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小梁川氏
九曜/引両
(伊達氏一族)


 藤原姓で、伊達持宗の三男中務少輔盛宗に始まる。盛宗は伊達郡東根小梁川郷に住んで小梁川氏を称した。天文22年の『晴宗公采地下賜録』には、小梁川尾張守、同弥太郎、同大炊助の名がみえすでに大族になっていた。
 盛宗の長子は親朝で、永正十一年二月、最上氏と出羽村山郡長谷堂で戦い、大いに勝ち、敵数千人を斬り。長谷堂城を陥落させたあと、同城にとどまり占領を続けたという。弟の宗朝は京都に遊び、将軍義晴に召し出され恩顧を受けたという。稙宗も資を送ってこれを扶持した。天文十一年、伊達晴宗が父稙宗を桑折西山城に幽閉するや、これを諸家に告げ、微行者となって高子の下瀬を騎渉し、西山城に潜入して稙宗を救出したという。乱後、稙宗は伊具郡丸森城に隠居し、宗朝は側に奉公した。永碌八年、稙宗が死去すると宗朝はそれに殉死した。
 宗朝の子宗秀は、元亀四月、中野宗時一党の謀叛があらわれ、輝宗から命をうけて、新田景綱とともに叛徒えお小松城に急襲した。そして、このときの戦いに討死した。
 三代親宗は、天文二十二年(1553)正月に起こった天文の乱に際して晴宗に奉公したことで、小梁川郷に一郷を下賜されている。また同郷の惣成敗にも任命された。そのほか、伊具長岡、屋代中山・北方、北条落合い・上長井山上東方、山上の惣成敗、糠部郡の惣成敗、吉田南方の惣成敗、そして本領加恩のところは末代まで守護不入とされる大恩典をうけた。
 このころ、小梁川氏の本宗は屋代高畠に移っている。永碌五年(1562)、親宗は中野宗時とともに上洛し、北条氏康にも謁して、伊達と北条の親密な交誼をはかるように依頼されている。また、岩城重隆から書を受け、晴宗父子の対相馬戦について諌言を加えるよう求められている。
 元亀四年四月、中野宗時が謀叛を起し相馬に逃走するとき、盛宗(親宗の子)は屋代高畠城におりながら、これを妨げなかったため、輝宗より叱責を受ける。天正二十二年、最上義守・義光父子が戦い、輝宗の命rを受けて義光の臣里見民部の拠る上山城を攻撃している。同年、畑谷において最上の兵と対戦し、先手をつとめている。同十三年(1585)、飯野内刈松田で大内定綱と戦った。隠居して泥蟠斎と号し、政宗の側近となって談合衆の一員に加わり、策を献じ伊達氏の勝利につくした。その跡を継いだ宗重の代に一家の家格となった。


■参考略系図
    


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