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覇を競った武家
宿敵大内氏との戦い、鎮西の群雄征伐に東奔西走する
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中国の大内氏は、持世から義隆にいたるまでの五代にわたって、北九州の地で鎌倉以来の守護少弐氏と、これを援ける大友氏と戦った。この間、豊前の門司・貫・長野.麻生、筑前の宗像・原田・秋月などの有力国人層が被官となっている。そして、大内教弘は少弐大友連合軍を破って筑前・筑後を確保し、有力家臣の陶・仁保・杉らを筑前・豊前の要所に配して、北九州支配を強化した。
少弐氏は大内氏に対してねばり強く好戦したが、明応九年(1497)正月、大内義興が二万の大軍を率いて筑前に攻め入り、少弐政資・高経父子を追放、さらに四月高経を神埼で討ち、政資もまた、多久で自刃し少弐氏の抵抗は幕を閉じた。
その後、大内氏と大友氏の豊前・筑前の争奪戦がはじまった。それは豊後宇佐郡の大内氏の妙見岳城の攻防戦から、天文三年の大内対大友の直接対決となった「勢場ケ原の合戦」となり、両軍ともに多くの戦死者を出し、将軍足利義晴の調停で和解が成立、大内氏が略奪した筑前の大友氏所領は変換され、豊前を押さえる妙見岳城は大友氏の持城となった。ここに大友氏の基礎が固められ、義鎮の代には六ケ国の守護職をもつ全盛期を迎えることとなる。
やがて、大内氏は義隆が家臣の陶氏の叛乱で滅亡し、陶氏も安芸の毛利元就に破れ、中国地方の覇者として毛利氏が台頭してきた。元就は豊前・筑前への侵略を始め、門司城を攻め取り、永禄四年(1561)十月、毛利氏と大友氏は門司城合戦で激突、大友氏は敗れて、豊後へ退くこととなる。
毛利氏の豊後への侵攻はなかったが、大友領国の豊前・筑前・筑後・肥前の諸豪族が毛利氏に通じて反大友勢力となり、それらをつぎつぎと平定したものの、永禄十二年五月、大友対毛利の決戦が筑前香椎の多々良浜で展開される。
実力伯仲で長期戦となったころに、大友氏は客人の大内輝弘に大内家再興をもちかけ、山口へ送り込んだことから、大内氏の旧臣も輝弘のもとに続々と集まり、驚いた毛利軍は九州から撤退、大内輝弘を滅ぼしたが。これは、輝弘を利用した大友氏の作戦勝ちであった。
しかし、元亀元年(1570)三月、龍造寺隆信の反乱があり、八万の大軍でこれを攻めるが、今山の本陣が夜襲で総崩れとなり形勢は逆転、この一戦により龍造寺隆信は肥前に大勢力をもつようになり、やがて、大友・島津・龍造寺氏と九州を三分するようになっていく。
■北九州群雄割拠図
■大友氏と戦った武将家
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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