茂庭氏
重ね剣菱*/丸に藤
(藤原利仁流斎藤氏族)
*茂庭家墓所に刻まれた意匠 |
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茂庭氏は、源平合戦に平家方の武将として白髪を染めて出陣したことで有名な斎藤別当実盛の後裔という。山城国に住んでいた実盛の後裔実良は奥州へ移住し、伊達家初代の朝宗に仕え、伊達郡茂庭村を領して鬼庭と称した。以後、代々伊達氏に仕えて戦国時代に至った。
茂庭良直の奮戦
戦国時代の当主は鬼庭左月良直で、伊達輝宗の命により父祖の地である茂庭村から出羽国置賜郡長井郷米沢川井村に移り住んだ。良直の名を後世に伝えたのが、天正十三年(1585)、伊達政宗が佐竹・葦名氏ら反伊達連合軍と戦った人取橋の合戦である。
この戦いは、連合軍三万余騎に対して伊達軍は八千余という劣勢で対峙したものであった。良直は政宗より指揮を命じられ、金色采幣を賜って合戦に臨んだ。連合軍は人取橋を渡ると、伊達軍の本陣観音堂山に迫った。良直は伊達軍の殿として力戦、首級二百余を挙げた。このとき、良直は老齢のため甲胄を着けるに耐えず、黄綿の帽子を着けてひとり乱軍の中にあり、その姿は連合軍の目標となって遂に岩城氏の家臣、窪田十郎と戦い討ち取られた。享年七十三歳であった。
ところで、左月の先妻は、片倉家家臣本沢刑部の娘直子で、二人の間に生まれた長女が、のちの政宗の乳母多喜子である。直子は多喜子を連れて米沢の成島八幡神社神官片倉景重と再婚した。景重と直子の子が、片倉小十郎景綱である。景綱は天正三年(1575)、輝宗の命で九歳の政宗の傳役になったことはよく知られている。
さて、良直の嫡子綱元は、父とともに人取合戦に従軍したが、父が討死したのち、父を討った窪田十郎が捕えられて綱元に預けられた。綱元は虜囚を斬るのは士道に愧じるとして十郎を釈放し、以後、十郎は綱元の家臣となった。
政宗の官房長官、石見綱元
天正十四年(1586)、綱元は奉行職になり、同十八年蒲生氏郷が政宗の行動に疑念を抱き秀吉に訴えたとき、綱元はいち早く京に遣わされ、中央の要人に鎮弁、和解に努めた。文禄の役のときには、肥前名護屋にあって物資輸送の任にあたった。朝鮮の陣において諸大名が物資輸送が不十分なため、多くの餓死者を出したが、伊達軍は綱元の開発した独自な兵站ルートにより一人の餓死者も出なかった。このように綱元は行政に通じ、政宗の官房長官的存在として活躍、厚い信任を得ていた。
その後、京都にあった綱元はその人柄が秀吉の気にいられ、鬼庭の姓を茂庭に改めるように命じられた。さらに、秀吉は綱元を気にいることが一方ならず「香の前」なる美女を綱元に与えた。
その後、綱元は政宗の不興をかって伊達家を出奔するが、慶長二年(1597)、許されて帰参、旧の通りに復した。綱元の出奔には、政宗近臣の讒言もあったようだが、何よりも秀吉への傾斜を見せる綱元の姿勢が政宗には許せなかったのであろう。しかも、天下の美女といわれる「香の前」を拝領したことへの政宗の男の嫉妬もあったとする説もある。伊達家に帰参した綱元は早速に香の前を政宗に献上し、これを喜んだ政宗は香の前に一女を生ませている。現代から見れば、女性を物のように扱っているとしか見えないことといえよう。
慶長五年(1600)の関ヶ原の役に際して、西軍に加担した上杉景勝の執政直江兼続が率いる上杉軍が最上に侵攻したとき、伊達氏からの援軍として最上に出陣した留守政景を支援するかたちで湯原城を攻略している。
綱元は国老であること数十年、その間、大坂両度の合戦にも老躯をおして出陣している。その職を辞するとき、養老の資として千石を附与された。寛永十三年(1636)政宗の死を送り、その四年後に九十二歳で没した。嫡子良元も重臣に列し、政宗・忠宗に仕えて国政に預かり一万三千石を治めた。
茂庭家は代々九十歳前後の長命の家系とされ、秀吉は綱元に長命の秘薬「湯の花」を献上させて茂庭石見綱元の名をとり、「石見湯」と名付けて朝夕飲んだ話は有名である。
■参考略系図
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