|
少弐氏
●寄懸り目結
●藤原氏秀郷流
鎌倉時代に成った『蒙古襲来絵詞』のなかに少弐氏が登場し、その旗には「寄懸り目結」の紋が描かれている。
|
|
少弐氏は藤原姓を称し、北九州の中世史に大きな足跡を刻んだ武家である。その出自に関しては諸説があるが、はじめ武藤を称していたことは共通している。
ちなみに、『武藤氏系図』によれば、藤原道長の後裔で代々武蔵国に知行を持ち、「武蔵の藤原」を略して武藤氏を称したという。また、鎮西武士たちの興亡を記した『北肥戦記』には、武藤氏の家紋について「左中将尾張守藤原長頼は、相伝の知行地である武州戸塚郷に下り、武州の藤原であるから武藤中将と名乗った。その子頼氏は、八幡太郎義家に従って奥州に出陣し、寄懸の紋の旗を賜った」とある。これによれば、少弐氏は道長流武藤氏の後裔ということになる。
一方、中世の系図集として信頼性の高い『尊卑分脈』を見ると、少弐氏は藤原秀郷流となっている。すなわち、藤原秀郷の後裔嶋田二郎景頼が武者所に出仕して近藤武者と称した。ついで景頼の子頼平も武者所に出仕して、武藤を号したと記されている。頼平は武者所の藤原から、武藤を称するようになったということになる。そして、頼平の子が資頼で、鎮西守護と記されている。ちなみに、頼平の兄も武者所に出仕して、近藤太能成を名乗り、その子能直は鎮西奉行に任じられ大友氏の祖tなった人物である。九州の戦国史を彩った少弐氏と大友氏は、その源をたどれば同族だったことになる。おそらく、少弐氏は藤原秀郷の流れを汲む武士であったと思われる。
少弐氏の登場
治承四年(1180)、源頼朝が挙兵したとき、武藤資頼は平家方に与した。そのため、三浦氏のもとに拘束されていたが、のちに免ぜられて御家人となった。文治二年(1186)、天野遠景が九州惣追捕使(鎮西奉行)に任ぜられ、武士の乱行停止や平家の残党討伐などに活躍した。しかし、その強引なやりかたが荘園領主などの反発をかって、遠景は鎌倉に召還され、そのあとの鎮西西方奉行には武藤資頼が抜擢されて大宰府に赴任した。これが、武藤少弐氏が九州と関係をもったはじめである。
資頼は筑、豊、肥の前三州の守護職にも補任され、大宰少弐も兼任した。少弐というのは大宰府の官名で、大弐の次に位置する定員二名の官職であった。長官が帥で、次官が大弐・少弐であり、これらによって九州諸国を治めていた。やがて武藤氏は、官職である大宰少弐から少弐を家名とするようになった。その後、壱岐・対馬の守護職をも兼ね、九州における一大勢力として北九州に勢いを振うようになった。
蒙古(元)が襲来した文永・弘安の役に際して、少弐経資・景資兄弟は目覚ましい活躍をした。とくに景資は、九州の守護・地頭を指揮して敵将の劉復亨を討ち取るという殊勲を挙げた。少弐氏の活躍ぶりは、竹崎季長が遺した『蒙古襲来絵詞』からも十二分にうかがうことができる。
弘安八年(1285) 、元寇の乱に活躍した景資が筑紫郡の岩戸城に拠り、兄の太宰少弐経資に反旗を翻した。経資は直ちに討伐軍を繰り出し、岩戸城を攻撃した。この合戦は単純な兄弟争いではなく、鎌倉で起った霜月騒動に連動したものであった。
霜月騒動とは、北条得宗の御内人で内管領をつとめる長崎頼綱と有力御家人安達泰盛の抗争で、幕府御家人を二分する擾乱となった。乱は安達方の敗北に終わり、多くの安達氏与党が討伐された。景資は泰盛方につき、これに筑前・豊前の武士たちが味方した。戦後、景資らの所領は没収され、九州の御家人に恩賞として与えられた。岩戸合戦とよばれるこの争乱は、元寇の乱後の恩賞捻出に苦慮した幕府が仕組んだものともいわれる。おそらく、その通りであったと思われる。
その後、幕府は九州地方の政務や裁判などをスムーズに進めるため、博多に鎮西探題を設置した。その長官である探題には北条一族が任じられ、その下に評定衆・引付衆・引付奉行人が置かれ、宇都宮氏、東郷氏ら九州の有力な御家人が任命された。しかし、鎮西探題の設置は、これまで鎮西奉行として、太宰府の長として九州に勢力を有した少弐氏の機能・権限は著しく低下させることになった。
その後、得宗専制政治が強化されるにつれ、少弐氏は筑前守護に任じられるばかりとなった。それは、少弐氏と並んで九州三人衆とよばれた薩摩の島津氏、豊後の大友氏らも同様で、かれらの北条氏への不満は募っていった。やがて、得宗専制政治による矛盾が顕在化し、ようやく時代は不穏な空気に包まれるようになってきた。
時代の激変
正中元年(1324)後醍醐天皇が討幕運動を企てた「正中の変」が起ったが、計画は事前に漏れて失敗に終わった。元弘元年(1331)、後醍醐天皇はふたたび討幕運動を企て「元弘の変」が起ったが、これも失敗に終わって天皇は隠岐に流罪となった。しかし、これがきっかけとなって討幕の気運が盛り上がり、九州では菊池氏が主導的立場に立って後醍醐天皇に応じた。
菊池武時は少弐貞経、大友貞宗を語らい、鎮西探題を攻める計画を練った。ところが、これを察知した探題北条英時は三者を召集した。この事態に接した武時は兵を挙げ、少弐・大友の両氏にも決起をうながしたが、少弐氏らは動かず菊池氏は敗れてしまった。少弐貞経らにすれば、ことが漏れた以上は時期尚早と断じたのであろうが、菊池氏に比して腰砕けの誹りは免れないものであった。
そのころ、隠岐を脱出して伯耆の名和長年に迎えられた後醍醐天皇は、諸国の武士に決起をうながす綸旨を発した。幕府は足利高氏を大将とする討伐軍を送ったが、高氏は天皇方に転じ、軍を京に返すと六波羅を攻め落した。高氏が後醍醐方についたことを知った少弐貞経は、大友貞宗、島津貞久らとともに鎮西探題を攻め英時を自刃させた。かくして鎌倉幕府は滅亡し、建武元年(1334)、建武の新政が発足した。しかし、新政は恩賞の不平等や依怙贔屓などが多く、武士たちは次第に武家政権の再興を願うようになり、その期待は足利尊氏に集まっていった。
建武二年(1335)、信濃に匿われていた北条高時の遺児時行が諏訪氏らに奉じられて挙兵、たちまち鎌倉に攻め上った。尊氏は乱の鎮圧のため征夷大将軍への補任を望み、鎌倉に下ることを天皇に願ったが許されなかった。尊氏にすれば関東にはみずからの本領があり、許しをえないまま鎌倉に下ると、たちまち時行軍を打ち破り鎌倉に入った。以後、尊氏は天皇の召還命令を無視して鎌倉に居坐りつづけたため、天皇は新田義貞を大将として尊氏討伐軍を発した。討伐軍を箱根で破った尊氏は、その勢いにのって京都に攻め上ったが、翌建武三年、北畠顕家・新田義貞らの反撃に敗れ九州へと逃れ去った。
少弐貞経は子の頼尚とともに一門の兵をひきいて、尊氏を赤間関に迎えた。その後、太宰府に戻った貞経は、菊池武経に攻撃され奮戦したが、敗れて居城の有智山城に引いた。このとき、少弐氏が尊氏や供奉の人々のために用意した馬や物の具はすべて灰燼と化した。菊池勢は有智山にも攻め寄せ、激戦のすえに貞経は一族家人五百人あまりとともにに自害した。
南北朝の争乱
貞経ら少弐一族を葬った菊池勢は博多に入り、さらに多々良浜に陣を進めた。その勢は四万とも五万ともいわれ、迎え撃つ尊氏方は一千騎に満たない寡勢であったという。戦に先立って尊氏は、筑前国宗像を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて宗像大社に戦勝を祈願し、菊池軍との戦いの火蓋を切った。
尊氏方は劣勢のうえに、貞経が足利軍のために調達した装備は焼失し、まことに心もとない有様であった。ところが、おりから大風が吹き始め、それが菊池方へまともに吹き付けた。そこへ、菊池軍に加わっていた松浦党が尊氏方に転じ、戦況は一気に尊氏方の優勢となった。ついに菊池方は潰乱し、菊池武敏は肥後に退却、阿蘇大宮司惟直は肥前で戦死、秋月種道は太宰府まで落ち延びたところで一族とともに討死した。
この多々良浜の合戦により、九州における尊氏の覇権が確立した。態勢を立て直した尊氏は、一色範氏・仁木義長などを九州の抑えとして残ずと、ふたたび京を目指した。そして、摂津湊川で楠木正成を討ち、新田義貞を敗走させ、後醍醐天皇を幽閉すると京都を征圧した。その後、後醍醐天皇は吉野に脱出して朝廷を開き、これに対抗して尊氏は北朝を立てて幕府を開いた。以後、半世紀以上にわたって南北朝の動乱が続くことになる。
九州では菊池氏が南朝方の中心にあり、それに鎮西管領(のち九州探題)一色範氏が武家方=北朝方の中心として対峙した。その後、後醍醐天皇は懐良親王を征西将軍として九州に下した。薩摩に入った懐良親王は、艱難辛苦のすえに肥後に入ると菊池武光と結んで九州南朝の勢力拡大につとめるようになった。
やがて、尊氏と弟直義の対立から観応の擾乱が起ると、直義の養子直冬(尊氏の庶長子)が九州に入った。一色氏と対立していた少弐頼尚は直冬を支援して、九州における第三勢力を形成した。しかし、直義が尊氏に敗れて殺害されると直冬はにわかに孤立化し、ついには中国地方へ逃亡した。その後、頼尚は宮方の菊地武光と結び、九州探題一色氏と対立した。一色氏は針摺原の合戦、ついで犬塚原の合戦に敗れ、ついに九州から長門国に脱出、九州は宮方の勢力が強大となった。
少弐氏の迷走
一色氏が退散したことで少弐頼尚は幕府方に転じ、大友氏と結んで宮方と対立するようになった。そして、正平十四年(延文四年=1359)、頼尚は大友氏時と連合して宮方挟撃策に出た。
対する菊池武光は征西将軍懐良親王を奉じ四万の兵をひきいて筑後平野に進出すると、筑後川を前に高良山・柳坂・水縄の三ヶ所に布陣した。頼尚は少弐一族、松浦党、龍造寺氏など六万の兵を擁して味坂に陣を布いた。戦いは激戦となり、少弐軍の大敗に終わった。しかし、宮方も懐良親王が深手を負うほどの損害を受け、太宰府に敗走する少弐軍を追撃することはできなかった。この戦いは、筑後川の戦いまたは大保原合戦とよばれ、日本三大合戦のひとつに数えられる。翌年、菊池武光は懐良親王を奉じて大宰府へ進出し、正平十六年、大宰府を征西府として九州宮方の本拠とした。以後、十数年にわたって九州宮方は全盛期を現出した。
九州の情勢を重くみた幕府は、新たな九州探題に今川了俊を登用し、事態の収拾にあたった。今川了俊はすでに幕府の重鎮であり、文武兼備の将として知られた存在であった。この事態に際して、頼尚の子冬資は今川了俊を九州探題として迎え、弟頼澄が西征宮懐良親王に従うというように、少弐氏内部で南北の分裂もみられた。
了俊はその卓抜した政治力と武略をもって太宰府を回復すると、次第に征西府方を劣勢に追い込んでいった。そして、文中四年(応安八年=1375)、菊池氏を討つため水島に陣を進め、島津氏久、大友親世、少弐冬資らに来陣を求めた。大友・島津氏はただちに応じたが、少弐氏は応じなかったため、島津氏が骨折りして少弐冬資の来陣を実現した。
ところが、少弐氏の進退を疑った了俊は、冬資を陣中の宴席において殺害してしまった。了俊の行動に怒った氏久は、そのまま陣をはらって帰国した。以後、島津氏は徹底的に了俊に敵対行動を取り続け、それは南北朝時代が終わるまで変わることはなかった。水島の陣の一件は了俊にとって、生涯最大の失策となった。冬資が了俊によって殺されたのち、少弐氏の家督は頼澄が継ぎ、菊池氏と結んで今川氏に対抗した。
島津氏が離反したことで戦力低下に見舞われた了俊は、幕府に対して周防の大内義弘の援助を依頼した。これが、のちに大内氏が北九州に進出するきっかけとなった。その後、了俊の攻勢によって九州南朝方は逼塞、明徳三年(1392)には南北朝の合一がなった。九州における最大の功労者は今川了俊であったが、その権勢の大きさに危惧を抱いた幕府は、大内氏らの讒言もあって了俊から探題職を取り上げると、京都に召還した。失意の了俊が去ったのち、九州は新たな政治情勢に直面することになる。
戦国乱世への序奏
了俊が解任されたあとの九州探題には、渋川満頼が任じられた。しかし、九州探題の存在は、少弐氏をはじめ大友・島津氏ら九州の諸大名にとって喜ばしいものではなかった。とくに、鎌倉時代より筑前に勢力を維持し、太宰府と深い関係を有する少弐氏と九州探題とは相容れないものがあった。幕府は渋川氏の補佐を大内義弘に命じ、義弘は渋川氏を支援するかたちで九州に勢力を伸張するようになった。
義弘が応永の乱で戦死したのち、大内氏には動揺があったが、混乱を制した盛見が家督を継ぎ大内氏の惣領となった。盛見は義弘の二十一歳下の弟で、母は京の名門三条氏、その質は頑強にしてかつ沈着冷静と評される一角の人物であった。盛見の力を高く評価した幕府は豊前守護職に補任し、探題渋川氏と並んで北九州の経営をになわせた。
応永三十年(1423)、少弐満貞は渋川義俊を攻め、博多から追い出してしまった。博多を追われ肥前国に逃れたた義俊は、大内氏をたのんで再起を企てた。一方、幕府は筑前を料所(直轄領)とし、大内盛見をその代官に命じた。かくして、大内氏は晴れて九州介入の名目をえ、少弐満貞は大友持直と結んで、大内=九州探題連合に対抗しようとした。永享三年(1431)、盛見は筑前進出を企てる大友氏を討つため筑前に出陣、終始優勢に戦いを展開し、立花城を攻略すると、さらに筑前の西部に進攻した。少弐・大友連合軍は筑前深江において大内軍を迎え撃ち、ついに盛見を討ち取る勝利を得た。盛見の戦死は幕府を驚かせ「名将犬死」と惜しまれた。
盛見のあとを継いで周防・長門・豊前・筑前の守護となった大内持世は、永享五年(1433)、九州に兵を進めた。少弐満貞は子の資嗣とともにこれを迎え撃ったが、満貞は秋月城で戦死し、資嗣は肥前与賀庄にいおいて戦死した。満貞らが戦死したのち、残された嘉頼・教頼らは対馬の宗氏を頼って筑前から逃れ去った。
嘉吉元年(1441)少弐嘉頼が対馬で没すると、弟の教頼は宗貞盛の支援を得て太宰府の回復を図った。しかし、大内持世の軍と戦って敗れ、ふたたび対馬に逃れた。ほどなく、京都で嘉吉の変が起り、将軍足利義教が赤松満祐に殺害された。義教に供奉して赤松邸の宴に参列していた持世は、事件に巻き込まれて死去した。この変に際して教頼は、赤松追討の幕命に反したばかりか、播磨から逃走した満祐の弟則繁をかくまったことで、幕府から討伐を受ける身となった。幕命を受けた大内教弘は九州に渡ると教頼を攻め、敗れた教頼は対馬に逃れ去った。
大内氏との抗争
その後、文安三年(1446)に至って、教頼は筑前守護に補任され太宰府に復帰できた。しかし、宝徳元年(1449)大内教弘の攻撃を受け、太宰府を逃れた教頼は肥前に走り龍造寺氏を頼った。
応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が起こると大内政弘は上洛して西軍として活躍、教頼は東軍に味方して失地回復を狙った。そして、宗盛直とともに対馬から兵を率いて筑前に入ったが、大内軍に敗れ、翌年志摩郡において戦死した。
その後、大内氏の主力は京都を中心に活動するようになると、文明元年(1469)、教頼の子頼忠(政資)は宗貞国の後援を受けて太宰府の奪回を果たした。その後、東軍の政治工作もあって、将軍義政の偏諱を受けて政尚と改め、大内政弘と戦いを繰り返した。やがて、大内氏は少弐氏と宗氏の離間策を講じ、おりから、少弐氏を支援するかたちで肥前に出陣した宗氏が大敗を喫した。これがひとつの原因となって、少弐氏はもっとも頼みとした宗氏と疎遠になっていくのである。
文明十八年(1486)、小城の千葉胤朝と胤将兄弟が対立し、胤将は胤朝を殺害すると出奔し千葉氏は断絶に直面した。政資は胤朝の女に弟を配して千葉氏を相続させ、胤資と名乗らせて晴気城主とした。一方、大友政弘は胤朝の甥胤棟を庇護して胤資に対抗させたため、千葉氏は二つに分裂してしまった。文明二十一年、政資は筑紫満門・馬場経周らに命じて渋川刀禰王丸を攻撃、これを筑後に奔らせた。
その後も政資は肥前の有馬貴純や豊後の大友政親らと結んで大内氏勢力との抗争を繰り返し、少弐氏勢力の拡大に努めた。明応元年(1492)、筑前において大内氏の重臣陶興房と戦い、翌年には松浦郡に兵を進めた。つづく明応四年には、政資の子高経が上松浦において大内方の原田興種と戦い、これを打ち破った。
大内氏の攻勢に翻弄される
原田氏の敗北をみた大内義興は本格的に少弐氏攻めを企図し、翌明応六年、重臣の杉氏、陶氏を大将とする軍勢を九州に攻め入らせた。少弐氏は太宰府を失い、高経は神埼の勢福寺城に逃れた。勝ちに乗じた大内勢は、肥前に入ると勢福寺城を攻撃した。高経は父政資を庇護する千葉胤資の晴気城へ逃れたが、晴気城も大内軍に包囲され、政資・高経父子は胤資の勧めを入れて多久宗時の居城である梶峰城へと走った。政資・高経父子を落したのち、胤資は晴気城から打って出て討死した。
梶峰城に逃れる途中で高経が討たれ、政資は辛うじて梶峰城に入ることができた。しかし、大内勢が梶峰城に押し寄せてくると、ついに政資は切腹して果てた。その後、豊後の大友氏や旧臣横岳氏らの支援を得た政資の末子資元が少弐氏を復活させた。資元は勢福寺城を居城として着々と勢力を回復し、将軍家の意向もあって大内氏と和睦、資元は肥前守護となった。享禄元年(1528)、資元は松浦党の支援を得ると太宰府に進出した。これに対して、大内義隆は、享禄三年の夏、重臣の杉興運に資元討伐を命じた。
大内軍には筑紫尚門、横岳資貞、朝日頼貫らの少弐一族が先陣として加わっていた。迎かえ撃つ少弐勢は、重臣の馬場氏・江上氏、そして、龍造寺家兼(剛忠)・小田政光ら肥前の有力国衆であった。両軍は神埼郡の田手畷で遭遇し、戦いは激戦となった。そこへ、龍造寺氏配下の鍋島清昌が赤熊(しゃぐま)とよばれる異様な出立ちで大内軍の側面を攻撃したことで、大内軍は浮き足立ちついに潰走した。天文元年(1532)、大内義隆はふたたび少弐討伐軍を送ったが、これも龍造寺家兼の活躍で少弐方の勝利に終わった。この一連の活躍で、龍造寺家兼の存在は少弐家中において不動のものとなった。
一方、度重なる敗戦に業を煮やした大内義隆は、天文四年(1535)、みずから兵を率いて肥前に侵攻した。これにはさすがの少弐資元もたまらず、龍造寺家兼らの意見もあって勢福寺城を開いて大内氏に降った。三根・神埼・佐賀郡を失った資元は多久の梶峰城に入り、子の冬尚は小田氏の拠る蓮池城に逃れた。翌年、大内軍が梶峰城を攻撃すると、後藤氏・波多氏・草野氏らは大内氏に味方し、頼りの龍造寺家兼も傍観を決め込んだため、資元は父政資とまったく同じ場所・状況で自害した。
………
写真:与賀神社
与賀神社は、政資の父教頼が築いた与賀城の鬼門の鎮守として築かれたもので、楼門は国の重要文化財に指定されている。境内には無念の死を遂げた少弐政資を祀った少弐神社が鎮座している。
龍造寺隆信の登場
筑後に逃れた冬尚は、その後、蓮池の小田資光を頼って再起をねらった。この間、資光は冬尚に対して少弐が勢力を失墜したのは、龍造寺家兼が大内氏に通じた結果と吹き込み、それを信じた冬尚が家兼を攻撃するという一幕もまった。しかし、少弐氏を再興するには龍造寺氏の力は不可欠のものであり、冬尚は龍造寺家兼の佐嘉水ケ江城を訪れて協力を請うた。家兼にしてみれば受け入れがたいものであったが、目の前で哀願する冬尚に憐愍の情を誘われた家兼は協力を約すと、冬尚を勢福寺城に復帰させた。そして、家兼は二男の龍造寺家門を執権とし、それに江上元種、馬場頼周を補佐と定め、少弐冬尚は一応の安泰をえた。
天文十年、冬尚は大友義鎮と筑前で会合し、大内氏への対抗策をこらした。冬尚は家兼の支援によって勢力の回復をえたものの、父資元が滅亡したのは、家兼が大内氏に通じた結果という思いが捨てきれなかった。そこに、龍造寺氏の台頭を危惧する馬場頼周が、謀略をもって龍造寺氏を排斥しようと企てた。天文十四年、馬場頼周は冬尚を説き、家門ら龍造寺一門の主だった六人を謀殺した。
家兼をはじめとする龍造寺一門は少弐氏の柱石であり、この一挙は、少弐氏自滅の要因となった。翌年、鍋島氏の活躍で肥前に復帰した家兼は、仏門に入っていた孫の法師丸を還俗させて龍造寺家を継がせた。法師丸は胤信(のち隆信)と名乗り、天文十六年、大内義隆と結び少弐氏追討の軍をおこした。冬尚は江上元種をはじめ譜代の武士を集め、龍造寺軍と戦ったが目達原の合戦で敗れ去った。
天文二十年(1551)、大内義隆が陶隆房の謀叛によって殺害されたことで、北九州の情勢は大きく動いた。俄然大友氏の勢いが強くなり、少弐冬尚も大友氏と結んで龍造寺隆信討伐の軍を起こした。これには、さすがの隆信も力及ばず、降伏勧告を受け入れて佐嘉城から落ちていった。隆信を肥前国内から追放した冬尚は、龍造寺鑑兼を龍造寺家の当主に据え、土橋栄益を家宰とし、神代勝利・高木鑑房らに佐嘉城を守らせた。
蒲池氏のもとで雌伏していた隆信は、永禄元年(1558)、少弐氏討伐の軍をあげると勢福寺城を囲んだ。少弐勢は隆信の猛攻をよく防いで、城は容易に落ちなかった。やがて年末に至り、隆信と少弐・千葉・江上氏らとの間に和議がなり、龍造寺勢は城の囲みを解くと佐嘉へと帰陣していった。しかし、翌永禄二年正月、突如として軍を起こした隆信は神埼口より城原に攻め入り、勢福寺城を包囲すると四方より攻撃を加えた。少弐・江上方は虚を衝かれて防戦も思うにまかせず、ついに江上武種は城から落去していった。
少弐氏の滅亡
武種に去られては少弐冬尚も万事窮すで、ついにさびしく自刃し、鎮西の名門少弐氏は滅亡した。少弐冬尚が討たれたことを知った大友宗麟は、島原半島の日江原城主有馬仙岩入道と結び、冬尚の弟政興を擁立して龍造寺隆信追討の檄をとばした。
これに、波多鎮・大村純忠・多久宗利・西郷純尚・平井経治ら肥前の諸領主が応じ、永禄五年(1563)に兵を挙げた。まことに、鎮西における少弐氏というブランド力は、侮れないものがあったといえよう。一方の龍造寺隆信は、千葉・鴨打・徳島・持永氏らに有馬勢を迎撃させ、柳津留において有馬勢を撃破した。有馬勢の潰滅を見た諸領主は一斉に龍造寺方に寝返り、政興を擁した宗麟の隆信追討は失敗した。
敗れたとはいえ、少弐政興は馬場鑑周の支援を得て、隆信への抵抗を続けた。翌永禄六年、龍造寺軍は政興・鑑周らがこもる中野城を攻めた。戦いは激戦となったが、龍造寺軍の猛攻に馬場鑑周は降伏し、ついに少弐氏再興の一挙は潰えた。ここに少弐氏は息の根を完全に止められたのである。・2005年5月15日
【参考資料:福岡県史/佐賀県史/九州戦国史/多久市史/太宰府市史/佐賀市史 ほか】
■参考略系図
・『尊卑分脈』『続群書類従:系図部集」などに収録された武藤氏系図、少弐氏系図などを併せて作成。
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
そのすべての家紋画像をご覧ください!
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
|
丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
|
安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
|
|
日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
|
|
|