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越後長尾氏
(上杉氏)
九曜巴
(桓武平氏良文流)


 越後長尾氏は、桓武平氏鎌倉党の一族で坂東八平氏の一つ長尾氏の支流である。三浦泰村が「宝治の合戦(1247)」で鎌倉執権北条時頼に敗れたとき、三浦氏の被官として長尾景茂はそれに殉じ、本領を没収された。
 景茂の孫景為が何らかの関係で上杉氏の被官となり、鎌倉時代末期には上杉氏の執事として働いていた。南北朝の動乱が起こると、景為の子景忠は、足利尊氏の命令で上杉憲顕の執事として越後へ進撃し、各地で新田義貞方の小国・風間氏らと戦った。さらに越中国宮崎城を攻め、勝利を得ている。

越後上杉氏の守護代

 上杉憲顕が越後守護に就任すると、景忠はその功によって守護代となった。足利尊氏と弟の直義とが争った「観応の掾乱(1343)」では、上杉憲顕とともに直義に味方して尊氏軍と戦っている。やがて景忠は越後を弟(従兄弟ともいう)の景恒にまかせ、自らは上野国白井城で山内上杉氏に仕え、上州長尾各氏の祖となった。
 景恒は観応の掾乱のときは、兄景忠、子高景とともに直義に味方して上杉憲顕のもとで活動した。文和元年(1352)、憲顕が南朝方となると、景恒も行動をともにして北朝方の尊氏と戦い、憲顕が足利方に復帰するとそれに準じた。
 景恒には数人の男子があったようで、嫡子新左衛門尉(実名不詳)は蒲原代官を務めたが、小国氏に夜襲をかけられ戦死し、二男の景春は蔵王堂城に拠って古志長尾氏を称した。景春の流れはのちに栖吉に移って栖吉長尾氏となった。三男の高景は新左衛門尉の蒲原代官を継承し、三条城に拠って守護代となり、その子孫が代々、守護代長尾家を相続した。高景は関東管領上杉憲方の二男房方を越後に迎えて守護として府内城に住まわせ、自らは鉢ケ峯城(春日山城)に住んだという。高景は勇将としてその名が高く、明国にまで聞こえたが、康応元年(1389)二月、佐渡で戦死した。
 高景のあとは邦景が継承し、『居多神社文書』から、邦景が守護上杉房朝の命で神事を沙汰したことが知られる。関東公方足利持氏が幕府と対立した「応永の乱(1423)」には、関東公方に加担し、幕府に抵抗した。義教が将軍に就任したのち、持氏はまたもや幕府と対立したが、このときは義教に近づき足利持氏と対戦している。
 永享十年(1438)、持氏は嫡子賢王丸の元服に際して、将軍職から一字を賜る先例を破って義久と名乗らせた。関東管領上杉憲実は先例に従うべきだと申し入れたが持氏は聞かず、逆に憲実追討のために上野国へ兵を発した。幕府は持氏追討を決して、諸国の軍勢を関東に派遣した。邦景の子実景は越後軍を率いて関東へ出陣し、憲実に従軍した。結局、「永享の乱」とよばれるこの乱は持氏が敗れ、憲実の再三にわたる助命嘆願も空しく、幕府は持氏を自害させ関東公方家は滅亡した。
 その後、下総国の結城氏朝が持氏の遺児らを擁して挙兵した。上杉清方を大将とする鎌倉勢と、京都から下向した禅秀の子持房を大将とする京勢とが結城城を攻め、氏朝らは討死し、捕えられた持氏の遺児らは美濃で斬られた。この「結城合戦」に際して、実景は揚北衆の色部重長らを引具して出陣し城攻めに加わり、嘉吉元年(1441)結城城落城のときには持氏の遺児安王丸・春王丸らを捕える大功をたてた。この抜群の功によって将軍義教から感状を賜り、さらに赤漆の輿に乗ることを許され京都の代官を勤めた。まさに、実景にとって得意絶頂のときであった。

長尾氏の挫折

 ところが、将軍足利義教が赤松満祐に殺害されるという大事件(嘉吉の乱)が起こった。この事件により、邦景・実景父子の株は急落した。かれらは、あまりに義教に接近しすぎていたのだった。
 宝徳元年(1449)、上杉房朝が死んで房定が越後守護となると、房定は関東の諸士とともに持氏の末子永寿王丸を関東公方とする運動を続けた。そして、幕府はこれを許し関東公方家が再興された。こうなると、長尾父子の立場はさらに窮し、鎌倉の成氏邸を襲撃した長尾景仲に加担してしまった。翌年、邦景は守護房定の命によって切腹し、実景は信濃に逃れて再起を図ったが幕府はその討伐を房定に命じた。
 実景は享徳二年(1453)越後に攻め込もうとしたが、房定は越中・越後の軍勢を率いてこれに対抗した。結果は、実景軍の大敗に終わり、その後、実景の消息は知れなくなる。しかし、文正元年(1466)、将軍足利義政は房定に内書を下し実景の与党を討伐するように命じていることから実景の勢力が侮れないものであったことがわかる。
 実景の没落後は、一族で房定の近臣長尾頼景が守護代に任ぜられた。頼景は房定の政治をよく援けて活躍した。房定は家督こそ継いでいないものの、ほとんど山内上杉氏の棟梁的存在になっていた。そして、将軍義政や義尚に接近し、中央政界にも顔をきかせ、国内では検地などを行い国政も怠らなかった。また、累年の関東出兵によって、御内・外様への統制を強化し、よく越後国内を治めた房定は、越後守護上杉氏の全盛時代を築いた人物であった。
 この間、関東では「享徳の乱」が起り、公方成氏と管領山内上杉氏との間で合戦が繰り広げられた。頼景とその子重景は、管領上杉氏を支援する房定に従って関東に出陣し、所々の合戦で軍功をあげ天下に武名をとどろかせた。
 文正元年(1446)、関東管領上杉房顕が死去すると、房定の二男顕定が山内上杉氏を相続し、ついで応仁元年(1467)関東管領に就任した。その後、古河公方成氏と堀越公方政知とが抗争すると、房定は重景の協力を得て幕府と古河公方との和睦に奔走し、文明十四年(1482)ついに和睦に成功した。同年、この成功を見届けたかのように重景は死去し、能景が守護代長尾氏を相続した。

守護上杉氏との対立

 越後の名君房定は明応三年(1494)に死去し、守護職は子の房能が継いだ。明応六年、能景は房定を助けて中郡の検地を実施し、同年七月には父重景の菩題を弔うため、春日山城の麓に林泉寺を建立している。
 明応七年(1498)、越後の国侍たちは思いがけない政令に驚くことになる。すなわち「国中の御内・外様が近ごろ「郡司不入」と称して、守護の任命した役人の職権を妨げているのはまことにけしからぬ。不入の証文のない土地は、郡司が検断権をもつ。役人の不正は直接守護へ申し出よ」という趣旨の政令であった。「不入」というのは、守護上杉氏が国侍たちの本領を安堵し、守護権の介入を排除できることを認めた特権である。しかし、房定による検地、そして明応六年の検地などによる内政整備と軍事活動とは、国侍たちの鎌倉以来の支配状態をそのままにしておかなかった。このような守護房能の政治姿勢に対して国侍たちが動揺をきたすことは必然であり、それを押さえて支配を実現できるか否かが、守護上杉氏が戦国大名に飛躍できる分かれ目でもあった。
 この政令に対して、能景は「七郡の御代官」として最大の不入地をもっていた。しかし、かれは衆に先んじて「版籍奉還」を行ったが、やはり不満の色は隠せなかった。ましてや、土着の国侍や能景の一族はかれほど房顕に従順であったとは思えない。そのうえ、房顕は気位が高く、たび重なる関東出兵に国侍たちが疲れていることを察する目をもっていなかった。そのような状態の永正三年(1506)越中に出陣した長尾能景は、般若野で一向一揆と神保慶宗に包囲され、異郷の空の下で戦死してしまった。
 能景の戦死で守護代を相続した子の為景は、五十嵐・大須賀氏らのの反乱を鎮定し越後国内を掌握した。為景は父能景ほど守護上杉氏に従順ではなく、逆に守護排斥を企て永正四年房能の養嗣子定実を擁立しクーデターを起こした。このとき。守護に加担する国人は少なく、房定は実兄で関東管領でもある上杉顕定をたよって逃亡したが為景は追撃して、天水で房能を自害させた。まさに下剋上であり、この「永正の乱」をもって越後の戦国時代が始まったといわれている。
 揚北衆の有力者である本庄・色部氏らは房能の弔い合戦と称して為景・定実に対して兵を挙げた。為景は同じ揚北の有力者中条氏らに命じて本庄・色部氏らを攻撃し、かれらの抵抗も次第に制圧されていった。一方、房能の敗死を知った実兄の関東管領山内上杉顕定は、越後に兵を入れたが、関東が不穏な情勢にあり活発な軍事活動は行わなかった。顕定が養子憲房とともに関東軍八千騎を率いて本格的に越後に進撃を進攻したのは永正六年のことであった。色部氏らはすでに為景に降服していたが、上田庄坂戸城主の長尾房長が顕定に味方したため、坂戸城が関東軍の前線基地となった。八月、為景と定実は顕定軍に敗れて越中に退き、さらに佐渡に逃れた。
 翌年、軍を立て直した為景は蒲原津に上陸し顕定軍に反撃を試み、寺泊・椎屋の戦いで顕定軍を破り越後府中に迫った。敗れた顕定は関東に逃れようとしたが為景はそれを急追し、上田長尾房長も為景方に転じたことで退路を絶たれた顕定軍は為景軍と長森原で一戦を交え、敗れた顕定は討ち取られた。

長尾氏の覇権確立と諸豪との抗争

 これ以後、越後の国政は長尾為景が握り、上杉定実はまったくのお飾りに過ぎない存在となった。為景の専横に対し、定実は実家の上条上杉定憲、琵琶島城主宇佐美房忠らを恃んで兵を挙げた。定実は古志長尾房景に誓書を送って忠節を期待したが、房景は動かなかった。為景は宇佐美房忠の拠る小野城を攻撃し、これに揚北衆の中条・新発田氏らが荷担したため大勢は決した。定実は春日山城に立て籠ったが、為景は定実を城から引き出して、荒川館に幽閉してしまった。残った守護方は総力を結集して上田の長尾房長を攻め、関東との連絡をつけようとした。しかし、為景は大軍をもって房長の救援に向かい、永正十一年(1514)守護方との激戦が上田城下で行われ守護方は為景の前に壊滅した。
 乱平定後、為景は越中に出兵して、これも平定し父能景の仇を晴らした。さらに古河公方足利高基、関東管領上杉憲寛とも和睦し、将軍家からは毛氈の鞍覆・白傘袋を許され、将軍幕下の大名の待遇を与えられた。こうして、為景の越後国主の座は安定し、春日山城を増強し越後国人に対する統制も強化された。ここに、長尾氏は戦国大名へ大きく一歩を踏み出したのである。とはいえ、為景は守護になることはできず、その政権も府中・上田・古志の長尾三家の同盟と揚北衆の協力で成立したものであった。言い換えれば、長尾三家の結束を破り揚北衆を味方にすれば、長尾為景の覇権を転覆することも可能になりえた。その線をついて反撃に出たのが上条定憲で、定憲は享禄三年(1530)にふたたび為景に対して挙兵した。これが「上条の乱」と呼ばれるものである。
 為景は長尾景信の協力をえて、中条・黒川・加地・新発田・色部・本庄氏ら揚北の国人衆に上条城を攻めさせ、定憲をひとまず降すことができた。ところが、室町幕府内で政変が起こり、為景に近かった細川高国が自刃した。これにより為景の権威が低下し、上条定憲はそれにつけこんで天文二年(1533)三たび溜め景排斥の兵を挙げた。この反撃には、長尾房長、揚北衆らが味方につき、中・下越を制圧する大勢力となった。為景は上越地方を押さえ、北条光広・長尾景信・山吉政久らが上条方に立ち向かった。
 天文四年(1535)、両軍決戦の機は熟し、宇佐美一党の居城を攻めた為景方はもろくも敗れ、ついに守勢に追い込まれた。さらに会津の蘆名氏も上条方となり、上田勢は古志長尾氏の拠点である蔵王堂口に押し寄せ、小千谷地方をおさえる平子氏も上条方に加担した。まさに、周りは敵だらけという状況に陥った為景は、朝廷に工作して錦旗をもらったり内乱平定の綸旨を頂戴したりしたが、そのようなものが乱世に役立つはずもなかった。翌五年四月、府中へ進撃してきた宇佐美・柿崎軍を為景は三分一原で迎かえ撃ち、これを撃退したが、この勝利も府中を防衛をしたに過ぎないものであった。ここに至って、百余度の合戦に身をおいた為景も四面楚歌のうちに家督を晴景に譲り隠退した。そして同年十二月、波乱に富んだ生涯を閉じた。(為景の死去した年に関しては諸説がある)
 晴景は為景に幽閉されていた定実を守護に復活させるなどして上条定憲や揚北衆との妥協をはかり、上田の長尾房長とはその子政景に妹を嫁がせることで和睦した。こうして、越後の内乱も次第に終熄していった。

景虎の登場

 越後守護に復帰した上杉定実は、子が無かったため外曾孫にあたる伊達稙宗の子時宗丸を養子に迎えようとした。ところが、この養子の一件がふたたび越後に乱をよぶことになったのである。時実丸の母は揚北衆の有力者中条藤資の妹で。藤資は養子縁組を熱心に推進した。一方で、この養子縁組が実現すると、中条氏の勢力が拡大することは必然であり、他の揚北衆は一斉に養子反対の立場を示した。そして、同じく養子の件に反対の立場をとる長尾晴景と結んで中条=伊達連合軍と対立したのである。
 天文十一年(1542)定実の使いが実元を迎えに伊達氏へ赴くと、伊達家中でこの養子に反対していた稙宗の子晴宗は父を幽閉し、これをきっかっけに伊達家中は父子が争う「天文の乱」に発展、その内紛は数年間にわたって続いた。この事態は揚北にも波及し、越後にも戦乱が巻き起こった。養子の件は挫折し、定実はすっかり気力を無くし晴景に隠退を申し出ている。
 このような状況にあって、晴景は生来の病弱に加えて戦乱を治める器量にも欠けていた。そこで、僧籍にあった弟を還俗させ景虎と名乗らせて栃尾城主とし長尾氏の軍事力の一翼を担わせた。長尾景虎(のちの上杉謙信)の歴史への登場であり、景虎は栃尾城を拠点として活動を開始した。近辺の豪族たちは景虎を若輩と侮って戦をしかけたが、景虎はこれを平定してたちまち栃尾一帯を治めその武名を高からしめた。これに着目したのが養子の一件で長晴景と対立していた中条藤資で、景虎を新たな越後の国主にしようと動き出した。これに、本庄実乃、大熊朝秀、直江実綱、山吉行盛、長尾景信らが加担した。そして、長尾晴景方には黒川清実、上田の長尾政景らがつき両派は対立した。しかし、情勢は次第に景虎優位に動き、上杉定実が調停に乗り出したことで晴景が景虎に家督を譲ったことで和睦した。しかし、おさまらないのは上田長尾政景で、政景は以後も景虎に対する反抗的姿勢を改めなかった。
 このころ関東では小田原を拠点とする北条氏の台頭が著しく、天文十四年(1545)、関東管領上杉憲政は扇谷上杉氏・古河公方足利氏と連合して、北条氏康と河越で戦ったが敗れて上野国平井城に逃れた。さらに、同二十一年上野平井城を氏康に攻められ厩橋城に奔ったがそこも支えきれず、ついに憲政は旧怨を捨てて長尾景虎を頼り越後国府中の館に走った。景虎は憲政を庇護し、その要請をいれ越後の諸将に命じて関東に出陣しようとた。しかし、そのためには上田庄を通ることになる。
 上田を治める長尾政景は、景虎の命に従うか、あくまでも抵抗を貫くかの二者択一を迫られ、ついに対立姿勢を明確にしたのである。しかし、守護定実を擁し、定実が死去した天文十九年以後は事実上の越後国主となった景虎の軍門に政景は降るしかなかった。ここに長尾景虎に対抗する国内勢力は消滅し、越後の戦国時代は大きな転換期を迎えることになった。
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長尾氏の居城-春日山城址

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