片倉氏
九曜/ばら藤に井桁
(藤原利仁流加藤氏裔/神氏?) |
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片倉氏は加藤判官景廉を祖とし、その末孫が信州片倉村に住して片倉氏を称したことに始まるという。建武年中(1334〜37)奥州探題職に任ぜられた斯波(大崎)氏に従って奥州に入り、天文年間(1532〜54)片倉景時の代に伊達晴宗に仕え世臣となった。
『古代氏族系譜集成』に収録されている「片倉氏系図」は、その祖を金刺舎人後裔の諏訪大祝である繁名に求め、為重のとき片倉郷に住したとある。そして、景春が斯波家兼に属したとしている。いずれが、正しいのかはいまとなっては分からないが、白石片倉氏系譜も金刺氏を祖としている。
小十郎景綱の登場
片倉氏で有名なのは、政宗に仕えた小十郎景綱であろう。景綱の父は米沢八幡の神職で、母は片倉家家臣本沢刑部の娘直子であった。直子はさきに茂庭左月良直に嫁いで政宗の乳母となった多喜子と、政宗麾下で勇名の高い茂庭綱元をもうけている。良直と別れてのちに直子は多喜子を連れて米沢の成島八幡神社神官片倉景重と再婚した。そして、景重と直子の間に生まれた男子が小十郎景綱である。景綱には若き頃より異才があり、これを見抜いた伊達輝宗の近臣遠藤基信が輝宗に推薦し、のちに政宗の傳役となった。
政宗は幼いとき疱瘡にかかり、それが原因で右の目がつぶれて醜かったので、内向的な性格の少年であった。伊達家当主となるべき政宗の内向的な性格を改めるため、景綱は醜く潰れて残る右目を小刀で突きつぶし奉った。荒療治ではあったが、それを機に政宗の内向的な性格は次第に改まっていったと伝えられている。
天正十二年(1584)、政宗は十八歳で家督を相続した。翌、天正十三年、非礼のあった大内定綱を政宗が攻めたとき、景綱もその陣に加わり小瀬川あたりで大内氏の兵と戦った。大内氏は二本松の畠山氏を頼ったため、政宗は二本松城を攻撃し畠山氏を降した。政宗に降伏した畠山義継はわずかの領地を許されるばかりの処分を受け、輝宗に政宗への取りなしを頼んだがならず輝宗を人質として二本松城に逃れようとする事件が起こった。
急報に接した政宗はただちに畠山一行を追撃したが、父が人質のためただ後を慕うばかりだった。しかし、二本松城に逃げ込まれれば万事窮すとなる。ついに政宗は父もろともに畠山義継を討つことに決し、鉄砲隊に一斉射撃を命じて畠山主従を討ち取った。父、輝宗も義継に刺されて死んだ。事件の経緯はさまざまに伝えられるが、政宗が父輝宗を非業のなかに死なせたことは変わりない。
政宗、奥州制覇の戦い
政宗はただちに二本松城攻略の軍を発したが、畠山国王丸を擁する二本松勢の抵抗は激しく、さらに佐竹・葦名らの反伊達連合軍三万余が二本松城救援に動き、政宗は八千の兵をもって連合軍を迎え撃った。「人取橋の合戦」とよばれる戦いで、劣勢の伊達軍は鬼庭良直・伊達成実・片倉景綱らがよく奮戦し良直は戦死するなど、両軍死力を尽くしての激戦となった。やがて連合軍は撤退をはじめ、この合戦は痛み分けという形で終わった。しかし、小勢の伊達軍が連合軍と互角以上に戦ったことで政宗の武名は奥州に鳴り響いた。
翌年、二本松勢が出撃し伊達成実が守る渋川城を攻撃した。畠山勢は一応の勝利を収めたものの、以後、家臣団が分裂し成実を通じて政宗に内応する者も出てきた。成実からの報告を受けた政宗は片倉景綱を増援軍として派遣した。この事態を察知した畠山勢は片倉勢を急襲した。不意を打たれたこともあって景綱らは必死の防戦に努め、ようやく危機を脱することができた。しかし、二本松勢の反撃もここまでで、その五ヶ月後に相馬氏の仲介を入れた畠山氏は城を開城し、城主国王丸らは会津へ落ちていった。その後、二本松城将に景綱が任じられ、畠山義継時代同様に仕置することを命じられて入城した。まもなく、伊達成実と交代して大森城主となった。
天正十六年、大内定綱が苗代田に侵攻したため、景綱は守屋伊賀とともに安達・安積へ派遣され、四月、本宮において会津・須賀川勢と戦った。続いて七月、政宗は反伊達連合軍と安積郡窪田で戦った。
この戦いは「郡山表の戦い」と呼ばれ、景綱も奮戦し、伊達軍はよく連合軍の攻撃を撃退することができた。翌十七年、永年政宗に反抗を続けていた大内定綱が降伏してきたことで、佐竹・葦名・相馬・二階堂らの反伊達連合軍に対し、伊達・大崎・田村・大内の連合体制が成った。そして、政宗は会津葦名氏攻撃を決し、作戦を開始した。一方、反伊達連合軍は政宗の南進を阻むための体制を整え伊達軍の進攻に備えた。
摺上原の戦い
五月、政宗は行動を開始して安子島城を落とし、ついで高玉城を落とした。そのころ、磐城常隆と相馬義胤が結託して田村領に侵攻して略奪をほしいままにしていた。政宗はそれに対応すると見せ掛けて、相馬方の駒ケ峯城を攻撃してこれを落とし、さらに新地城を急襲してこれも落とした。両城は、宿年の伊達・相馬両氏の係争の地で、これを落としたことで政宗の福島中通の勢力保持と、会津葦名氏攻略において相馬氏による背後からの攻撃行動を阻止しうる戦略的要地を押さえることができたのである。
五月下旬、葛西・大崎両氏から鉄砲衆五百人が援軍として景綱の守る大森城に到着した。そして、景綱・伊達成実に命じて猪苗代盛国の調略が進められ、盛国は伊達方に内応することを約した。ここに、政宗の葦名氏攻略の準備は完了した。
このような政宗の動向に、葦名・佐竹氏らも注意を払い、両軍は須賀川に集結しつつあった。五月二十八日、連合軍は岩瀬・安積の郡境、郡山南方の滑川付近にまで進出した。
六月四日政宗は猪苗代湖北方の摺上原に陣を進めた。これに対して猪苗代盛国の謀叛の報を受けた葦名義広は夜を徹して軍を黒川にかえし、休む間もなく、摺上原に軍を進めた。こうして六月五日、両軍は摺上原で激突したのである。伊達軍は猪苗代城で休息をとっており、一方の葦名軍は須賀川から夜行軍で休息を取る間もなく戦いに臨んだ。葦名氏にはまことに不利な状況であったが、緒戦は葦名軍が善戦した。しかし、謀叛の風評がとぶなどして葦名軍は総崩れとなり、政宗は敗走する葦名軍を追って黒川城に迫り、義広は佐竹氏をたよって落ちていった。こうして、摺上原の戦いは伊達軍の圧倒的勝利に終わった。この戦いに片倉景綱は伊達軍の二番手の将として、伊達成実とともにその奮戦は際立っていた。
会津葦名氏を滅ぼしたことで、伊達政宗は一躍奥州の覇者となった。しかし、この戦いは豊臣秀吉が発した奥州総無事令に反するものであり、政宗は秀吉から処罰の対象となったのである。
戦国時代の終焉
翌天正十八年春、秀吉は小田原征伐の軍を発した。この秀吉の軍事行動は小田原北条氏を降したのちに、奥州の仕置すなわち伊達政宗の討伐を企図するものであった。この事態に、政宗は秀吉何するものぞと意気軒昂で、伊達成実もいまさら秀吉の許しを得ることはかなうはずもなく徹底抗戦あるのみという立場であった。しかし、片倉景綱は、豊臣秀吉に抵抗する愚を政宗に説いて、小田原参陣を決意させた。
この景綱の献策によって、危ないところで政宗は秀吉から許され、豊臣大名として存続することができたのである。しかし、政宗は会津を中心とした南奥州の領地を没収され、岩出山城へ移ることを命じられた。命は助かったとはいえ、秀吉に抵抗した代償も大きかったといえよう。景綱は亘理城を与えられ、以後、伊達政宗の参謀長的立場で重用されることになる。
文禄の役にも出陣し、秀吉から軍船小鷹丸を賜り、秀吉から三春五万石に封じようと誘われたが固持している。一方、戦国武将として非情な面も有していた。慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに際して、上杉景勝が最上義光を攻め、窮地に陥った義光は伊達政宗に応援軍を求めた。このとき、景綱は山形城は犠牲にして上杉・最上両軍の双方が疲れたところを討ち取るべしという策を政宗に建言した。このとき、山形城には政宗の母が居ることを知っての建言であり、さすがの政宗も景綱の言を退け、留守政景を将として援軍を最上氏に送った。
慶長七年、刈田郡白石城主となり一万六千石を知行した。一国一城令により、伊達領内で城として公認されたのは仙台城ろ、この白石城だけであった。白石城は、伊達領の南部国境に位置する要地であった。この地を与えられた片倉氏の使命は重要なものであり、政宗の信頼がそれだけ景綱に厚かったことを示すものである。景綱も政宗に真摯に仕えていた。あるとき、徳川家康が邸を江戸に与えようとしたときも固辞するなど、さきの豊臣秀吉の厚遇のときもだが、みずからを伊達氏の世臣としての地位をよくわきまえた人物であった。ちなみに、白石領の実収は十万石に当たったといい、片倉氏は立派な大名並の存在であった。
伊達氏一家に列す
片倉景綱は元和元年(1615)享年五十九歳をもって死去し、そのあとは嫡子の重長(重綱)が継いだ。
重綱は慶長五年の白石の陣に父景綱とともに出陣、同十九年、大坂冬の陣には伊達軍の先鋒として千余人を率いて出陣した。道明寺口で後藤基次・薄田隼人正の軍と戦い、これを大破した。このときの重長の奮戦は際立っていて、以後、「鬼の小十郎」と称されるようになった。しかし、徒で敵軍の中に攻め込み組み討ちで敵武者の首を挙げたが、危ない場面もあった。
のちに、この重長の奮戦のことを聞いた景綱は「武士には将たる器、武者、歩卒の器というものがある。一軍の将たる者、乱戦の中で組み討ちを演ずるなど慮外の極み(後略)」と大目玉を食らわしたと伝える。若気の至りがあったとはいえ、重長は父に劣らぬ器量・武略をもつ人物であった。また、素晴らしい美男子であったといい、初めて上洛した重長を見た大坂城内は大騒ぎとなり、小早川秀秋は重長を追い回したという逸話を残している。
また、重長の妻は真田幸村の娘として知られる。大坂の陣に真田幸村は大坂方として活躍したが、夏の陣における重長の人間像を見込んだ幸村が娘を託したのだという。そのとき、重長には室がいたが、その後、他界したため大坂から奥州に伴った幸村の娘を妻に迎えたのだといわれている。
慶安四年(1651)片倉氏は伊達一家に列せられ、万治二年(1659)重長は享年七十六歳で死去した。子孫は、白石城主として代々封を受け継ぎ、明治維新を迎えた。
■参考略系図
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二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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