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伊東氏
九曜/庵に木瓜
(藤原南家工藤氏流)


 伊東氏は、藤原南家武智麿の後裔という藤原為憲を祖とする。為憲の父にあたる維幾は常陸介として東国に下向し、平将門の追討(天慶の乱)に功があった。天慶の乱後、為憲の子孫は東国に土着して武士となった。為憲は木工助であったことから、官途の「工」と藤原氏の一字を合わせて工藤大夫と称した。為憲の孫維景は駿河守として伊豆国狩野に住して狩野氏の祖となり、その子維職が伊豆国押領使として田方郡伊東の地に住し伊東氏の祖となったのである。
 維職の孫家次(家継)は狩野牧を領し、やがて久須美に居を移した。その孫工藤祐経は源頼朝に信任され、奥州征伐の功として、日向国の地頭職、陸奥国鞭指庄など二十四ケ国に所領を賜った。この祐経が、いわゆる「曽我の仇討」において曽我十郎・五郎兄弟に殺された人物である。そして、祐経の子祐長が安積郡を賜り安積伊東氏の祖となった。
 『伊達世臣家譜』に収められた伊東家譜には「将軍頼経から、祐長は奥州安積郡四十五邑を賜った」とみえ、『伊東氏家譜』では、建保二年(1213)の「泉親平の乱」における功により祐長は安積を領するようになったとある。双方、時代にずれがみられるが、いずれも祐長のときに安積を領するようになったことでは共通している。とはいえ、それぞれの伝に裏付けがあるわけではなく、伊東氏が安積郡を宛行われたのは奥州合戦における祐経の功によって賜ったものと考えるのが自然なようだ。そして、安積を領した伊東氏は安積を名字とするようになることから、祐長の代に安積に領したものと考えられる。

戦乱と安積伊東氏

 鎌倉幕府が滅亡して建武の新政がなると、奥州には陸奥守に任じられた北畠顕家が義良親王を奉じて入部してきた。建武元年(1334)正月に設置された陸奥国府の引付に薩摩掃部大夫入道がみえ、かれはまた寺社奉行を兼ねていた。そして、侍所には薩摩刑部左衛門入道がみえている。かれらは、いずれも安積伊東氏であり、伊東氏が南朝方として活躍していたことがうかがわれる。
 十四世紀の末に南北朝の争乱が終結し、室町幕府体制が確立されたが、今度は新たな争乱が始まった。すなわち、関東の政治の中心であった鎌倉府と幕府とが対立し、永享十年(1438)、鎌倉公方持氏は幕府寄りの関東管領上杉氏と武力衝突した。この「永享の乱」に際して、将軍足利義教は上杉氏への援軍を奥州諸将に求めた。石橋・伊達・葦名らの諸氏であり、そのなかに安住左兵衛尉がみえているが、この安住は安積のことであろう。ついで、永享十二年には安積右兵衛佐が、畠山・石橋・葦名・田村氏らとともに篠川御所を攻めて自殺させたという。
 一方、『伊東家系譜』によれば、永享十年、足利持氏と管領上杉氏とが戦ったとき、安積備前守祐時は持氏の軍に加わり軍功を顕わした。しかし、翌年鎌倉方が敗れ持氏は自殺したため祐時は手勢を率いて安積に帰ったとある。この記述を信じるならば、伊東氏一族は双方に分かれて乱に身を処したことがうかがわれる。その後の文明三年(1471)、将軍義政は鎌倉公方成氏を討伐するため、塩松・畠山・二階堂・伊達氏らに御教書を下したが、そのなかに安積伊東氏の名はみえない。このことから、安積伊東氏は関東の争乱のなかで次第に弱体化していったのであろう。
 やがて、十五世紀後半から十六世紀の初めにかけて、安積郡に葦名氏の勢力が伸びてくるようになり、安積伊東一族のなかにはその旗下に入る者もでてきた。一方、伊達郡を本拠とする伊達氏の勢力も安積郡に影響をおよぼすようになり、永享の乱の後、安積に帰った祐時に対して伊達持宗が大軍を率い攻め寄せてきた。祐時は兵を指揮して伊達軍を迎え撃ったが、衆寡敵せず、戦いに敗れて伊達氏に降参した。以後、伊東氏は伊達氏に属するようになったという。
 以後、安積伊東氏の代々は伊達氏に属して所々の合戦に出陣し、祐時の孫宗祐は田村氏、二本松畠山氏らの軍と戦った。その子祐里は伊達稙宗に属し、永正二年(1505)九月の合戦で討死している。祐里の長男祐重は、伊達稙宗・晴宗父子が争った「天文の乱(1541)」に際して晴宗方に加担したようで、稙宗方の田村隆顕の攻撃を受け城館を隆顕に攻略されている。

伊達氏の重臣として近世へ

 祐重の長男が重信で、重信はそれまで名乗っていた安積から伊東に改めている。重信は政宗に仕えて、天正三年(1575)、反伊達連合軍と伊達政宗が戦った「人取橋の合戦」において、一隊の将を命じられ高倉城を守った。そして、みずかららも敵二騎を討ち取る活躍を示し、このときの戦功により次男に采地を賜った。同十五年、伊達氏から出て国分氏を継いだ彦九郎の政事に飽き足らぬ国分家臣たちが騒動を起こした時、重信は代官として名取郡北目城番となり騒擾の収拾にあたった。
 天正十六年、大崎出陣の陣触れのため内馬場尚信とともに、伊達の西根・東根・刈田・柴田・伊具方面に遣わされた。同年七月、安積郡窪田の陣において佐竹・葦名の連合軍と戦い奮戦したが伊達政宗の身代りとなって戦死、安積郡郡山に葬られた。その子重綱も伊達氏に仕えて諸所の合戦に従軍し、大番頭・出入司・納戸奉行などを歴任し、慶長二年(1597)には采邑を黒川郡・宮城郡など七郡に受け、千六十石余、同八年に采邑を桃生郡小野村に替えられ、寛永十八年には一千八百石余の禄となった。

●伊東氏の家紋─考察



■参考略系図


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