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戦国史跡を歩く
尼子氏の城下町-広瀬の史跡を巡る
尼子氏の拠った富田城の城下町-広瀬は、いまも尼子時代の遺跡があちこちに残されている。富田川西岸の広瀬の街には、尼子氏の菩提寺であった洞光寺があり、尼子清定・経久の墓が並んで祀られて位いる。東岸には月山を中心とした冨田城砦群をはじめ、勇猛をうたわれた新宮党の館跡に城址、尼子氏再興に尽くした山中鹿介の屋敷址、経久に富田城を奪われた塩冶掃部介の墓、尼子氏の没落後富田城の城代をつとめた毛利元秋の墓などなど、中世を生きた武士たちの足跡をたどることができる。さらに、広瀬周辺の山々には冨田城を包囲攻撃した毛利方の陣城が存在、広瀬の町は戦国時代がパックされたところといっても過言ではない。
・町に近づくと目結紋を捺した幟が出迎える
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尼子氏の菩提寺-洞光寺 洞光寺の目結紋 尼子清定と経久の墓 尼子新宮党の居館碑 新宮党館址
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その勇猛さから毛利元就の謀略により、主君尼子晴久の粛清によって滅亡した新宮党。その居館址には大夫神社が祀られ、
その傍らには一族の墓石が儚く祀られている。
館址一帯は当時の地形がよく残り、後方の山には詰めの城の遺構も残っている。山中氏の居館祉には石垣が残り、数段の
曲輪址を思わせる平坦地が往時をしのばせている。
富田城の周囲には、尼子氏ゆかりの人々の墓所があちこちに残っている。松江藩主松平氏の菩提寺でもあった城安寺の
境内には郡山城攻めで討死した尼子義勝の墓所、道の駅のすぐ裏には父経久に反逆して討たれた尼子興久の墓所、
塩谷口の曲輪址を思わせる一角には尼子晴久と殉死者たちの墓所、さらに毛利元秋の墓所が宗松寺跡にポツンと
残っている。いずれも何も語らないが、間違いなく戦国時代を生きた武将たちの終の棲家である。
新宮党の墓石 館址を遠望 塩冶掃部介の墓 山中館址の石垣と館址の碑
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城安寺の見事な山門 尼子義勝の墓碑 尼子晴久の墓碑 尼子興久の墓所 毛利元秋の墓所
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巌倉寺 山中鹿介の供養塔 堀尾吉晴の墓石 堀尾忠氏の墓所 富田城中腹の親子観音
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尼子氏が没落したのち、富田城は毛利氏の支配下に入り、さらに関が原の合戦後には一躍出雲二十四万石の
大大名となった堀尾吉晴が入った。いまに残る富田城の縄張は、吉晴が改修を加えた結果である。その後、
松江に新たに築城を行ったため、富田城は廃城となってしまった。富田城の御子守口にある古刹磐倉寺の境内には
吉晴の巨大な五輪塔が残されている。吉晴にすれば、大大名に出世、みずからが改修の手を加えた富田城は
生涯における最高のハレの地だったのであろう。また、吉晴のあとを継ぎながら早世した忠氏の墓所が
富田城北麓に残っている、一帯はかつて寺院址であったようだが、いまはわずかに石垣と平坦地が残るばかりである。
富田城界隈を歩くと、文字通り、世の栄枯盛衰が惻惻と感じられてくるるのである。
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[ 尼子氏 ]
[ 月山冨田城址 ]
[ 堀尾氏 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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・丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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| ……
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