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黒木氏
●亀甲隅立四目結
●調宿禰後裔
違い鷹の羽/七曜/横木瓜も用いたという。また、筑後黒木氏に伝わる家紋は亀甲四つ目菱で、特に本家は三重亀甲となっているとの情報もいただきました。
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黒木氏は、筑後国上妻郡のほぼ中央部、星野川が矢部川に合流する地点にある黒木郷より起こった。この黒木氏というのは、河崎・星野・黒木の三氏を調党の三家というように、本姓は調宿禰で、それから分かれた三家の惣領家である。『姓氏家系大辞典』をみると、これら三氏に対して、それぞれ多くの文献を引いて考証が加えられている。ひとつには、黒木氏の出自を清和源氏多田満仲の後裔としたり、あるいは公家大徳寺実定の落胤とか、後鳥羽天皇の落胤説、さらには奥州の安倍氏の後裔説もあって、真実は極め難いのである。
しかし結論的にいえば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏同族)の後、調宿禰祐能が黒木郷木屋村に住み猫尾城を築いたのに始まるというのが、もっとも信じられるものとされる。
祐能は惟宗基言の女を妻としたというから、島津忠久や比企能員とは縁続きであり、また後妻として迎えた待宵小侍従は後鳥羽院の側女を賜ったということから、上洛して院の側近に侍し、調朝臣姓を賜ったかともいわれる。いずれにしても、調姓であることは動かし難い。
調党三家の歴代についての史料が乏しいが、祐能は大蔵大輔に任じられ、『吾妻鏡』にもみえ、鎮西御家人であったことは間違いない。下って、南北朝時代には黒木・星野氏らが南朝方として菊池氏に従っていることなどが散見できる。
応仁の乱と黒木氏
南北朝期の九州では、征西将軍宮懐良親王と菊地武光が一大勢力を築きあげた。それに対して今川了俊が九州探醍として派遣され、九州南朝方の勢力を駆逐し、武家方の優位を決定づけた。ところが、南北朝合一後、了俊は大内・大友氏らの排斥運動によってその地位を追われ、京に召還されてしまった。了俊の後任探題には渋川氏が選ばれて九州博多に着任したが、少弐・大友・菊地氏らの諸氏は渋川氏に公然と反抗した。これに肥前の千葉・大村氏らが加わり九州探題を攻めた。将軍足利義満は大内義弘を援軍として送ったが、探題方は敗れて大内満弘は戦死するということもあった。
永享四年(1433)将軍義教は大内持世を九州平定に派遣し、持世は探題渋川教直とともに強敵大友持直と戦いこれを破ることに成功した。しかし、その後も少弐満貞・大友持直の反抗はやまず、ついに将軍義教は少弐・大友の守護職を罷免し討伐の命令を下した。結果、少弐満貞は討たれ、大友氏の勢力は衰退し、持直をはじめ一門のうち身を隠した者も多かった。なかでも大友親繁は十年間にわたり、日向の山中で過ごしたほどの苦難の時代を過ごしたといわれる。
その後、文安元年(1444)に至って、親繁は日向から豊後に帰り家督を継いだ。さらに、それから二十年後の寛正六年(1465)、将軍義政より筑後国守護職の任命を受け、大友氏の名誉と権力は回復された。これを嫌った黒木越前、三池玄蕃助親在ら筑後の国衆は、肥後の小代兵庫頭らと同心して大友氏に背いて兵を挙げた。菊地一族の為安もこれに加わった。
筑後の騒擾に対して大友親繁は、みずから大軍を率いて出陣すると日田郡高井岳に本陣を構えた。しかし、筑後方には蒲池繁久をはじめ五条・星野・草野・問註所氏ら北筑勢、岩野・鹿子木・藤井らの肥後勢などが馳せ加わり筑後平野に戦雲がみなぎった。戦いの状況は明らかではないが、援軍としてきた菊地為安は高良山で戦死、黒木之実、三池親在らも戦死し、大友親繁は豊後に引き上げている。乱後、親繁は吉弘大和守を守護代として筑後におき、筑後支配にあたらせている。
一方、黒木氏は越前守親実(系図によれば之実の孫)が大友氏に属し、親繁から繁の一字を与えられ繁実と改めている。繁実は応仁の乱に際して、大友氏に従って参戦している。応仁の乱は将軍の継嗣問題から、幕府内の実力者である細川勝元と山名持豊(宗全)が対立、ついに合戦沙汰となったものである。戦乱は十年余にわたって続き、京の都を廃塵に帰すと同時に世の中を戦国時代にたたきこんだ。
黒木為実、宇土氏と戦う
南北朝期、九州の南朝方の中心として活躍した菊地氏は、両朝統一後も肥後国守護として勢力を維持していた。文安三年(1446)持朝が死去し、嫡子の為邦が十六歳で家督を継いだ。為邦は肥後守に任じられ、菊池氏代々の居城である隈府城に拠った。為邦には為安・為房・為光・相直の兄弟があり、為光は宇土忠豊の養子となり宇土城主となった。
宇土為光は本家の肥後守護職を乗っ取る計画をたて、南肥後の相良為続の協力を得て、文明十六年(1484)兵を挙げて兄と争ったが敗れ、長享元年(1487)に和睦した。為邦は文武に通じた名将と賞賛されたが、為光の反乱を征圧した翌長享二年に没した。そのあとは重朝が継ぎ、隈府にあって肥後一国を支配した。重朝は学問興隆などに力を注ぎ、内政にも見事な事蹟をあらわした。
ところが重朝の死後、若年の武運が守護職を継承すると、宇土為光八代の豊福城に拠って傲然と反旗を翻した。武運は肥後の手勢、および筑後・豊後の援軍を率いて豊福城攻撃に向かった。島原の有馬氏、薩摩の旧宮方勢も応援に出陣したことで、武運の勝利となった。このとき、黒木為実も手勢を率いて菊地方として戦った。
宇土城に返った為光はこりることなく、文亀元年(1501)、今度は作戦を正攻法から裏工作に変えて、菊地氏乗っ取りの謀略をめぐらした。為光は菊地氏家臣の一部を仲間に引き入れて、内部から武運の排斥をはかったのである。身の危険を感じた武運は、隈府を逃れ玉名郡に入り、肥後・筑後に出陣の激をとばした。五月、玉祥寺原で激しい戦いとなった。戦況は武運に不利で、その中心であった菊地重安をはじめとした千田重英・東重棟らの菊地一族、黒木為実、西牟田重家、溝口資清らの勇将や士卒数百人が戦死するという大敗北を喫した。辛うじて戦場を離脱した武運は、島原の有馬家を頼った。
その後、相良氏が菊地氏方につき、武運は筑後・天草の援軍を得て、宇土為光と玉名の地で戦いこれを破り、逃げる為光を追撃してついに為光を討ちとった。しかし、武運はこのときに受けた傷がもとで病床につき、死を予感した武運は守護職をさきに戦死した菊地重安の長男政朝にゆずると二十一歳の若さで死去した。
【注:黒木為実は応永十四年(1407)七月生まれとされ、文亀元年(1501)に戦死したとするのは、年齢的に無理があるようだ。また、応仁の乱に為実の子あるいは孫とされる繁実が出陣していることからも、にわかに信じがたいが「黒木町史」の記述に従った。】
大友氏の麾下に属す
十六世紀になると、北九州の覇権をめぐって大内氏、大友氏、少弐氏らが三つ巴の戦いを展開した。そのなかで少弐氏が衰退し、天文二十年(1551)には大内義隆が重臣陶晴賢の謀叛で殺害された。一方、大友氏は義鎮(宗麟)の時代になると、豊後をはじめ豊前・筑後・肥後などの守護職に任じられる大勢力となった。やがて、毛利元就が陶晴賢を厳島の戦いで討ち取り、さらに大内義長を滅ぼすと豊前・筑前への進攻を開始するようになった。
『九州治乱記』などによれば、弘治三年(1557)筑紫惟門・秋月文種は同心して大友氏に背き毛利方についた。この情報を得た大友氏は高橋鑑種を岩屋城に置いた。ところが、筑前立花城主立花鑑載が大友氏に叛し、さらには鑑種もこれに同心して毛利方に転じた。宗隣は戸次道雪、臼杵鑑連、志賀安房守らを派遣し、立花城を攻め落した。このころ、肥前の龍造寺氏、筑前の原田氏、筑後の黒木・草野・星野氏らは反大友か中立の立場であったようで、立花城攻略には参加していない。
永禄七年(1564)、筑後に兵を出した大友宗隣は、麦生の麦生重種を降し、耳納山の岡城主草野鑑安を攻撃した。龍造寺氏からの援軍を得た草野鑑安は頑強に抵抗したが、結局は大友氏に降り、大友氏は黒木氏の拠る猫尾城に攻め寄せた。
猫尾城主の黒木実久(家永)は、筑後国の国人では随一の勢力であり、知謀にすぐれた武将であった。実久は猫尾城に拠って、いままでも何度か大軍の攻撃を退けていた。大友軍は大手・搦手から攻撃を開始し、両軍の間に勇ましい合戦が繰り広げられた。大友勢は大軍であることを利して、城の周りをを包囲し兵糧攻めの作戦に出た。黒木勢は打って出ては多勢に無勢であり、籠城していてもやがて食糧が尽きる。
このとき、黒木実連が城を出て大友方の朽網三河守の陣地へと降った。実連は三河守に連行され、「弓矢の道なれば唯今まで防ぎ戦い候へども、大軍いかで叶いがたし、よって帰服を乞い願い候。されど昨日の戦いにこりて降伏するによいしおどきだと思食候はば、今一軍手痛く致し黒木軍の勇ましい戦いぶりを御覧に入れ候」といった。宗隣はこの言上を聞いて感じ入り、黒木氏の降伏を容れ、その武勇に対して本領を安堵した。以後、黒木氏に対する大友氏の信頼はあつく、黒木氏も大友氏に忠節を尽くしたといわれている。
めまぐるしい時勢の変転
大友氏の勢力は北九州を席巻したが、肥前の龍造寺隆信は毛利氏と結んで抵抗を続けていた。一方、南九州では島津氏が領内を統一し、北上作戦を展開しつつあった。元亀元年(1570)、宗麟は龍造寺隆信を討つため、佐賀城に押し寄せた。しかし、龍造寺方の将鍋島信昌の夜襲によって、大友軍はまさかの敗戦をこうむった。
天正五年(1577)、日向の伊東義祐が島津氏に追われて大友宗麟を頼ってきた。翌年、宗麟は日向に出陣し島津氏と耳川において戦ったが、壊滅敵敗北を喫した。この敗戦で、宗麟は多くの武将を失い、麾下の国人領主らの間にも動揺が走った。以後、大友氏は衰退の一途をたどり、肥前の龍造寺隆信、南九州の島津氏が勢力を伸長させるのである。
大友氏の龍造寺攻め、日向耳川での戦いに、黒木実久は五条鎮定・河崎鎮堯・蒲池氏・田尻氏らの筑後勢とともに出陣、第一線で奮戦したが、いずれも敗戦の憂き目を味わっている。
天正七年、龍造寺隆信は大友氏の衰退を好機として筑後に進出し、山下城の蒲池鑑広を攻略、さらに伊駒野城の河崎鎮堯を降した。この状況をみた黒木兵庫助*は、龍造寺の陣にいくと降伏した。こうして、筑後の諸将は続々と龍造寺氏に降り、筑後十郡は鍋島飛騨守信昌(信生→直茂)が隆信の代官として支配するところとなった。
かくして筑後を征圧した龍造寺隆信は肥後北部まで支配下におき、三州二島の太守と呼ばれるまでに勢力を拡大した。一方で、その残忍性があらわれるようになった。天正十年、隆信は柳河城主の蒲池鎮並を謀殺したが、黒木兵庫頭家永はこれに怒って隆信に逆意を示した。猫尾城は龍造寺政家・鍋島信生らに攻められたが、草野家清の仲裁で和睦となり、家永は嫡子四郎丸を人質として龍造寺に送った。その後、家永の弟の蒲家益種が戦死しているのは、兄家永とは別に龍造寺氏に反抗を続けていた結果であろう。
*兵庫助の名乗りは鎮連というが黒木氏系図に鎮連は見えず、おそらく兵庫頭家永のことであろう。
黒木氏の没落
天正十二年、有馬氏が龍造寺氏の麾下から離れた。これは、さきの蒲池氏の謀殺をみて、つぎは自分との危惧を抱いた結果、島津氏をたのんで龍造寺氏から離反したものであった。隆信はただちに有馬攻めを決して出陣し、島原半島の沖田畷で島津・有馬連合軍と戦った。隆信の率いる兵は五万余騎といい、一方の連合軍は三千余であった。しかし、結果は数に奢った龍造寺軍の無策もあって、連合軍の大勝利となり隆信は戦死を遂げてしまった。
龍造寺氏は非常時に直面したが、鍋島信生らの活躍で平穏を取り戻した。麾下の国人領主である肥後の小代氏・隈部氏、肥前の大村氏、そして筑後の黒木家永らは龍造寺氏に起請文を送り異心のない旨を誓った。
一方、隆信の敗死をみた大友義統は、旧領の奪回を図って、弟親盛を大将に志賀・朽網・田原氏らを筑後に出撃させた。大友軍は龍造寺氏に転じた黒木氏に含むところがあり、五条鎮定を先導役に頼み生葉郡を経て、黒木氏の拠る猫尾城に迫った。かねてよりこの事態を想定していた黒木家永は、龍造寺氏に応援を求め、佐嘉からは倉町近江守・久布白又右衛門尉らが援軍として発向した。
黒木家永は大友方の攻撃をよく防戦し、大友軍もいたずらに月日を費やすばかりであった。この状況に接した筑前の戸次道雪と高橋紹運らが加勢として黒木に進撃してきた。戸次と高橋は大友麾下の名将として知られ、佐賀からの援軍は戦わずして敗走、ついに家永も観念した。そのとき、一門の有力者である椿原式部が大友氏に降り、黒木氏存続の策を講じたようだ。家永にしても佐賀の援軍は去り、兵糧も残り少なく、ついに部下や家族の助命を大友氏の将田北宗哲に乞うて切腹した。享年六十歳であった。黒木氏滅亡後の猫尾城は、田北宗哲が城番として入った。
その後、龍造寺氏のもとに人質としてあった延実が、椿原式部を討って猫尾城を奪回したが、秀吉の九州征伐後に廃城となり、延実は小早川隆景の家臣となった。ところが、小早川氏は隆景のあとを継いだ秀秋の早世によりが改易となった。浪人となった延実は、立花氏に召し抱えられ、子孫は柳河藩士として続いたという。・2005年4月11日
【参考資料:黒木町史/筑後戦国史/家系研究の基礎知識 など】
■参考略系図
・伝わる系図によって、それぞれ人名に異同があり、いずれが正しいのかは知るべくもない。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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