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奥州石川氏
対い鶴/笹竜胆
(清和源氏頼親流)
*書物によれば笹竜胆を掲載しているものもある。


 石川氏は『尊卑分脈』などによれば、清和源氏頼親流と伝えられている。すなわち、大和守源頼親の三男頼遠の子有光を祖とする。有光は摂津国物津荘に生まれ、はじめ物津冠者、のち柳津に移住して柳津冠者と称した。
 永承六年(1051)、有光は父頼遠とともに陸奥守源頼義に従って奥州に下向、「前九年の役」に従軍したと伝えられる。その軍功により源義家の代官として陸奥国石川郡泉荘の支配を委ねら、康平六年(1063)、有光がこの地に下向し三芦城を築城して居住し石川氏を称して土着したのだという。以後、石川氏は奥州藤原氏、常陸の佐竹氏らと関係を結びながら勢力を扶植していったようだ。石川郡玉川村にある国重要文化財の石造五輪塔は、治承五年(1181)に有光の子基光のために造立されたものと伝えられている。
 系図によれば有光の孫の代に沢田・大寺・小高氏が、また曽孫の代に坂地・河尻・矢沢氏など庶子が分立、平安末から鎌倉前期にかけて惣領を中心とする石川一族が石川荘内の村々に繁衍していったことが知られる。文治五年(1189)、源頼朝による奥州藤原氏攻めが行われた。鎌倉から下った源頼朝は石川氏のもとに立ち寄り、石川氏の氏神である川辺八幡宮に戦勝祈願をしたという伝説がある。すでに石川氏が南奥土着の豪族として、一勢力を築いていたことをうかがわせる。
 鎌倉幕府が成立すると石川氏は幕府御家人となったが、北条氏が勢力を強めてくると、次第にその下風に立つようになっていった。そして、鎌倉時代中期ころには、執権北条氏の家人つまり御内人になるにいたった。一方、石川庄の地頭職も北条氏が掌握するところとなり、石川氏はその地頭代として北条氏との結びつきを強めていった。鎌倉後期の当主家光・時光父子の母はともに北条氏の出で、かれらは北条氏の邸で元服の式を挙げている。また、元亨三年(1323)、北条高時が父貞時の十三回忌法要を行ったとき、石川氏はお布施役を務め、一族の多くが馬を献上している。しかし、正慶二年(元弘三年=1333)新田義貞が討幕の兵を挙げるとこれに応じ、鎌倉および奥州安積郡佐々河城の攻撃に参加している。

南北朝の内乱

 元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅亡して建武新政が成ると、石川時光は上洛して新政権に参加した。翌年にも時光は再び上洛しており、石川氏はかつての北条氏との深い関係をふりきって、いちはやく新政権に応じたのである。しかし、石川一族に対する新政府の処遇は冷たく、陸奥守北畠顕房は石川一族が知行してきた鷹貫・坂地・矢沢の三郷を結城宗広に宛行っている。
 このような石川氏に対する冷遇は、鎌倉攻めの功にもかかわらず、鎌倉時代における北条氏との親密な関係が新政下においてもマイナスに影響した結果であろう。このことが、石川氏を新政権から遠ざける要因となった。
 建武二年(1335)十月、中先代の乱をきっかけに足利尊氏が新政に反旗を翻すと石川氏は尊氏に加担した。新田義貞を将とする討伐軍を箱根に破った尊氏は京都を制圧したが、ほどなく北畠顕家の率いる奥州軍と戦って敗れ九州に落ちていった。時光の嫡男義光はこれに従い、九州で態勢を立て直した尊氏はがふたたび京都に攻め上ると、義光も一方の将として湊川合戦に奮戦した。しかし、その後の比叡山坂本の合戦において討死した。
 一方、石川庄では白河結城氏との間で緊張が高まり、ついに戦闘へと発展した。建武二年から三年にかけての戦いでは、石川貞光が一族を率いて広橋経泰の率いる岩城・岩崎勢を迎え撃ち、さらに白河城を攻撃している。しかし、白河結城氏による石川庄への侵攻も盛んで、双方、合戦を繰り返した。
 このようにして、南北朝時代における石川氏の行動は隣接する結城氏との対抗関係に貫かれ、北朝方としての時期が多かった。しかし、白河結城氏が北朝方に転じ、南奥の有力者として一大勢力を築き上げると、石川氏は次第に劣勢に立たたされるようになった。

奥羽の戦乱

   南北朝の争乱期は、惣領に対する庶子家の自立化が進み、石川一族も例外ではなく庶子の独立傾向が強かった。また、関東を重視する足利氏は、鎌倉府を置いて関東八ヶ国と甲斐・伊豆のを統轄させた。そして、鎌倉府の首班である鎌倉公方は、足利尊氏の子基氏の子孫が世襲し、それを管領上杉氏が支えるという体制が調えられた。
 やがて、明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、半世紀以上にわたった内乱に終止符がうたれた。幕府は奥羽二州を鎌倉公方の足利満兼にゆだね、応永六年(1399)、満兼は奥州の出先機関として稲村に足利満貞、篠川に足利満直を下向させた。ここに奥州は新たな時代を迎え、応永十一年(1404)、稲村公方足利満貞と篠川公方足利満直とに忠誠を誓った傘連判状が交されたが、そこには面川掃部助光高、中畠上野介師光、小貫修理亮光顕、蒲田長門守光重ら石川一族とみられる十人の名前がみえている。
 ところで、鎌倉府の組織は幕府とほぼ同じで、与えられた権限も大きかったため、代々の鎌倉公方は幕府に対抗姿勢をとることが多かった。それをよく諌めて、幕府との協調につとめたのは管領上杉氏であった。やがて、足利持氏が鎌倉公方になると、管領上杉氏憲(禅秀)と対立を深め、応永二十三年、禅秀は与党を募って反持氏の兵を挙げた。乱は幕府の支援をえた持氏の勝利に終わったが、持氏は禅秀与党の討伐に狂奔し、ついには京都扶持衆までも討伐するようになった。
 持氏の行動を警戒した幕府は篠川公方満直と結び、また白河氏・宇都宮氏らを支援して鎌倉府を牽制した。石川氏は鎌倉府方として京都扶持衆の白河氏と対立し、正長元年(1428)、石川駿河守義光は白河氏朝と戦い敗れて討死した。篠川公方満直は石川義光ならびに一族の所領を白河氏に与えたが、石川義光の子持光は鎌倉公方持氏から所領安堵を受けている。以後、持光は白河氏との抗争を続けたようだが、鎌倉府方は次第に劣勢となっていった。

白河氏の全盛

 その後、鎌倉公方持氏と幕府との対立はさらにエスカレートして、永享十年(1438)、持氏が幕府寄りの管領上杉憲実を攻めたことから永享の乱が起った。幕府は篠川公方満直や南奥の国人衆、さらに駿河の今川氏らに上杉憲実の支援を命じた。敗れた持氏は鎌倉に幽閉され、翌年、自害して鎌倉府は滅亡した。翌永享十二年、結城氏朝が持氏の遺児兄弟を擁して兵を挙げたが、それも幕府軍によって鎮圧され、一連お関東の争乱は終止符がうたれた。この結城合戦のなかで、篠川公方満直が南奥の国人衆らによって攻め殺されたが、これに石川氏も何らかの形で関与していたようだ。
 禅秀の乱から結城合戦と続いた関東の戦乱において、足利将軍家が南奥の国人諸氏に下した御内書には、白河氏と談合して事を行うよう命じたものが多かった。このことは、白川氏が幕府から南奥の覇者として認められていたことを物語っている。当時の白河氏の当主は直朝で、那須家の内訌を調停し、内訌に悩む佐竹氏を援助するなど、関東諸氏にまで勢力をおよぼした。
 石川氏に対しても優位に立つ直朝は、文安六年(1449)ころ、石川一族である蒲田氏の蒲田城を破却し、石川蒲田氏の所領とその文書を没収した。ここに、石川氏の有力一族であった蒲田氏は没落となった。
 その後も白河氏の全盛は続き、文明十六年(1484)のころには、石川一族の赤坂・大寺・小高の三氏が氏をかえ家紋を改めて白河政朝に従った。そのころ伊達成宗は、石川宗光と白河政朝との合戦にふれて白河氏に書状を呈している。石川氏は白河氏に圧迫され続けていたようで、以後、しばらく石川氏の動向は詳らかではなくなる。

戦国時代の石川氏

 十六世紀になると、さしもの強勢を誇った白河氏も一族の内紛から勢力を後退させていった。その結果、石川氏に対する脅威は白河氏から田村・葦名両氏へと転換していったようだ。天文三年(1534)、石川氏は、伊達・葦名・二階堂の連合軍に参加して白河領に兵を出している。このころになると、石川氏の大敵は三春の田村氏となっていたようだ。。『奥相茶話記』によれば、天文〜永禄(十六世紀中葉)のころに活躍した田村隆顕が石川六十六郷を手中に収めたと記されている。茶話記の記述をそのままに信じるわけにはいかないが、石川氏領が田村氏の蚕食にさらされていたことは、まず間違いのないことであった。
 一方、このころ岩城重隆の家中において竹貫広光・同隆光らが老臣の位置にあった。かれらは名乗りからみて、石川氏の一族かその家中であった者たちとみられ、天文十年(1541)からあまりさかのぼらない時期に、石川氏を離れて岩城氏に属したようだ。このことは、旧石川領であった竹貫が岩城氏領に編入されたことを示している。
 このように、戦国時代の中ごろになると、石川氏の領地のうち東白河郡にかかる地域は、ほとんど白河、岩城両氏の領地と化し、石川一郡を確保することがやっとという事態になっていたのである。さらに永禄三年(1560)十月、寺山城が陥落したことで白川南郷が佐竹氏の手中に落ち、石川領は佐竹氏の脅威に直接さらされることになった。窮した石川晴光は、永禄五年、佐竹氏と妥協してその鋭峰を交そうとした。その一方で、翌六年には伊達氏から晴宗の子昭光を養子に迎え、伊達氏の力を背景として佐竹氏の支配に抵抗をしようとした。まことに一貫性に欠けた行動だが、弱小勢力である石川氏にしてみれば、やむをえない処世術であった。石川氏の弱腰をみた田村隆顕は、永禄八年、石川領を攻めたが晴光はよく田村勢を撃退している。
 翌九年、石川氏と境を接する二階堂盛義が葦名盛氏に屈服すると、石川氏領は葦名・佐竹両勢力の係争の場となった。かくして、永禄十一年、葦名・田村の連合軍が石川領に侵攻してきた。これをみた伊達輝宗は石川氏のために調停を試みたが、それは実現しなかった。

近隣諸大名に翻弄される

 元亀二年(1571)、佐竹義重が石川一族の中畠氏を攻めると、葦名盛氏父子・田村清顕がこれを迎撃しており、すでに石川氏領の実権は葦名・田村両勢力に握られていたようだ。このころ、石川一族の赤坂氏が佐竹義重に属し、天正元年(1573)には、同じく石川一族の浅川大和守が佐竹に属した。大和守は白河義親の浅川来襲を撃退し、石川昭光の佐竹服属の斡旋につとめた。このころになると、石川郡南部は佐竹氏に、東部および北部などの大部分は葦名氏の領有になってしまっていたらしい。
 天正六年五月、昭光は二階堂盛義と戦い、盛義と結んで石川領に来襲する田村清顕とも戦った。しかし、戦局は昭光に不利で、昭光は白河義親に斡旋を依頼し、義親から要請を受けた葦名盛隆の調停で両軍の講和が成立した。以後、石川昭光は、葦名・二階堂・白河・佐竹の連合勢力に対する結合と従属を深めていくことになる。
 その後、伊達政宗が登場したことで奥州の戦国時代は一変することになる。南奥の諸大名はそれぞれ姻戚関係にあり、合戦の勝敗はあっても、ほどほどの線で事態を収拾するということが多かった。しかし、政宗は奥州統一を目指しており、これまでの旧態然とした馴れ合い関係を否定したのである。伊達氏の家督となった政宗は、伊達から葦名に転じた大内氏の小浜城を一蹴し、ついで二本松畠山氏攻略の軍を起こした。その戦い振りは峻烈そのもので、着々と勢力を拡大していった。
 政宗の勢力伸張に対して、葦名氏と佐竹氏を中核とした反伊達連合軍が結成され、石川氏も連合軍の一翼を担った。そして、天正十三年(1584)連合軍は三万という大軍を動員して政宗に決戦を挑んだ。いわゆる「人取橋の合戦」で、政宗は八千の劣勢ながら連合軍と互角以上の戦いぶりを示し、勇名を奥州中に鳴り響かせたのである。天正十六年、連合軍はふたたび伊達政宗を攻撃するため郡山に兵を進めた。石川氏も連合軍に参戦し伊達政宗軍と戦ったが、連合軍はこの合戦でも劣勢の伊達軍を破ることができなかった。
 かくして、伊達政宗の武威はおおいにあがり、翌天正十七年、政宗は葦名氏攻略の軍を進めた。そして、伊達・葦名の両軍は猪苗代湖北岸の摺上原で激突、伊達軍の大勝となった。この一戦で、鎌倉以来の会津の名門葦名氏は滅亡し、伊達政宗は奥州の覇者に躍り出たのである。ここに至って、ついに石川昭光も伊達政宗に服属し、翌十八年には佐竹方の滑津城を攻撃している。

その後の石川氏

 天正十八年(1590)、天下統一を進める豊臣秀吉が小田原征伐の陣を起した。昭光は小田原参陣を果たそうとしたが、伊達政宗に行動を抑えられ、小田原参陣はできなかった。その結果、「奥州仕置」によって所領を没収され、石川氏は独立した大名として生き残ることはできなかった。
 こうして、昭光は伊達家に仕え一門の首座に列せられ、志田郡松山館に居住して六千石を領した。慶長三年(1598)、志田郡松山館より伊具郡角田城に移って一万石を領し、同八年、家督を嫡子義宗に譲り隠居した。ところが、慶長十五年に義宗が三十四歳で没し、幼少の嫡孫宗敬が跡を継いだため昭光は再び角田城に戻って政務を執った。
 元和元年(1615)の大坂夏の陣には、政宗に従って出陣して大坂道明寺口の戦いに奮戦、首級五を得る活躍をみせた。宗敬は政宗の愛娘を室とし、子孫は一門首座として伊達家中の最高位を幕末まで保持し続けた。


石川氏の家紋

 石川氏の家紋は『見聞諸家紋』をみると「舞鶴」が記載されている。石川氏の舞鶴紋に関しては、以下のような話が伝えられている。
 康平六年(1063)、陸奥国石川郡泉荘に下向した初代有光は、居城を築く地を探して日夜八幡神に祈った。ある日、芦が三本生える地に清水が湧き出でている夢を見た。目醒めた有光は、高台に登り夢に見た地を探した。すると、一羽の鶴が松の苗木を咥えて天に舞い、やがて松を落とすと飛び去っていった。有光がその地に行ってみると、そこには三本の芦が生えており、辺りには滾々と清水が湧き出ていた。求めていた地であると確信した有光は、ただちにその地に城を築いた。
 居城は三本の芦にちなんで「三芦(みよし)」城と呼ばれ、二十四代昭光に至るまでの約五百年間、石川氏の居城として存続した。また、築城にかかる鶴の啓示を吉祥とした石川氏は、「松の苗木を咥えた舞鶴」を家紋として用いるようになったのだという。
 三芦城は天正十八年(1590)に廃城となったが、城跡には陸奥の国一之宮・石川郡総鎮守石都々古和気神社が鎮座している。

●左写真:舞鶴紋(古都々古和気神社のサイトより)・右家紋:『見聞諸家紋』に見える石川氏の飛び鶴紋

参考資料:平田村史/矢吹町史/玉川村史/鏡石町史/石川郡誌 ほか】


■参考略系図
『尊卑分脈』『石川氏一千年史』の石川系図などから作成。  


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