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豊前長野氏
●三つ盛扇
●桓武平氏貞盛流


 長野氏は平安末期から戦国期の天正年間まで、豊前国規矩郡長野地方を中心に国人領主として勢力を有した。『長野系図』によれば、平清盛の従兄弟康盛が保元二年(1157)豊前国司として下向し、長野城を築いて居城として以来、地名をとって長野氏を称するようになったという。
 長野氏は代々がその名に「盛」を通字といていることから、平氏の一流であったことと解されるが、中世の系図集として信頼性の高い『尊卑分脈』の平氏系図には、正盛の子に時盛は見えない。一説に太宰府府官の大監・小監などに任じられた鎮西平氏の一族とする説もあるが、長野氏に関する記録や文書が乏しく、長野氏の出自を桓武平氏とする決定的な証拠はないというのが実状である。
 源平内乱の時代、康盛の子長盛らは平家に与して、信盛は壇の浦で平氏とともに入水自殺している。平氏滅亡後、長盛は源頼朝に降ったが、平氏の一族ということで赦されなかった。その後、源範頼の取りなしで赦面を得て、本領の規矩郡地頭職を安堵されたと『長野系図』に記されている。

一様ではない長野氏

 元弘の乱によって鎌倉幕府が滅亡し、九州では鎮西探題が落されて探題の北条英時が自刃した。かくして、後醍醐天皇による建武の新政がなったが、北条英時の一族規矩高政・糸田貞義らが帆柱城に拠って反乱を起こした。この乱に際して、高政方に長野政通・貞通兄弟が加担して活躍したが、北条残党方の敗北後に少弐頼尚に降っている。この長野兄弟は、ともに通の字を名乗りにもっていることから、豊後清原氏系の長野氏であった可能性もある。
 建武二年(1335)、足利尊氏の謀叛によって新政は動揺した。尊氏は討伐軍を破って京都を制圧したが、翌年、官軍に敗れて九州に落ち伸びた。そして、九州宮方と多々良浜で戦って勝利をえると、ふふたたび上洛軍を起こして京都を制圧した。後醍醐天皇は吉野に奔って朝廷を開き、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開いた。以後、半世紀にわたる南北朝の争乱が展開することになる。
 建武三年から五年にかけての『足利尊氏感状写』などに、長野助豊の名がみえる。この助豊は建武五年の軍忠状には豊前国長野左衛門三郎助豊と自称し、別の軍忠状には中原助豊と署名している。これらのことから長野助豊は、治承五年(1181)に長野荘の地頭として現われる中原助光の子孫と思われる。そして、助豊は豊前守護少弐頼尚にしたがって各地を転戦したことが知られる。
 一方、桓武平氏という長野氏は『長野系図』によれば、豊前守基盛の弟三郎義広が多々良浜の合戦において尊氏軍に属して戦死している。ついで基盛の子秀盛と孫久盛が、尊氏に味方して九州の所々において戦功があったと記されている。
 このように、南北朝時代のはじめにおいて、清原氏系、中原氏系、桓武平氏系の三つの長野氏があらわれるが、いずれも長野荘ないし規矩郡の武士たちである。これらの長野氏をどう整理し、いかに説明するか、『北九州市』では「大変な難問で回答に苦しむ」ところであると記されている。まことにその通りで、長野氏の解明には多くの障壁が横たわっているのである。

乱世の序章

 南北朝の動乱期において、長野氏がどのように行動したのかは史料がなく、不明というしかない。とはいえ、他氏に残された記録や、戦記物に長野氏の名が散見する。
 正平十四年(1359)、少弐頼尚と大友氏時が連合して宮方の挟撃を策した。これに対して征西宮将軍懐良親王を奉じる菊池武光は、四万の兵を率いて筑後川畔の台地大保原に出陣、両軍激戦となり少弐・大友連合軍は敗走した。ついで正平十六年、体制を回復した少弐冬資・大友氏時らを討つため、菊池武光が筑前に進出し、少弐・大友勢を撃破した。この戦いに長野氏は、麻生・門司・城井氏らとともに少弐氏にしたがって菊池勢と戦った。翌貞治元年(1362)、少弐冬資が筑前怡土郡で宮方と戦ったとき、長野掃部允は門司親尚らと冬資に属して戦ったがまたもや敗戦であった。
 かくして、九州宮方は太宰府を支配下におき征西府を立て、九州宮方の全盛時代が現出した。幕府は九州における劣勢を挽回するため、斯波氏経を九州探題に任じて九州に下した。氏経には少弐冬資・宗像・松浦党らが従い、粕屋郡北方から太宰府を突こうとした。長野掃部允は探題方に属して、兵二千を率いていたというが、数字には誇張があるようだ。探題軍に対する征西府軍は、菊池武光の弟武義が兵を率いて出陣、両軍は長者原で激突し、敗れた探題斯波氏経は九州を逃れて帰京していった。
 幕府は新たな探題に今川了俊を起用し、九州の戦局の挽回を図った。了俊はすでに幕府の重臣であり、文武兼備の武将として知られた人物であった。一族を率いて九州に赴任した了俊は、優れた政略と戦略をもって太宰府を回復し、次第に九州宮方を劣勢に追い込んでいった。
 明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、半世紀にわたった争乱に終止符が打たれた。九州における最大の功労者であった了俊は、応永二年(1395)、探題職を罷免されて京都に召還された。その後の九州探題には渋川満頼が任じられ、その後援を豊前守護に補任された大内義弘が命じられた。この新体制に対して、少弐氏は大友氏と結んで対抗し、応永四〜五年(1397〜98)、長野氏は大友氏鑑に従い豊前松山城を攻めたことが知られる。
 このころの長野氏は系図からみて、義忠兄弟のの世代にあたり、系図にも「応永六年より義忠・義種・義基・義冨、大内義弘の幕下に降る」とある。大内氏が豊前守護として勢力を伸ばしてくると、大友氏から離れて大内氏被官の道を選んだのであろう。そして、義忠は大三岳(おおみつがだけ)城、義種は長野城、義基は小三岳城、義冨は大野稗畑山城に拠り、さらに下長野城、丸ヶ口城、福相寺城などに長野一族が割拠した。かくして、長野氏は室町時代のはじめにおいて、長野地方から東谷・中谷・西谷、さらに蒲生、徳力までを勢力下におくようになったのである。

戦国時代のはじまり

 以後、大内氏=探題渋川氏と少弐氏=大友氏は、豊前・筑前をめぐって戦いを繰り返した。永享五年(1433)、大内持世が少弐満貞・大友持直を追討したとき、長野氏は探題渋川氏・城井・草野・原田・松浦氏らとともに大内氏に従った。しかし、長野氏の系図にはその間のことは記されていない。
 応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が勃発した。大内政弘は西軍に属して京都に上り、西軍の中心勢力として活躍した。東軍の細川勝元は大内氏の後方撹乱を図り、少弐氏、大友氏らに豊前・筑前への出陣を促した。少弐教頼は筑前に入ったが、応仁二年、大内氏の重臣陶弘護の率いる大内軍は教頼を追い払った。大内軍には豊前勢が従い、長野五郎義信も大内方に従っていた。ついで、文明三年(1471)、大内政弘の叔父教幸が東軍に通じて兵をあげた。この反乱も陶弘護の活躍で鎮圧され、豊前に逃れた教幸を長野氏は城井氏と妨害し、教幸が馬ヶ岳城に入るとこれを攻撃した。その後も、大内氏に属して活躍する長野氏の動きが知られる。
 文明五年に西軍の山名宗全が死去し、ついで東軍の細川勝元が死去したが、乱は慢性的に続いた。やがて文明九年、領国の動揺を重く見た大内政弘が帰国したことで、応仁・文明の乱は終息した。しかし、乱は全国に及んで、世の中は戦国時代へと推移していた。
 帰国した政弘は豊前・筑前の回復を目指して出陣、たちまち少弐・大友氏を蹴散らし豊前・筑前を平定した。このとき、豊前・筑前の国衆、寺社は大内政弘に祝賀を行った。名はみえないが、長野氏も祝賀のために政弘のもとに参じたと思われる。
 文亀元年(1501)、将軍足利義澄は大友義右に大内方の攻撃を命じ、義右は少弐氏と結んで大内方の馬ヶ岳城を攻撃した。これに対して、大内方の城井・門司・長野氏らは、大内氏の重臣である陶氏とともに大友氏を迎撃して大友軍を敗走させた。

時代の変転

 このころ、幕府権力は衰退の色を見せ、管領細川政元が幕政の実権を掌握していた。ところが、永正四年(1507)、政元が重臣の謀叛によって殺害され、細川氏は内訌に揺れるようになった。これをみた大内義興は、かねてより庇護していた前将軍足利義稙を奉じて上洛の軍を起こした。この陣には少弐氏をはじめ、宗像・麻生・城井氏ら九州の諸大名も供奉し、長野修理進も参加していた。修理進は長野城主義種の孫、行房に比定されている。翌年、足利義稙は将軍職に復帰し、大内義興は管領代、さらに大宰大弐に任じられて得意絶頂のときを迎えた。
 その後、大内氏に従っていた少弐氏、尼子氏、安芸武田氏らが帰国し、それぞれ、みずからの勢力拡大につとめるようになった。こうして、中国・北九州地方は新たな戦乱の時代に直面した。少弐氏は大友氏と結んで筑前の奪回を目指して、大内軍と戦いを繰り返した。大内氏は陶氏、杉氏らを大将とする少弐討伐軍を送り、少弐氏を追い詰めていった。
 義興のあとを継いだ義隆も、父祖の遺業を継いで九州経営につとめ、少弐・大友軍と戦った。天文二年(1533)、義隆は杉興運に命じて少弐資元を岩屋城に攻め、ついで陶興房を送って資元を攻撃した。この陣には、城井弥三郎、長野三郎左衛門ら豊前衆も一族・郎党を率いて参加していたことが『歴代鎮西志』にみえている。
 天文十九年、大内義鑑が死去して義鎮が大友氏を継承した。翌天文二十年には大内義隆が陶晴賢の謀叛で殺害され、九州を取り巻く情勢は一変した。弘治元年(1555)、陶氏は毛利元就と安芸厳島で戦って敗れて滅亡した。かくして、毛利氏が北九州に進出するようになった。弘治三年、毛利方の吉川元春・小早川隆景らが、豊前に入り門司城を攻撃すると、城井氏、貫氏、長野筑後守らが毛利方に加わった。
 こうして門司城をめぐる毛利氏と大友氏の戦いが繰り返され、永禄二年(1559)の戦いでは大三岳系長野氏が毛利氏に応じた。一方、永禄四年になると小三岳系長野祐盛が大友氏に人質を出している。この年、大友氏は門司城を奪回するため出陣したが、毛利方の水軍によて敗退した。翌永禄五年、大友宗麟は、佐田隆居らに命じて城井鎮房、長野祐盛の討伐を命じ、さらに門司城への攻撃を行った。

長野氏の最期

 小三岳系長野祐盛は一説に古処山城主秋月文種(種方)の子で、長野胤盛のあとを継いだ人物たという。秋月文種は毛利氏と結んで大友氏に抵抗し、敗れて討死した。そのとき、秋月一族は離散し、のちに種実が勢力を挽回し大友氏に抵抗を繰り返した。おそらく、長野祐盛も兄種実と結んで大友氏と対立したものと思われる。永禄八年にも宗麟は、田原親宏・佐田隆居に命じて祐盛を攻撃している。ちなみに、このときの小三岳城攻めは「長野御成敗」と呼ばれている。
 「長野御成敗」によって、長野祐盛は大友氏に降ったようで、祐盛の子は田原親宏の養子に迎えられ親貫を名乗っている。
 一方、永禄十一年(1569)、毛利氏の大軍が豊前に送り込まれ、大三岳を始めとする長野氏の居城はつぎつぎと集中攻撃を受けた。「長野退治」と称され、全城ことごとく落城して一族は四散し、一部のものは豊後の大友氏をたよって落ち、長野氏はわずかにその命脈を保つのみとなった。
 その後、天正六年(1578)に至って、小三岳系長野三郎左衛門助盛と長野系長野義俊が馬ヶ岳(うまがだけ)城に復活した。この年、大友宗麟は日向で島津氏と戦って壊滅的敗北を喫し、一気に頽勢に追い込まれた。以後、島津氏の勢力が九州を席巻するようになり、天正十四年、島津軍の攻勢に窮した宗麟は大坂に上って豊臣秀吉に救援を求めた。
 秀吉はただちに九州征伐を開始し、翌十五年にはみずから九州に入った。秀吉は秋月種実の支城岩石城を攻撃したが、このとき、馬ヶ岳城が秀吉の本陣となった。助盛は秋月種実の弟であり、どのように対処したのであろうか。いずれにしろ、長野氏は筑後に国替えとなり、豊前における約四百三十年の歴史は幕を閉じたのである。
 その後の長野氏の動向は明確ではないが、『長野氏系図』を見ると、助盛とともに馬ヶ岳城に入った義俊は立花飛騨守に属したとある。他方、大三ヶ岳系の盛義、長野系の義正、そして、助盛の子永盛は元和元年(1615)大坂城で死去したとあり、長野氏は豊臣氏に仕えたようだ。そして、豊臣家の滅亡とともに長野氏も命脈を断たれたのであろう。・2005年5月15日

参考資料:北九州市史/九州戦国史(吉永 正春 著)/福岡県の歴史 ほか】

お奨めサイト… 長野城跡(企救の里)



■参考略系図
・『姓氏家系大辞典』『北九州市史』に掲載された長野氏系図から作成。


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