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戦国山城を歩く
覇王織田信長との攻防を展開した─小谷城 【その1】
小谷城は近江国東浅井郡から興った戦国大名浅井氏三代の居城址で、
日本五大山城の一つに数えられる名城である。その築城年代に関して、
『浅井三代記』には永正十三年(1516)に築かれたという記事があるが明確ではない。
湖北の在地領主であった浅井氏は近江北部を治める佐々木京極氏に仕えていたが、
大永三年(1524)、京極氏の家督争いに乗じた亮政は京極氏の重臣上坂氏を失脚させると
京極氏に代わって湖北一帯を支配する大名へと飛躍した。
記録によれば、小谷城ははじめ小谷山最高峰の大嶽(おおづく)に築かれたとあり、
それが永正十三年のものだったと思われる。そして、京極氏家中で勢力を拡大していくとともに、
清水谷を本拠地として整備し、居城も不便な高所から東尾根へと移した。それは、
京極氏の内訌を好機として、自立を図るための周到な前準備であったように思われる。大永四年、
亮政は主家にあたる京極高清を小谷城の京極丸に迎えて饗応しているが、
このころに小谷城の原型が完成したのではなかろうか。
・賤ヶ岳より小谷城址を遠望する (2009_1115)
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追手道より本丸・大堀切へ
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清水谷入り口の大手門 ・ 清水谷と大嶽 ・ 大河ドラマの幟 ・ 追手道を登り口へ ・ 追手道より虎姫山を見る ・ 追手の登り口
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登り口すぐの磯野丹波屋敷址 ・ 真柄峠 ・ 真柄備中の曲輪址 ・ 中腹の出曲輪 ・ 出曲輪から琵琶湖を遠望 ・ 金吾丸への分岐
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金吾丸の土塁 ・ 番所後方の切岸 ・ 堀切道を登る ・ お茶屋跡曲輪を区画する土塁 ・御馬屋敷跡の土塁 ・ 御馬屋敷より大嶽を遠望
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亮政のあと、浅井氏は久政、長政と続き、長政が六角氏との戦いに勝利したのちは
押しも押されもせぬ江北の戦国大名へとのし上がった。
その間、小谷城は拡張、整備が施され、主曲輪群は最南端の番所より
御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、黒金門、大広間、本丸、中ノ丸、京極丸、小丸、そして最高所の山王丸まで
大小の曲輪群が梯郭状に連なり、所々に残る石垣、広い帯曲輪、土塁址など
全山が城砦化された光景は五大山城の名に恥じない見事なものだ。
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馬洗い池 ・ 首据石 ・ 黒金門址 ・ 桜馬場跡 ・ 桜馬場の切岸と西の腰曲輪 ・ 桜馬場西方の帯曲輪を見下ろす
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浅井将兵の供養塔 ・ 大広間址南の土塁 ・ 大広間址、広い! ・ 本丸を見る ・ 本丸下の石垣(右二点)
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本丸址に残る石垣 ・ 本丸東の切岸と腰曲輪 ・ 赤尾屋敷跡 ・ 浅井長政自刃の碑 ・ 大堀切側の本丸切岸、高い! ・ 東方より大堀切を見る
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……………
尾張より織田信長が勃興すると、長政は信長の妹市を娶って同盟関係を結びんだ。
永禄十二年(1569)、信長が上洛の陣をおこすと、長政も江北の精兵を率いて参陣した。
そして、信長上洛を阻止しようとした六角氏を没落に追い込み、
浅井氏の近江における大名権力は磐石になったかと思われた。
ところが、元亀元年(1570)、信長は越前朝倉攻めの陣を起こした。浅井氏は越前朝倉氏とは同盟関係にあり、
かつて、六角氏との抗争においては援軍を受けるなど窮地を救われた恩義もあった。
家中の意見は二分されたが、朝倉氏への義理を立てて信長に反旗を翻し織田軍の背後を襲った。かくして、同年六月、
長政は朝倉義景と連合して信長・徳川連合軍と姉川で戦ったが敗戦を被った。以後、甲斐の武田氏、本願寺らと連携して
信長との対峙を続けた。しかし、次第に追い詰められ、天正元年(1573)、小谷城は織田勢の攻撃を受けて落城、
長政・久政父子は自刃して浅井氏は滅亡した。
小谷城が落城したのち、その旧領は浅井攻めの大将をつとめた羽柴秀吉に与えられた。
秀吉は不便な山上にある小谷城を捨て、新たに琵琶湖畔の今浜に長浜城を築いた。そのとき、
小谷城の建物などは長浜城建築の材料として利用され、小谷城はまったくの廃城となってしまった。
彦根城の西の丸三層櫓は、長浜城へ移築された小谷城の天守をさらに移したものと伝えられている。
・案内板の城址概略図 (2009_0922)
・大堀切より京極まる、月所丸へ…
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