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戦国山城を歩く
覇王織田信長との攻防を展開した─小谷城 【その2】
小谷城は南北に長く伸びた尾根筋に曲輪が築かれ、主郭北側の大堀切によって南と北に区画されている。
さらに、南の伸びる尾根先にも出曲輪が設けられ、浅井氏の援軍にきた朝倉宗滴が築いた金吾丸北側の番所のところまで
車で登ることができる。
番所から御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、そして黒金門を過ぎると大広間、その正面に見える本丸(主郭)までが
南区画であ本丸北の大堀切を越えると中ノ丸、つぎに亮政が京極氏を幽閉していことから
名づけられた京極丸、浅井久政が自刃した小丸、そして最高所の山王丸までが北区画となる。
・信長が陣を置いた龍ヶ鼻より小谷城址を遠望する (2009_0910)
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大堀切より京極丸、月所丸へ
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中丸跡へ ・ 大堀切を見る ・ 中丸跡への虎口 ・ 切岸と広い曲輪 ・ 太刀洗い池址 ・ 連続する曲輪
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京極丸の土塁と東腰曲輪 ・ 見事な土塁 ・ 小丸址 ・ 小丸址を区画する登り土塁 ・ 小丸址東の大石垣 ・ 山王丸への虎口
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山王丸 ・ 山王丸址の切岸 ・ 山王丸東腰曲輪の石垣 ・ 山王丸最高所へ ・ 最高所南の土塁 ・ 山王丸址より大嶽を遠望
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山王丸よりさらに北へ続く尾根先で、日常の生活空間ともいうべき清水谷から登ってきた道と合流する。
浅井久政文書に書かれた「当城搦手」で、軍務・政務を司ったという六つの寺院があったことから
六坊址と称される。
その先の尾根をさらに登っていくと大嶽で、山腹を捲いた北東の尾根に築かれた曲輪が越前への忍道を護る月所丸址である。
月所丸の東端の曲輪は周囲を土塁が取り囲み、その先の尾根筋には堀切三つが切られるなど厳重な備えとなっている。
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六坊を区画した土塁 ・ 六坊址の碑 ・ 月所丸跡へ ・ 竪堀 ・ 月所丸跡の切岸 ・ 月所丸を東西に区分する土塁
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土塁で囲まれた曲輪 ・ 曲輪直下の大堀切 ・ 堀切から伸びる竪堀 ・ 連続する土塁 ・ 見事な深さ ・ 大嶽城址へ
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……………
小谷城は織田軍と睨み合うこと三年余、浅井氏は山本山城、佐和山城、鎌刃城などの
支城網によって織田方の攻勢を
凌いだ。一方、織田軍は羽柴秀吉を大将として小谷城を攻め続けた。小谷城の周辺には、
織田方の横山城、虎御前山城、朝倉軍が守った丁野山城、浅井方の部将が守った中島城など
多くの戦国山城が残っている。
浅井氏が滅び、信長も本能寺の変で横死したのち、
秀吉と柴田勝家が信長後の覇権を争った賤ヶ岳の古戦場も小谷城のすぐ北方である。
賤ヶ岳の周辺には、秀吉方の賤ヶ岳砦、勝家方の玄番尾城など多くの陣城が残されている。
来年(2011)の大河ドラマを引き合いに出すのも野暮な話だが、
小谷城には戦国時代が実感できる歴史と見どころが凝縮されている。さらに、
信長と長政とが戦った足跡を刻む山城群、秀吉と勝家が己の興亡を賭けて築いた陣城群などなど…、
戦国ファンならずとも歴史の醍醐味があじわえるところ、それが江北、そして小谷城といえそうだ。
・案内板の城址概略図 (2009_0922)
・追手道より本丸・大堀切へ…
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[ 浅井氏 ]
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その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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・丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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