛門義世の後なりと云ふ。後者全く微証なし、前者に関しては安達郡戸沢の菊池系図に =十一代武政、永正元年(1504)田向城に生る。菊池大阿弥丸後大内太郎左衛門尉、丹波守、菊池を改めて外祖父の氏を以って大内と称す。永禄十一年(1568)卒す」と。「又十五代顕綱、天文四年(1535)田向城に生る、治め武時、大内大阿弥丸、左京進、太郎左衛門尉、四本松主石橋家に属し、数々軍功あり、石橋松丸、四本松城を逃れ、其後三春の主田村清顕に属す」と見ゆ= と菊池氏との関係をあげている。
 ところで塩松石橋氏からは、数多くの庶子家が輩出したと伝えられ、塩松・大内・石川・小野寺・中村・大河内・四本松などが挙げられている。庶子家大内氏の流れが、小浜城主大内氏となったとも考えられようか。いずれにしても、大内氏は四本松(塩松)城主石橋氏に代々仕え小浜城に拠り、小浜城は塩松城の支城として南北朝争乱期に創築されたものである。
 以上のように大内氏の出自は諸説あり、いずれが真を伝えているのかを探ることは不可能といえそうだ。では、大内氏が石橋氏に仕えて執事にまで取り立てられたのはいつごろのことであろうか。

石橋氏の執事、大内氏

 名取熊野新宮社に現存する一切経の奥書に、永和五年(1379)五月二十七日の日付とともに「奥州石橋殿御執事大内伊勢守広光被登仙道」の名がみえる。したがって、この年をくだらないころに大内氏は石橋氏の宰臣となっていたのであり、大内氏の石橋氏執事の地位は南北朝期までさかのぼることができるようだ。
 他方、文明十四年(1482)の木幡山弁天堂棟札には「大檀那源朝臣家博」とともに「大内備前守宗政・大阿弥丸・大内備後顕祐」の名がみえる。木幡山弁天堂は石橋家博を表に立てながらも、事実上は家宰大内氏の力によって建立されたようだ。さらに、延徳二年(1490)の戸沢熊野神社の棟札にも「大檀那源氏大内備前守宗政」の名がみえ、永正十年(1513)の東和町治隆寺の棟札に「大内左京亮乗義」の名があり、天正五年(1577)の木幡山弁天堂の棟札にも「当檀那大内備前守、同太郎左衛門顕徳」の名がみている。これらの棟札によって、大内氏が十五世紀の半ばすぎには石橋氏の重臣に列し、塩松地方に勢力を培っていたことはまず間違いのないことと考えられる。
 そして、伊達氏天文の乱に主家石橋氏は稙宗方として参戦したが、乱の最中の天文十四年(1545)、石橋尚義が家中の大内平右衛門以下の奉公を賞して、大平村太師堂の地を給した文書が伝わっている。天文の乱は稙宗が隠居して、家督を晴宗に譲ったことで終熄した。この乱中にあって、石橋氏家中では執事大内備前義綱が主君尚義を圧倒するまでに勢力を張り、尚義はたびたび米沢に参上して、晴宗の出馬を請い晴宗が出馬したことが知られる。
 石橋尚義は「石橋氏系譜」によれば、久義(尚義)は天性不覚悟であったために、天文十九年(1550)家臣の大内定頼によって四本松城の二の丸に幽閉され、久義に代わって定頼が四本松城主となった。のち久義は浪人となり、天正五年(1577)に死去した」と記されている。他方「奥陽仙道表鑑」には「石橋久義は大内能登守・石川弾正・寺坂山城守・沢神但馬守などによろずの政事を行わせ、自身は歓楽を事としたため、(中略)家中は分裂し、松丸は一族の者に擁されて相馬氏を頼んで中村に落ちたことで石橋氏は滅亡した」とみえている。
 その他、さまざまな説がなされているが、石橋塩松氏は天文末年ごろに家中の離反と内訌によって危機に瀕するなか大内備前に実権を委譲し、永禄十一年(1568)に至って大内備前が田村氏に内応したことで、ついに滅亡したものと考えられる。その後の元亀三年(1572)ころの葦名盛氏書状に見える「塩松」は、大内氏をさしたものであろうとされている。

下剋上で、戦国大名に

 『小浜町郷土読本』によれば、永禄十二年三月、大内備前は父能登および石川弾正・寺坂信濃らと共謀して石橋家の老臣大河内備中を讒訴し、ついには殺害した。さらに天正九年春に久義(尚義)が死去したことで、幼主石橋松丸を追って、四本松領を押領したとある。
 いずれにしろ、大内氏は永禄末から元亀初年のころに、主家石橋氏と宮森城の大河内氏を下剋上によって滅ぼし、国人領主として自立したのである。石橋氏に代わって塩松地方の実権を掌握した大内氏は、備前が宮森城を本拠とし、一族の豊後は長屋城、弥右衛門は糠沢城というように一族を要地に配し支配体制を整えた。そして、石橋家中の百目木城の石川弾正、寺坂城の寺坂三河、大場内城の大場内美濃、岩角城の石橋玄蕃らは大内氏に追随したという。
 塩松を領した大内氏は、当初田村氏の支配に属した。これは、大内氏の塩松支配が田村氏の支援によって実現した結果であろうと思われる。そして、天正二年(1574)のころ、大内備前義綱は田村清顕の使者として伊達輝宗のもとに出向いている。これは、二本松城攻撃を企図した伊達勢と窮地に立たされた二本松畠山義継との間を調停するという任務であった。調停の結果は明らかではないが、米沢に滞在した義綱は輝宗に謁し、晩餐の饗応を受けている。
 天正四年には、相馬義胤を攻めるため伊具郡に出陣した伊達輝宗の陣所に在陣した。これは、伊達と相馬両氏の調停のため塩松まで出張していた田村清顕の意を奉じて輝宗の陣に参じたものであろう。他方で、義綱の嫡子定綱が、畠山義継から田村と岩瀬二階堂の間について尽力を依頼されている。これらのことから、大内氏は田村氏に属しながらも、一定した政治的な独自性を保持していたことがうかがわれる。
 このころの伊達氏は相馬氏との戦いに明け暮れ、天正九年(1582)政宗は父輝宗に従って初陣を飾り、以来三年にわたり相馬氏との戦いに出陣した。天正十年の夏、伊達輝宗・政宗父子が相馬義胤を伊具郡小斎に攻めたとき、大内定綱は畠山義継とともに伊達氏の陣に参加した。そして、このころに大内定綱の娘と畠山義継の子息との婚姻が成立したようで、大内氏は田村氏からほとんど自立した存在として行動していたようだ。
 天正十一年(1583)春、田村清顕は伊達・相馬両氏の間の調停に努めた。しかし、それは容易に実現しなかった。このころ、清顕の麾下に属していた大内定綱は田村氏に対して本格的な反抗を開始するのである。『政宗記』などによると、岩城常隆が来襲したとき大内定綱・片平親綱兄弟も清顕に従って従軍したが、その陣中で田村清忠と親綱との家人同士の喧嘩が起きた。ところが、その処分の仕方に不満を抱いた定綱は清顕に背くようになったと記している。

田村氏との抗争

 大内兄弟の離反は、田村勢力圏であった塩松領の脱落ということであり、田村氏としても見過ごしにはできなかった。かくして、天正十一年、大内氏と田村氏との間で激戦が交えられた。大内定綱は二本松畠山氏の加勢を得て、田村方の石川弾正の百目木城に押し寄せた。勢いに乗った大内勢は百目木城の本丸に攻め寄せたが、石川弾正の必死の反撃によってたちまち突き崩され命からがら宮森へ敗走した。
 石川勢の勝報に接した田村清顕は塩松全体を攻め取ろうとして、一族らを率いて出陣し、塩松の唐矢城を包囲した。唐矢城には石橋志摩守・同因幡守・沢神民部少輔らが籠っていて、田村勢の攻撃をよく防ぎ、田村方は手負いが増えるばかりで、容易に唐矢城を攻略することができなかった。結局、田村清顕は城を落すことができず、兵を引き上げるしかなかった。
 翌天正十二年、田村清顕は千騎ほどの軍勢を率いて塩松領の西新殿まで攻め寄せた。大内方はこれを十石畑に迎え撃ち、朝から夕刻まで激戦を展開、次第に大内方の優勢となり、田村氏は敗れて首百五、六十を討ち取られた。敗戦の屈辱を雪ぐため田村氏は初森に砦を構えて大内方に対峙したが、攻め寄せた大内勢によって砦は落ち、守将の式部少輔は生け捕られた。
 たびたびの敗軍に、田村方は態勢を立て直して塩松領に攻め寄せたが、これも迎撃した大内方の勝利に終わった。この情勢に際して、田村清顕は千石森に出馬し新城を築き大内氏に対したが、定綱は町人・百姓までを動員して千石森に攻め寄せ田村方の首八百ほどを討ち取る大勝利を得た。これらの勝利によって、大内定綱の武勇は仙道中にとどろき、かつて田村氏に味方して大内方を撃退した石川弾正も百目木に逼塞し、東安達は大内定綱の武威に従うところとなった。
 やがて、相馬氏と伊達氏との間に和睦がなり、政宗は輝宗の譲りを受けて、天正十二年十月、若冠十八歳で伊達氏十七代の家督を継いだ。定綱は政宗の家督相続を祝うため米沢に参候し、伊達氏の傘下に入って奉公したいと申し出た。さらに、定綱は屋敷を賜わりたいと言い、米沢で越年した上、妻子を伴いあらためて参上するといって小浜城へ帰った。しかし、冬が去り春が訪れても米沢へは帰らなかった。

伊達氏に反抗

 この定綱の行動に不審をいだいた政宗は使者を差し向けたが、定綱は全くこれに応じなかった。定綱がこのような行動に出たのは、小領主の哀しさで葦名氏ら反伊達勢力の圧迫に大内氏が抗しきれなかったことと、反伊達連合軍の陣容に伊達氏につくことの不利を感じたためらしい。
 政宗にしてみれば腹も立ったが、大内定綱を攻撃すれば、佐竹・葦名・岩城・石川・白河結城氏らの諸家を敵にまわすことになる。政宗は使者を送って米沢への参候を促し、人質差し上げのことを促したが、いずれも定綱は拒否した。そればかりか、大内一族の大内長門は使者に向かって悪口を浴びせた。
 この報に接した政宗は、定綱退治を考えるようになった。政宗にすれば、反伊達連合軍に対抗するためには、伊達領と田村領との間にある大内氏を取り除くことは戦略的意義からも早急に対処すべきことであり、加えて、定綱をそのままにしておけば近隣諸国からの侮りをうけかねないものであった。とはいえ、先述のように葦名氏ら反伊達連合軍への対応を怠りなく進めることは不可欠のことであった。
 そのようなところへ、田村清顕から大内定綱征伐の願いがもたらされた。しかし、大内定綱の背後には会津の葦名氏が控えていたため、政宗は大内氏のことは田村に任せて、会津葦名氏攻めを企図した。このころ、葦名氏の当主は幼い亀若丸で家中は動揺していた。政宗はまず桧原を攻撃し、猪苗代盛国に内応を勧めた。
 そして、天正十三年八月、兵を催して大内領の小手森城を攻撃目標として殺到した。伊達・田村連合軍の小手森城攻めに対して、大内定綱も小浜城から小手森城に乗り込んだ。小浜城に来援していた葦名・二階堂・畠山氏らの軍勢も小手森城付近に兵を進めた。
 伊達方の攻撃に対して小手森城は鳴りをひそめていたが、やがて夕刻となり伊達勢が引き揚げようとしたとき、城兵がこれに攻めかかった。援軍の葦名・畠山勢も進撃し、伊達勢は挟撃される形となった。政宗は軍を三つに分け、一隊を城兵に、一隊を援軍に、残る一隊はその間に陣取り、旗本および足軽鉄砲らを山ぎわから敵勢を押し切るように撃ちかけさせた。この政宗の布陣に、城兵・援兵ともに敗れ、日没とともに双方兵を引きあげた。定綱は城兵を部署して自身は小浜城に帰った。翌日、伊達勢は小手森城を攻めたが、城兵・援兵ともに動かなかった。その翌日も戦線は動かなかった。ついに三日目に至って、政宗は伊達成実・留守政景らに総攻めを下知した。
 かくして、伊達勢は小手森城に攻めかかり、成実は火を放ち、折りからの強風に煽られた火は小手森に吹き上げ、火の手は城中のそこかしこに燃え移っていった。この戦いで政宗は籠城の将兵はもとよりのこと、女子供まで八百有余人を一人あまさず斬殺せしめ、城内の生あるものは牛馬の類まで切り捨てる「なで斬り」と称する大殺戮を敢行したのである。この政宗の呵責ない姿勢に恐怖した定綱は、頼みとした葦名氏の救援を得られぬまま小浜城に火を放って、二本松に走り、さらに葦名氏を頼って会津へと落ちのびた。

反伊達連合軍と政宗の戦い

 これがきっかけとなって、伊達政宗の二本松畠山氏攻略が開始され、畠山氏は伊達氏の攻撃に降った。政宗は畠山氏の所領のほとんどを取り上げたため、畠山義継は伊達輝宗に政宗への取りなしを依頼したが、それもかなわなかった。窮した義継は輝宗を人質として二本松城に引き揚げ、政宗に抵抗しようとした。
 輝宗が拉致されたことを知った政宗は逃げる義継一行を追い掛け、父もろともに義継らを射殺したのである。そして父輝宗の葬儀をすました政宗は時を移さず、二本松城に押し寄せ攻撃したが、畠山国王丸を擁する二本松勢は政宗の攻撃をよく防いだため、政宗は先に大内定綱を逐った小浜城に一旦兵を引き揚げた。
 二本松城を政宗が攻撃したことを知った反伊達連合軍は、三万の兵を動員して二本松城救援の軍を発した。天正十三年十一月、政宗軍と反伊達連合軍は人取橋で激突し劣勢の政宗軍は苦戦を強いられたが、よく連合軍の攻勢を跳ね返した。この戦いは「人取橋の合戦」とよばれ、政宗と伊達軍の武名を奥州に鳴り響せる戦いとなった。
 翌天正十四年には二本松城は落城し、畠山国王丸は葦名氏のもとに逃れた。伊達政宗の勢力は日を追うごとに盛大なるものとなっていった。天正十六年、大内定綱は苗代田に侵攻した。これに対して伊達政宗は、片倉景綱と守屋伊賀を安達・安積に派遣し、四月、本宮において会津葦名・須賀川二階堂の連合軍と伊達軍との間で戦いが行われた。続いて七月にも伊達軍と反伊達連合軍とは安積郡窪田で戦った。この戦いは「郡山表の戦い」と呼ばれ、片倉景綱の奮戦が知られ、伊達軍は数にまさる連合軍の攻撃を小勢よく撃退することができた。
 ここに至って、大内定綱は政宗に反抗を続けている愚をさとり、片倉景綱・高野壱岐を介して、定綱は弟片平親綱を伴って伊達氏に罪を謝して臣従を誓った。ここに、佐竹・葦名・相馬・二階堂らの反伊達連合軍に対し、伊達・大崎・田村・大内の連合体制が成った。そして、政宗は会津葦名氏攻撃を決し、作戦を開始した。一方、反伊達連合軍は政宗の南進を阻むための体制を整え伊達軍の進攻に備えた。

伊達政宗に帰服する

 伊達政宗に仕えた大内定綱は、政宗の忠実な一部将として行動し、天正十七年六月、葦名氏と伊達氏が雌雄を決した摺上原の合戦には策を献じている。そして、自らも中軍左翼隊の将として奮戦、勝利に貢献した。会津黒川城が落城したのちは、安積郡安子島の守備にあたり、間もなく、伊達家歴々の重臣とともに御礼衆として黒川城に参候した。十月には、政宗に抵抗する二階堂氏の須賀川城攻めに兄弟ともに参陣し雨呼口の先手を勤めた。
 天正十八年(1590)の小田原征伐、つづく奥州仕置によって豊臣秀吉の天下統一が成った。伊達政宗を取り巻く情勢は一変し、それは定綱ら戦国時代を生き抜いてきた人々を取り巻く状況も大きく変動させた。
 以後、定綱は豊臣大名の一員となった伊達政宗に属して葛西・大崎一揆討伐に従軍して、宮崎城の戦いでは敵の勇者千葉弥平左衛門を十字槍で仕留める武功をあげ、戦後、胆沢郡二十余郷を拝領して前沢に住んだ。文禄の朝鮮の役、慶長の白石の役にも従軍して活躍した。政宗が秀吉に仕えて伏見に住したおりには、定綱も伏見に詰めた。
 その子備前重綱に至って伊達氏の一族に列せられ、登米郡西郡村を宛行われて、千三百五十石余を知行した。弟の片平家も一族に列して加美郡谷地森村に在所して千四百二十余石を知行し、それぞれ、子孫は伊達藩士として続いた。・2006年2月14日

参考資料:福島県史/岩代町史/三春町史 ほか】


■参考略系図
 
 


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