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戦国山城を歩く
中国八ヶ国に君臨した尼子氏の居城-月山富田城址
富田城は戦国時代、山陽・山陰十一ヶ国を支配下に置いた尼子氏の本城で、宍道湖の中海に注ぐ富田川(飯梨川) 東岸の月山を中心に築かれた城砦である。富田城創築の明確なことは不明だが、一説には源平時代に平家軍に拠って築かれたのははじめともいわれる。中世、富田の地は水上交通と中国山地を越えて山陽に抜ける陸上交通の要衝にあたり、また、能義郡の製鉄地帯、谷筋の農業生産地を抑えるところでもあった。富田城は日本海から中国山地まで、東出雲を抑える要の城であった。富田城は富田川を自然の濠とし、月山山上の本丸を中心に二の丸、三の丸、山中御殿成、さらに周囲の山々にも曲輪群が散在する巨大な戦国山城である。主要な登り口は大手ともいうべき御子守口、北方の菅谷口、南方の塩谷口があり、いずれも本丸への大手に築かれた山中御殿成で合流するようになっている。いずれの登り道も谷筋に設けられ、谷に攻め込んだ敵勢を尾根に築いた曲輪群から挟撃する構造となっている。
室町時代、出雲守護に任じられた佐々木京極高詮は一族の尼子持久を守護代に任じた。持久の子清定は応仁の乱に乗じて周辺の国人らを支配下におき、尼子氏発展の基礎を築いた。つぎの経久は京極氏と対立、塩冶掃部介を討って冨田城を奪い、ついには下剋上によって京極氏の出雲支配を排除した。以後、経久は国内統一に乗り出し、最盛期には山陽・山陰十一ヶ国に号令する戦国大名となった。
経久のあとを継いだ晴久は毛利元就の拠る安芸郡山城攻めに失敗、毛利氏の台頭を許し次第に勢力を失っていった。晴久没後に家督を継いだ義久は、毛利軍の攻撃を受け、一進一退の籠城戦を展開した。そして、補給路を断たれて万事窮した永禄九年(1566)、義久は毛利氏に降伏、尼子氏は没落した。その後、富田城には吉川元春が入り、天野隆重、毛利元秋、吉川広家らが城代をつとめた。関が原の合戦後、堀尾吉晴が城主となり現在に残るかたちに改修したが、のちに松江城を築いて移ったため富田城は廃城となった。
・菩提寺-洞光寺より城址を遠望
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御子守口より本丸方向を見る 千畳平へ 千畳平からの市街 広い曲輪 一角に祀られた尼子神社 太鼓櫓
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城址へは御子守口より取り付き、千畳敷→太鼓櫓→奥書院址→花の壇へと続く一連の曲輪群が前衛部にあたろうか。
いずれも相当な広さのもので、太鼓櫓に立つ城址碑には「目結紋」が据えられている。さらに、花の壇には石垣が
発掘・復元され、かつての番所が再現されている。要所には堀切が穿たれ、登城コースを外れた
藪の中にも曲輪群が確認できる。
太鼓櫓城址碑の目結紋 奥書院へ 花の壇へ 花の壇を見上げる 花の壇東方の堀切 藪に埋もれた曲輪
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山中御殿へ 虎口の石垣 山中御殿成) 本丸へ 所々に曲輪の址 七曲を登る
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花の壇の東方には、日常の生活を営んだ山中御殿成があり、発掘調査された成果が見事な石垣として実感できる。
月山山上の本丸へは御殿成から七曲と称される山道をひた登ることになるが、山腹の要所に腰曲輪が築かれ
七曲道を登りきると三の丸の石垣が聳え立っている。三の丸へ登り、尾根続きの二の丸に立つと、
遠く中海までの見事な眺望が広がり、二の丸東方の大堀切の向うには本丸が見える。なんとも規模壮大、
さすが中国地方に覇をとなえた尼子氏の本城であることが実感される素晴らしい城址である。
本丸には勝日高守神社が祀られ、山中鹿介の顕彰碑が建立され、腰曲輪、土塁などもよく残り、眺望も
二の丸に劣らぬ見事なものである。また、冨田川を隔てた西方の山々には、かつて富田城を包囲攻撃した毛利氏の
陣城群の址が散在し、往時の毛利と尼子の対陣の様子が彷彿とされてくる。
富田城は本丸群の北方に連なる尾根、塩谷口を隔てた南側の山々にも曲輪群が築かれており、そのすべてを
攻略するには一日では到底間に合わない。さらに毛利氏が築いた陣城群も併せて探索しようとすれば、何日を
要するだろうか。ジックリと付き合えば付き合うだけ、見るべきところも尽きない、それが富田城の
魅力であるといえそうだ。
切岸と曲輪 山吹井戸址 三の丸の石垣 三の丸から二の丸を見る 二の丸からの眺望 二の丸と本丸を隔てる大堀切
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二の丸の石垣 大堀切 本丸北側の土塁 本丸に鎮座する勝日高守神社 神社後方の腰曲輪址 山中鹿介の顕彰碑
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袖ヶ成から三の丸石垣を見る 菅谷口の石垣 菅谷口に残る雑用井戸址 山中御殿平の石垣 軍用井戸 冨田川(飯梨川)越しに城址を遠望 城址案内図
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富田城のある安来市は、いまNHKで放映されている朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」のゆかりの地として多くの観光客を集めている。ゲゲゲの女房ゆかりの大塚から富田城のある広瀬までは車で走って約20分くらいのところであり、のどかな田園風景も楽しめる。水木しげるファンの方なら、水木ロードのある境港は目の前にあり、戦国ファン、城郭ファンなら米子城、松江城もすぐのところにある。安来一帯は富田城を中核に、さまざまな観光が楽しめるところである。
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[ 尼子氏 ]
[ 富田城下を歩く ]
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