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草野氏
●十二日足
●藤原北家高木氏流
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草野氏は藤原北家流といい、伝えられる系図によれば高木氏・菊池氏・上妻氏・竜造寺氏らと同族となっている。一説には、前九年の役に敗北した安倍宗任の後裔とする説もあり、その出自に関しては不明な点が多い。おそらく、草野氏は肥前国の在庁官人が武士化したものの子孫とみるのが妥当なようだ。
長寛二年(1164)、高木宗貞の子永経は肥前国佐賀郡高木庄から筑後国山本郡草野荘吉木に移住して竹井城を築いた。以後、永経は地名によって草野氏を称するようになったという。永経が筑後に移ったころは、中央で保元・平治の乱が起こり、源氏を倒した平氏が「平家にあらずんば人でなし」と全盛期を誇った時代あった。
やがて伊豆の源頼朝が平氏打倒の兵を挙げ源平合戦が展開されると、草野永経は菊地氏らとともに源氏方に味方した。元暦元年(1184)、平氏と戦った功により、文治二年(1186)源頼朝から御井・御原・山本など三千町歩の所領を賜った。永経の子永平も源平合戦で功があり、筑後国在国司・押領使両職を安堵され、さらに肥前国鏡社大宮司に補任された。かくして、草野氏は筑後・肥前にまたがる一大勢力となり、中世を通じて筑後・肥前を舞台に活躍した。また、永平は筑後守に任じられ豊富な財力を背景として、千光寺や祇園寺を建立するなど内政にも力を尽くしている。
弘安三年(1281)の「弘安の役」では、草野永綱・経永父子が出陣した。草野氏系図を見ると経永は肥前国唐津庄を領していると記されており、弘安の役の勲功によって唐津庄を賜ったようだ。唐津の草野氏は鬼岳城を本拠とし、鏡神社の宮司を兼ねた。そして、筑後草野氏が本家、肥前の松浦草野氏は庶子家として、それぞれ発展していったものと考えられる。一本「菊池系図」にも、「子孫蔓衍し、嫡家は筑後に在り、庶家は松浦に拠る。井上氏、赤司氏、上妻氏は、草野氏の支族也」とみえている。
中世の動乱に翻弄される
元弘・建武の内乱に際して草野氏は、はじめは肥後の菊地氏と共に宮方にあった。建武三年(延元元年=1336)、後醍醐天皇に叛旗を翻して敗れ、九州に逃れてきた尊氏と菊池氏・阿蘇氏ら九州宮方とが多々良浜で戦った。この決戦に草野永久は黒木氏とともに宮方として出陣したが、圧倒的優勢にあった宮方は足利尊氏軍に大敗を喫した。この戦いの勝利によって尊氏は頽勢を挽回、上洛軍を起すと京都を征圧して足利幕府を開いた。一方の後醍醐天皇は吉野に逃れ、以後、南北朝の内乱時代となるのである。
上洛した尊氏は九州の押えとして、九州探題を置き宮方に対峙させた。草野氏は宮方から探題方に転じたようで、貞和三年(正平二年=1347)、草野永幸(永吉)が探題より草野城の警固を賞され、観応元年(正平五年)には大宰府警固を勤めている。とはいえ、文和二年(正平八年=1353)にはふたたび宮方となり、探題方一色軍と合戦、筑前針摺原の戦いにも出陣した。
正平九年(1354)の草野永幸軍忠状によれば、「一色五郎巳下の凶徒等、筑前国嘉麻郡に打ち出て合戦を遂ぐるにより、大将軍発向の間、最前馳せ参じ、善導寺、大保、大宰府巳下に於いて、所々の陣々にて宿直警固を致し、千手の要害に馳せ向ひ、度々合戦を致す云々」とある。翌正平十年、背振山で菊池氏率いる宮方軍が一色軍と戦ったとき、草野秀永は宮方の一翼を担って活躍した。翌年には、草野永幸が肥前小城に向け進軍したことが知られる。
この間の草野氏の動向は、残された『草野文書』から知ることができる。はじめは宮方として尽くし、ついで尊氏方として戦い、観応の擾乱が起ると足利直冬方に属し、文和二年からは南朝方に転じ菊池武光から軍忠状の証判をえるなど、動乱の時代を懸命に生きたことがうかがわれる。
南北朝時代、九州地方は征西大将軍懐良親王と親王を奉じる菊池武光の活躍で、大宰府を制圧した征西府は南朝全盛期を現出した。対する幕府は今川了俊(貞世)を九州探題に補任、了俊の卓抜した手腕によって九州南朝方も衰退に向かい、明徳三年(1392年)、南北朝の間で和議が成立し南北朝時代は終わりを告げた。半世紀にわたった乱世のなかで、草野氏も盛衰を繰り返しながら、筑後に一定の勢力を維持したようだ。
戦国時代を生きる
室町時代になると大内氏が北九州はに進出し、鎮西の有力者である少弐氏、豊後の大名大友氏らと抗争を繰り返した。そのようななかで、草野氏ら筑後の国人領主は集合離散を余儀なくされたのである。その後、少弐氏が滅亡し、大内氏も陶晴賢の謀叛によって滅亡した。その結果、北九州は大友氏と肥前の龍造寺氏の二大勢力が並び立つようになり、これに南九州の島津氏が北進の気配をみせる情勢となった。
戦国時代後期の草野氏の当主鎮永(家清)は、吉木八幡宮の裏にあった父祖代々の居城である竹井城に不安を感じ、天正五年(1577)新たに発心嶽城を築き乱世における草野氏の拠点とした。翌六年、豊後の大友義鎮(宗麟)が日向国に兵を進めた。この陣に鎮永も大友氏に属して出陣したが、大友軍は耳川の合戦で島津勢に潰滅的敗北を喫した。宗麟は命からがら豊後に逃げ帰り、大友氏はにわかに勢力を失墜した。これをみた筑後の豪族の大半は龍造寺に属するようになり、鎮永も天正十二年頃に至って大友宗麟と袂を分かったようだ。その結果、発心嶽城は大友氏、高良山座主、秋月氏らの度重なる攻撃にさらされた。しかし、鎮永はよくもちこたえ、その攻守は三年に及んだと伝えられる。
大友氏を敗った島津氏は着々と北進作戦を展開し、天正十二年、沖田畷の戦いによって肥前の龍造寺隆信を討ち取った。ついで島津氏は、大友氏の本拠である豊後侵攻作戦を進め、万事窮した大友宗麟は上洛して豊臣秀吉に救援を求めた。これがきっかけとなって、秀吉の九州征伐が開始されたのである。
天正十五年(1587)、秀吉は島津討伐するため九州に出陣、その圧倒的な軍事力の前に島津氏は秀吉軍に降伏し、かろうじて大隅・薩摩の安堵を受けた。この秀吉の九州征伐に際して草野鎮永は、島津氏に味方して発心嶽城に拠って秀吉勢を迎え撃った。結果は、圧倒的な秀吉軍に抗すべくもなく降伏した。
草野氏の没落
九州を平定した秀吉は、九州仕置(戦後処理)を断行した。豊前から四国の伊予への転封を命じられた城井宇都宮氏はそれに抵抗し、ついには中津城に誘い出されて殺された。筑後では、草野鎮永氏が仕置に反発して発心嶽城に立て籠もった。しかし、小早川秀包に攻められて下山、善導寺に逃げ込んだ鎮永は秀吉に謀られ木塚の里で自害したという。
鎮永が自害したとき、家臣二百余人がともに死んだ。また、これを聞いた発心嶽城に残ったもののなかで、数十人が鎮永のあとを追って自殺したと伝えられている。多くの者が鎮永に殉じたことは、「忠義勇剛の壮士と謂つべし。後世人の臣として義を忘る者愧しむるに足れり」と賞賛されたという。
鎮永が自害したとき、子の永広は鍋島氏に質としてあったため一命をながらえ、その後、鍋島氏に仕え一千石を食んだという。・2005年3月3日
関連サイトにリンク…肥前草野氏
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