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堀尾氏
抱き茗荷/六つ目結
(高階氏後裔)


 高階氏は天武天皇の皇子高市親王の子長屋王の後裔にあたる。高階業遠から十二代目の邦経が尾張国丹羽郡供御所村を 領していたと伝えられ、早くから尾張に根をおろしていたようだ。五代後の忠泰が斯波義重に仕えて勲功があり、 はじめて堀尾氏を称したという。そのため。守護斯波氏、守護代織田氏などの被官としてあったわけで、吉晴のとき 長浜時代の秀吉に仕えることになったのである。なお、高柳光寿・松平年一氏の『戦国人名辞典』では、吉晴の父を 泰時としている。

豊臣秀吉に仕えて出頭する

 吉晴は、天正元年(1573)の時点ですでに百五十石を与えられていることから、かなり子飼いに近い存在であったことがうかがわれる。以来秀吉に従って戦功をあげ、小田原征伐後遠江浜松十二万石の大名となった。
 秀吉の死後、家康に近づき、家康をして終生粗略に扱わぬという誓書まで出させるほどの活躍をし、家康の危機を救ったのである。慶長五年(1600)二月には、越前国府十八万石の領主に出世した。
 同年六月、浜松から越前への帰途、彼は大坂方の加賀井弥八郎なる武士と出会い、加賀井の甘言に乗せられて、 かれを刈屋城主・水野忠重に会わせた。その三河国での宴後、加賀井がいきなり忠重を殺害したのである。とっさに、 その加賀井を、こんどは吉晴が斬殺した。老いの腕も衰えていなかったのだ。しかし、その現場に駆けこんだ忠重の 家臣たちは吉晴主君の仇と思い違いをしてしまった。ために、吉晴は十七ケ所も刀傷を負い、 以後半身不随の身となってしまった。
 実情は家康の知るところとなり、嫡子忠氏が関ヶ原の合戦では終始東軍として働き、戦後隠岐・出雲両国を与えられ、 松江城に入り二十三万五千石を領した。
 尼子氏が築いた月山富田城に入ったが、時代遅れの山城でもあり、慶長八年、松江に城を築くこととなった。 このとき、吉晴は忠氏の後見役であった。しかし、翌年忠氏がマムシに噛まれて急死してしまった。さらに、 長女と家老の間に生まれた一子掃部をめぐって御家騒動が起きる。慶長十二年のことであった。



左:磐倉寺境内の堀尾吉晴墓碑、香台を見ると「分銅」と「六つ目結」の紋が刻まれている。
上:堀尾忠氏の墓碑、なんとも無残な状態である。


 順風満帆に過ぎるかと思えた吉晴の人生であったが、嫡男忠氏の事故死などがあって晩年は不遇であった。 大坂の陣を間近に控えた慶長十六年(1611)六月、堀尾氏の行く末に不安を抱きながら死去、享年六十九歳であった。
 孫の忠晴は大坂の陣に出陣して鴫野表の戦いに活躍、元和五年(1619)には改易された福島正則の居城受取の 検使などをつとめた。しかし、寛永十年(1633)に三十五歳で死去、嗣子なく堀尾氏は呆気なく断絶となってしまった。 


■参考略系図
 
  


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