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秋月氏
●三つ撫子/輪違いに唐花
●大蔵氏族
先祖の大蔵春実が純友の乱に出征したとき、朱雀天皇から賜った錦の御旗に「大和撫子」の紋があった。以後、大蔵一族は撫子を用いるようになったといい、秋月氏もこれにちなんで撫子を家紋としたと伝えられる。
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戦国時代、筑前国古処山城によって威勢を振るった秋月氏は、後漢霊帝の後裔を称する渡来系古代氏族の大蔵氏を遠祖としている。
大蔵氏の祖春実は、天慶三年(941)、藤原純友が反乱を起こしたとき、朱雀天皇より錦の御旗および天国の短刀を賜わり、源経基・小野好古らとともに出陣して純友を追討した。乱の平定後、その勲功によって征西将軍となり、筑前に所領を賜り、代々、太宰府政庁の府官の職務についた。のちに山麓の原田に居館をつくり、地名をもって原田を名乗り土着したという。
春実の孫大蔵種材は、寛仁三年(1019)の「刀伊賊の来寇」に功があり、大宰大監となった。以後、大蔵氏の代々は大宰大監に任じられ、種資(輔)の代に、鞍手・岩門・別府らの庶子家が分かれた。さらに、秋月・原田・高橋・田尻・三原などの諸家が分かれて、大蔵氏は鎮西の大族となったのである。そのなかでも原田・秋月・高橋の三氏が、とくに大蔵氏三大豪族と称される。
秋月氏の登場
源平争乱期の原田種直は、平家と結んで平重盛の養女を室に迎え、大宰少弐に任じられてその勢力は隆々たるものがあった。しかし、平家が壇ノ浦で滅亡すると、原田氏は領地を没収され、種直は鎌倉に幽閉の身となった。秋月氏の祖種雄(種生)は原田種直の子(種雄の所生は系図によって異なる)で、「秋月家譜」によれば「種雄賜封筑前秋月荘乃城而治之、自是以秋月為姓也」とある。すなわち、源頼家の時代に秋月荘を賜って、地名によって秋月を称したという。
また種雄が秋月庄を賜った伝承として、正治二年(1200)、梶原景時が失脚したとき、武田有義が景時に加担して甲斐で討たれた。有義は鎮西の武士を糾合して、将軍にとって代わろうとしたといい、それに呼応しようとする勢力が九州に存在した。そして、種雄は九州の反幕勢力の計画を幕府に報告したという。その功により、建仁三年(1202)に「封を筑前秋月荘に賜る、城を築き、秋月をもって氏となす」に至ったというものである。その真偽のほどは分からないが、秋月庄は大蔵一族と関係があったようで、平家が滅亡したのち没官領となっていた。それを、種雄はなんらかの功によって与えられたものであろう。
いずれにしろ、種雄が秋月に入部し、鎌倉御家人となったことが秋月氏のはじめとなったことだけは間違いないと思われる。種雄は古処山城を築いたと伝えられ、平時の居館は山麓の荒平城であったようだ。『筑陽記』に「古処山は秋月氏の本城なり、里城を荒平山に置く」と記されている。
種雄の孫三郎種家のとき蒙古の襲来があり、種家は弘安の役には手勢を率いて博多に出陣して功をあげた。『北肥戦誌』には、種家の子種頼が異国警固使として、石築地の普請に従事したことが記されている。また『蒙古襲来絵詞』には、「筑前国御家人秋月九郎種宗の兵船」が描かれ、その活躍ぶりを見ることができる。この種宗は秋月氏の系図には見えない人物だが、種家の兄弟であろうと考えられる。
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・古処山城のあった古処山
乱世のはじまり
蒙古襲来は文永の役、弘安の役と二度にわたって繰り返されたが、いずれもときならぬ大風によって勝利をえることができた。この戦役には多くの武士が参戦して活躍したが、元寇は一方的な襲撃を受けたもので、勝利を得たからといって領地が増えたわけではなかった。幕府は御家人に対する論功行賞に苦慮し、これが幕府滅亡の一因ともなった。さきの『蒙古襲来絵詞』は、肥後の御家人竹崎季長がみずからの戦功を訴えるために描かせたものである。
元寇に活躍した少弐景資が家督をめぐって兄の経資と争ったのは、幕府の謀略が背景にあったといわれている。それを裏付けるように、景資とその一党が敗れたのち、かれらの所領は没収され元寇の恩賞として御家人に配分されている。
一方、北条得宗家の御内人と呼ばれる被官たちが、幕府政治を壟断するようになり、執権政治にもようやく弛緩がみえてきた。そのような情勢下、後醍醐天皇による正中の変、元弘の変が起こり、幕府は滅亡して建武の新政がなった。
建武二年(1335)、足利尊氏が新政府に謀叛を起こし京都を制圧した。しかし、北畠顕家、楠木正成らに敗れた尊氏は京都を逃れ、再起を期して九州に奔った。少弐氏、大内氏、島津氏らの九州の有力者は尊氏を迎えて、宗像神社に入った。これに対して、菊池武敏、阿蘇惟直らを中心とする九州宮方が兵を北上させ、多々良浜に陣を布いた。この陣に秋月種道も参加して、宮方の一翼を担った。
双方の兵力は宮方が三万といい、尊氏方は大将級が揃っているとはいえ一千にも満たないものであった。尊氏はみじめな敗北を喫するよりは自刃しようとしたが、弟の直義に諌められ、みずから兵を指揮して戦いの火蓋をきった。戦況は宮方の優勢に進んだが、時ならぬ北風が起こり宮方に向かって吹き付けた。勝利の女神は尊氏にほほえみ、情勢はにわかに逆転、さらに松浦党が尊氏方に転じたことでついに宮方は総崩れとなった。
菊池武敏はわずかの兵とともに退却し、阿蘇惟直・惟成兄弟は肥前小城まで逃れたところで討死した。種道も戦線を離脱したが、太宰府まで落ちたところで追手に囲まれ自刃して果てた。かくして、尊氏は勢力を挽回し、九州の兵を率いて西上の軍を起こした。摂津湊川で楠木正成を討ち取り、新田義貞を敗走させた尊氏は京都をふたたび制圧した。後醍醐天皇は吉野に逃れて朝廷を開き、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開いた。ここに、半世紀にわたる南北朝の争乱の幕開けとなった。
戦国時代への序奏
九州の南北朝の争乱は、征西将軍懐良親王と親王を擁する菊池武光が、武家方を数度の合戦に破って宮方(征西府)の全盛時代を現出した。対する幕府は今川了俊を九州探題として下向させ、宮方に対抗させた。了俊の卓抜した政略と戦略で、九州も次第に武家方の優勢にかたむき、ついには宮方は逼塞を余儀なくされた。そして、明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、半世紀にわたった動乱にピリオドが打たれた。
九州南朝方の勢力駆逐に大活躍を示した了俊であったが、守護として独自の勢力拡大を企図する大内・大友氏らの讒言によって探題職を解任され、京都に召還された。その後の探題職には渋川満頼が補任され、幕府は大内氏に探題補佐を命じた。これに対して、少弐氏は豊後の大友氏と結んで対抗、以後、探題=大内と少弐=大友との抗争が豊前・筑前を舞台に展開されるようになった。
応永十二年(1405)、豊前守護に補任された大内盛見は、やがて筑前にも進出した。以後、渋川氏を支援して、抵抗を繰り返す少弐氏、大友氏らとの戦いを繰り返した。応永三十二年には、少弐氏によって劣勢に追い込まれた渋川氏を支援して鎮西を転戦した。ついで、永享元年(1429)、少弐氏・菊池氏らが挙兵すると、盛見は鎮西に出陣した。このような盛見に対する幕府の信頼はあつく、幕府は筑前を料所としてその代官を盛見に任じた。
筑前料所の代官となった盛見は筑前に入って大友氏の所領を没収しようとし、抵抗する大友持直と対立するようになった。持直は少弐満貞と結んで盛見に対抗したが、戦況は大内方の優勢であった。ところが、永享三年、筑前恰土郡萩原の戦いで盛見は少弐・大友連合軍に敗れて戦死してしまった。
ここに大内氏の九州進出は一頓挫したが、盛見の活躍によって筑前の国衆の多くが大内氏に従うようになった。秋月氏もそのような一人で、正長二年(1429)、大内氏の吹挙により所領安堵を幕府から受けている。系図からみて、種氏か種照の代であったと思われる。
盛見の死後、大内氏は家督争いが起こり、九州に対する影響力を後退させた。代わって少弐氏の勢力が伸び、秋月氏も少弐氏の麾下に入ったようだ。内訌を制して大内氏の家督となった大内持世は、少弐満貞・大友持直を討つため九州に渡海、敗れた少弐満貞は秋月城で討死した。その後も大内氏と少弐・大友氏との戦いが繰り返されたが、秋月氏の動向は知られなくなる。
戦雲動く北九州
応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が起こると、大内氏の惣領政弘は上洛して西軍の中心勢力として活躍した。西軍の細川勝元は、少弐氏、大友氏らに働きかけて、大内氏が留守とした分国の撹乱を企てた。少弐教頼は博多に進出したが、大内氏の反撃によって戦死した。ついで、大内一族の教幸が東軍に通じて兵を挙げたが、政弘の留守を守る陶弘護の活躍によって教幸の乱は鎮圧された。このとき、秋月氏は宗像・麻生氏らとともに弘護の軍に加わっていたことが知られる。
十年にわたって在京していた大内政弘であったが、分国の不穏な動きもあり、文明九年(1477)山口に帰還した。帰国した政弘はただちに豊前・筑前に出兵し、少弐氏らによって撹乱された領国の回復に着手した。政弘はたちまち豊前・筑前を制圧し、戦勝を祝う使者らが政弘のもとを訪れた。秋月種朝も政弘に謁見を請い、太刀を進上している。おりから肥前の千葉氏が内訌にゆれており、政弘は種朝に大内方の千葉胤朝援助を命じた。種朝は千手道吽とともに出陣したが、和議が進められ、その後の顛末は不明である。
このとき、種朝の先陣に秋月小太郎弘種が参加していた。秋月氏の系図には見えない人物であるが、弘の字は政弘から賜ったものと思われ、おそらく種朝の子であったと思われる。また、このころの秋月氏が、大内氏から偏諱を賜る関係にあったことがうかがわれる。
秋月氏は大内氏の麾下に属しながら、筑前の国人領主として筑前南部に一定の勢力を堅持していた。永正四年(1507)、大内義興はかねてより庇護していた前将軍足利義尹(義稙)を奉じて上洛の軍を起こした。この陣には中国地方の将士をはじめ、少弐・大内・島津も兵を出し、秋月土佐守種貞が従ったという。
享禄二年(1529)、義興が没して義隆が大内を継いだ。義隆は父祖の遺業を継承して少弐氏と戦い、着々と九州経営を推進した。一方、大友義鑑は少弐氏を支援して筑前に兵を出し、大内氏と戦いを繰り返した。やがて少弐氏が没落し、幕府の和睦要請もあって大内義隆と大友義鑑は和睦した。その会談は秋月でもたれていることから、大内・大友の和睦に秋月種方が尽力したようだ。それを裏付けるように、種方は大内・大友の和を図ったとして、幕府の供衆に列せられることを請うている。また、このような種方の行動は、大内一辺倒ではなく天下の情勢にも目を向けていたことを感じさせる。
秋月氏の挫折
天文十九年(1550)、大友氏で二階崩れの変が起こり義鑑が横死して、義鎮(のちの宗麟)が家督を継いだ。そして、翌二十年には、大内義隆が重臣陶隆房(のちの晴賢)の謀叛で殺害されるという事件が起こった。隆房は義鎮の弟晴英(義長)を迎えて大内氏の家督とし、みずからは執政となって実権を掌握した。ここに、大内氏、大友氏を取り巻く情勢は激変し、事態は新たな局面を迎えることになる。
筑前の原田氏や筑紫氏、さらに秋月氏らは大友氏の動きを睨みながら自立の動きを見せるようになった。弘治元年(1555)、毛利元就と陶晴賢が安芸の厳島で戦い、敗れた晴賢は自刃して滅亡した。ついで、毛利元就は大内義長を討ち取って、一躍中国地方の覇者に躍り出た。その後、毛利氏が豊前・筑前に進出するようになると、秋月文種(種方)は毛利氏に通じて大友氏に反旗を翻した。大友宗隣はただちに戸次鑑連(立花道雪)・臼杵鑑連・志賀親度らを大将とする二万の大軍を送り、天然の要害古処山城に籠城する秋月氏を攻めた。時に、弘治三年(1557)七月であった。
文種は古処山城に籠り、秋月勢を率いて必死に防戦したが、衆寡敵せず嫡男晴種はじめ多数の家来が戦死し、城は焼かれ落城した。同月十二日に文種は自決し、生き残った家来たちは離散した。このとき、種実ら文種の子供たちは、僧に守られて辛くも城を脱出、毛利氏を頼って周防へ逃れた。また異説によれば、文種は次子種実および筑紫惟門とともに毛利氏のもとに逃れたともいわれる。
永禄二年(1559)正月、秋月氏の旧臣深江美濃守は秋月種実を迎えて、古処山の大友軍を破り、所領を回復した。種実の弟種冬は高橋鑑種の養子として豊前小倉城に入り、同種信は長野家を継いで豊前馬岳城となり、同元種は香春岳城主となり、それぞれ大友氏に対抗した。秋月氏の名が史上もっともあらわれるのは、この種実の代からである。
大友氏との攻防
さて、種実は大友義鎮(宗隣)を仇敵と狙ったが、宗隣は筑前・肥前・豊前の守護となり、本国の豊後をはじめ、九州六ケ国を支配下におき、九州探題職ともなってその勢力は全盛を誇っていた。一方、種実にも強力な味方が現われた。大友氏の重臣で宝満城督をつとめる高橋鑑種である。
鑑種は大友一族である一万田氏の出身で、宗隣の命で高橋氏の名跡を継ぎ、部将として数多くの戦功を立てた。その功で筑前三笠郡一円と、太宰府の寺社をはじめ、軍・民両政の統轄権を与えられ、宝満城督として筑前経営の重責を担った。ところが、宗隣が鑑種の兄一万田親実の妻を奪い、親実を死に追いやったことから、宗隣を恨み叛意を抱くようになったのだという。そして永禄九年、鑑種は毛利氏と結んで秋月を援助し、筑紫惟門らとも密かに連絡をとりながら、反大友の旗頭となった。
永禄十年(1567)、宗麟は使者を岩屋城に送って詰問したが、鑑種はそれを受け付けず、種実と協力して反大友の兵を挙げた。かれらの決起は大友に反感を抱く北九州の国人たちを奮起させ、つぎつぎに内乱を誘発していった。
宗隣は筑前で起こった非常事態に対し、戸次・臼杵・吉弘・斎藤・吉岡らの諸将に討伐を命じ、二万の軍勢をもって現地に発向させた。討伐軍主将格の戸次鑑連は、宝満城攻略のため、一万の軍を太宰府に残し、続々集結する豊後・筑後の兵二万余を率いて秋月へ向かった。戸次軍は秋月の手前にある休松城を落し、ここに陣を布いた。ところが、毛利氏が豊前に進出したとの噂によって、大友軍に従っていた豊前衆が次々と帰国したため、鑑連はひとまず休松に兵を退いた。
この大友軍の動きをみた種実は、密かに城を出撃すると休松の陣に夜襲をかけ大勝利をえた。この戦闘で大友方の戦死・負傷者が多く、なかでも宗隣が最も頼りにしていた戸次鑑連の家中に犠牲者が多かった。鑑連の五人の弟たちも一夜にして戦死してしまった。宗隣は戦後、鑑連の無事を喜ぶとともに、かれの弟たちに深甚なる弔意を表わして慰めている。その書簡のなかで、秋月種実への激しい怒りを表わしている。逆にいえば、秋月種実の大友氏への復讐戦がいかに苛烈を極めたものだったかをうかがわせる。
秋月氏は休松城の戦いに勝利はしたものの、局地戦での勝利であり、大友の軍威はいささかも揺らぐことはなかった。
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・秋月氏の軍旗:唐花が据えられていた
時代の転変
翌永禄十一年四月、大友方の立花城将立花鑑載が反旗をひるがえした。そして、毛利方の将清水左近将監が援軍として、八千の兵を率いて立花表に到着、立花勢と協力して大友軍の来襲に備えた。同月下旬から、大友軍の猛攻撃が始まり、山麓一帯で戦闘が行われた。以来、両軍は夏までの三か月間、対戦を続けた。大友方の主将戸次鑑連は謀略をもって、立花方の将野田某を内通させ、その手引で一気に立花城内に攻め込んだ。ここに立花城は落城、鑑載は自害した。毛利の援将清水左近将監は、敗残の軍兵をまとめて撤退していった。
立花城の陥落を知った秋月種実は、まだ、宝満山城では高橋鑑種が抗戦を続けているのを知りながら、大友軍に降伏してしまった。休松であれほど勇戦奮闘した種実にしては、あまりの急変ぶりであった。おそらく、抗戦の限界を知って降伏したものであろう。
永禄十二年、毛利氏は再び立花城を奪回し、巻き返しを図る大友軍と激しい攻防戦を展開した。毛利氏との戦いに手を焼いた宗隣は、一計を案じて大友家に亡命中の大内輝弘に兵を付けて山口に送り込んだ。さらに尼子残党とも結び、毛利本国へ逆攻勢をかけたのである。国元の異変に驚いた元就は、全軍に九州からの撤退を命じ事態の収拾にあたった。
かくして、北九州を支配下においた宗隣は宝満城の高橋鑑種を小倉に移し、後任に吉弘鎮種(高橋紹運)を入れ、立花城には戸次鑑連(立花道雪)を配し、それぞれ城督に命じた。このとき、秋月種実は宗隣から所領の安堵を受けている。
やがて、時代は大きな動きを見せ始める。肥前では少弐氏を滅ぼして東肥前を支配下においた龍造寺隆信が宗隣に徹底して反抗、大友軍の佐嘉城攻撃を今山の合戦に破って武名をあげた。一方、薩摩・大隅を統一した島津義久が肥後・日向に進出するようになった。このような状況下で、種実は龍造寺隆信との友好関係を築きながら、近隣の筑紫・宗像・原田氏らの反大友勢力と気脈を通じていた。
天正六年(1578)、大友氏が日向高城、耳川で島津氏と戦って大敗すると、種実は島津氏に与して最盛期を迎える。その勢力は十一郡に及び、二十四城を数え、石高にして三十六万石という大勢力となった。
戦国時代の終焉
しかし、秋月氏の全盛も長くは続かなかった。天正十四年に始まった秀吉の九州征伐に際して、種実・種長父子は秀吉に対抗して島津氏に属し籠城した。秀吉は古処山城の支城で熊井越中守が籠る天然の要害、岩石城を攻撃した。秀吉にとっては九州役で最初の城攻めであり、力を誇示し見せしめのためにも総力をあげて攻めた。
豊臣軍のは豊臣秀勝を大将に、蒲生氏郷・前田利家らを副将とする五千の兵であった。熊井越中守率いる秋月方の精兵三千騎は、山上からは大木・大石を投げ落し、矢弾を乱射して防戦につとめた。しかし、近代装備と戦なれした秀吉軍が物量で圧倒、城将熊井越中守・芥田六兵衛らは討死して、夕刻には落城した。種実は岩石城と古処山城の中間にある益冨城で戦況を見守っていたが、一ヵ月の籠城には耐えると考えていた岩石城がわずか一日で落城したことに驚き、益冨城を破壊すると兵をまとめて古処山城に逃げ帰った。
翌日、秀吉軍は古処山城を囲んでいっせいに篝火を焚かせたので、秋月方はそのおびただしさにあらためて驚き、夜が明けると破壊したはずの益冨城が一夜で白亜の城となっている。秀吉一流のトリックだが、これを見た秋月方は戦意を喪失してしまった。
かくして、秀吉軍の実力を思い知った種実は、嫡子種長とともに剃髪し、墨染の衣に身を包んで、古処山城を下り秀吉に降伏した。種実は一命を助けられ、十六歳の息女を人質に出し、「楢柴の肩衝および国俊の刀」を献上して、なんとか本領を安堵された。以後、島津攻めの先陣に立たされた。
九州役後、日向串間へ転封され、文禄の役には、種長が出陣している。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では、弟の高橋元種、肥後人吉の相良長毎らと西軍に属し、美濃大垣城にあって三の丸を守った。しかし、種長らは寄手の水野勝成に通じ、大垣城を落とさせた功によって、戦後本領安堵を受けることができた。こうして、秋月氏は戦乱の時代を生き抜き、江戸時代は高鍋二万七千石を領して明治維新に至った。・2005年5月15日
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・輪違いに唐花:高鍋藩秋月氏の定紋
【参考資料:甘木市史/九州戦国史 ほか】
■参考略系図
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二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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