遠藤氏
藤の丸/三つ引両 (藤原氏後裔)
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藤原南家の流れで、遠藤武者盛遠すなわち文覚上人を祖とする。後裔の遠藤盛継が応永八年(1401年)鎌倉公方より志田・玉造・加美三郡の奉行に任じられて陸奥国に下向して、志田郡松山城に居城し、応永11年志田千石村に万年寺を創建している。
盛継の子盛定は、永享の乱で鎌倉公方足利持氏に属し、のち志田郡松山に帰って、伊達持宗の麾下となった。以後、盛行−行定−光定と続いた。戦国時代の松山地域は、西の大崎氏、東の葛西氏の接点にあり、さらに、南からは伊達氏の勢力がせまってくるという微妙な状況に置かれていた。天文五年の「大崎氏の内乱」に際して、光定は伊達稙宗に従って古川城攻撃に参陣しており、このころには、伊達氏の傘下に入っていたものと思われる。光定の嫡子定親は伊達稙宗・晴宗に仕えて、一族に列せられ、三引三段頭紋を賜った。伊達家中を二分した「天文の乱」では晴宗方に付き、松山内の旧領を与えられた。
遠藤氏の居城松山城は別に千石城とも称され、伊達最北端の要衝守る城として、整備された。千石城を有名にしたのは、天正十六年(1588)の「大崎合戦」であった。大崎氏は内訌の多い家で、天文の内乱を伊達氏の支援によって解決したのちも、とかく内乱が続いた。
とくに戦国時代末期、最期の当主となった大崎義隆の代に、義隆の寵童同士の反目を発端として、主流、反主流派の二派に分かれて家臣団が対立した。それに伊達政宗が介入したことで、大崎氏と伊達氏との一大争乱に発展したのである。
伊達政宗は、留守政景と泉田重光を大将に命じて、一万数千の兵を率いさせて大崎領に進攻した。伊達勢が大崎方に対する前進基地としたのが千石城で、当時、定親の子高康が城主であった。千石城に集結した伊達勢は、大崎方が本城とする中新田城攻略の軍議を催し、泉田率いる先陣と留守率いる後陣とに分かれて中新田城に進軍した。かくして、大崎合戦が展開され、結果は伊達軍のまさかの敗北に終わったのである。
天正十八年(1590)、小田原城を攻略した豊臣秀吉は奥州に駒を進め、奥州仕置を行った。その結果、小田原参陣を怠った大崎・葛西氏らは所領没収の処分を受け、小田原に参陣したとはいえ、秀吉の奥州惣無事令に違反した伊達政宗は南奥の領土を収公された。その後、奥州は太閤検地が行われたが、それに反抗する大崎・葛西氏の遺臣らが一揆を起した。「大崎・葛西一揆」と呼ばれるもので、蒲生氏郷とともに政宗は一揆討伐を命じられた。
一揆討伐に際して政宗は、千石城を前線基地とした。一揆制圧後、大崎・葛西旧領は政宗に与えられ、遠藤氏は志田郡松山領から登米郡石森村に知行替えとなり、千石城には石川昭光が配されたのである。その後、遠藤氏は石森村桃生郡相野谷に移封され、一千石を禄し子孫相次いだ。
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もう一つの遠藤氏
仙台藩に仕えた遠藤氏に、山城守基信家がある。基信は、藤原姓伊達掛田兵庫頭俊宗の一族で、米沢の伊達山伏藤原役行者流の修験者、伊達郡八丁目西水原西光寺住職を努めた役行者金伝坊の子。
伊達家宿老の中野宗時の主簿の吏となり、後輝宗に認められて近臣となった。勇敢にして奇才があった。さきに仕えた中野宗時は奢侈無礼を極め、のちに追われて越後に出奔した。そのとき、多くの家臣が中野に従ったが、基信の説得でのちにそのほとんどが帰参したという。天正13年米沢で輝宗の訃報に接した基信は大いに悲しみ、輝宗の葬儀の日に殉死しようとしたが政宗に制止されてはたせず、その百ケ日忌辰の日に輝宗墓前で自裁した。享年54歳であった。
その子が宗信で、17歳で家督を継ぎ、政宗に仕えて宿老となる。天正16年六月、佐竹・葦名連合軍来攻のときには富塚近江とともに塁を守り、同17年佐竹・岩城軍が田村の地を侵したときには田村城を守った。文禄朝鮮の役に従軍し大功をあげたが、故あって出奔。のち富塚・高野・鈴木氏ら伊達家の武将に諭されて帰参した。文禄二年、二十二歳で、京都室町の旅寓に病死した。そのあとは、弟の式部少輔玄信が継ぎ、玄信は慶長十九年に奉行職となった。
■参考略系図
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■伊達世臣家譜から作成した遠藤氏系図
■遠藤基信家
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