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貫 氏
●二つ引両
●清和源氏新田氏流
熊本氏家中に見える貫氏は、分限帳によれば「丸の内に七曜」を用いている。
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中世の豊前国規矩郡にあった貫荘は、宇佐宮領の「本御庄」十八所の一であった。鎌倉時代、貫荘は宇佐宮祀官永弘氏が知行していたことが知られるが、戦国時代に貫荘を支配した国人領主は貫氏であった。
貫氏の登場
貫氏は系図によれば、清和源氏新田氏の子孫と伝えている。すなわち、南北朝時代に足利尊氏と戦った新田義貞の叔父上野介義基が、征西将軍宮懐良親王に従って九州に入り、京都郡馬ケ岳城に拠った。そして、義基は南朝方の門司親頼や、豊前宇都宮氏らの南朝勢力を結集して足利氏に抵抗したのだという。
義基は弘和三年(1383)に死去し、家督を継いだ義氏、その弟義有・義紀らもよく宮方のために戦ったが、のちに敗れて大内氏に従った。三代義高は大内氏とともに大友討伐に加わり、宇佐で菊池勢と戦って戦死し、鎮西新田氏の嫡流は滅亡した。
ところで、義基の妹九重姫は懐良親王の寵を受けて男子を生んだという。この男子がのちに新田義基の養子となり宗景と名乗った。宗景は義父とともに宮方として活躍、貫荘別府に城を築き本拠とし、地名をとって貫氏を称した。貫氏では宗景をもって初代としている。
貫氏と貫荘の関係は系図にそのように印されているばかりで、その実態を知る資料はほとんどない。また、貫氏系図の記事に関しても疑問が出され、「企救郡誌」は「系図記載の事項中には不審の点なきにあらず」と記している。加えて、中世の系図集として信頼性の高い「尊卑分脈」には、新田義貞の叔父は記されていない。しかも、系図に見える宗景の生年である正平元年(1346)は、実父とされる懐良親王はまだ薩摩にあり、北九州には入っていないのである。
これらのことから、貫氏系図における宗景前後のことは後世の付会とみる説がなされている。
戦国時代の動向
貫荘には貫氏の他に、宇佐宮祀官で鎌倉以来の永弘氏、大蔵氏系の旧族黒水氏らがいた。貫氏は南北朝の争乱を経るなかで、永弘氏、黒水氏らに伍して勢力を拡大していったのである。黒水氏は貫氏と姻戚関係を結び、戦国期には貫氏の家宰をつとめている。
室町時代になると貫荘の地下人らが、永弘氏の支配に反抗するようになった。さらに、応仁の乱ののち戦国時代になると、周防の大内政弘が豊前に侵攻を繰り返すようになった。文明十五年(1483)、永弘重幸は今吉御薗の田畠・屋敷の下作職を貫助国に売却、さらに同御薗の下作職を貫助世に売却している。武力をもたない永弘氏は、戦乱によって貫荘の支配が困難になり、荘内の有力者貫氏に賽銭を上納することを条件に、諸職を売却したのであった。
話は前後するが、文明十年、大内政弘が北九州を平定して博多に入ったとき、筑前・豊前をはじめ九州各地の領主が祝儀の使者を送った。そのなかに「貫荘の荘官、貫助八重孝」がみえ、太刀ならびに絹百疋を贈り、下毛郡臼木六町地を与えられている。
貫氏は貫荘の実質的領主として大内氏に属し、古文書には貫助次郎が左衛門尉、左馬允任官を所望して、大内義興・義隆父子に取りなしを依頼したことへの大内氏からの返書が残されている。また、延徳四年(1492)には、大内氏の段銭奉行の一人に貫助八がみえ、大内氏の被官となっていたものと思われる。さらに、天文のはじめ、貫武助が山口にあって大内氏奉行人として公文書に連署している。
貫氏のその後
一方、天文から元亀のはじめにかけて貫城に拠った親清は、一万七千貫を領して、豊前宇都宮氏に属したという。天文二十年、大内氏が滅亡したあと、同じ豊前の国人領主である長野氏らと連携し、また門司氏とも通婚関係を結んで勢力の維持につとめたのであろう。しかし、一万七千貫という数字はにわかには信じられないものである。
弘治元年(1555)、毛利元就が大内義隆を謀叛で殺害した陶晴賢を滅ぼしたのち、貫氏は毛利氏に属してその北九州進出に協力した。永禄四年(1561)から五年にかけて、展開された門司城攻防戦に毛利方として出陣した貫助八が戦死した。合戦後、毛利隆元は助八の老母に貫荘内で勲功賞の地を与えたことが、「萩藩閥閲禄」から知られる。
その後、貫氏の動向は史料からは知られないが、系図によれば親清は元亀三年(1572)に死去したという。あとを継いだ嫡男の親末は、天正二年(1574)に大友宗麟と戦い敗れて宇都宮氏のもとに逃れて城井城に入った。天正六年、日向国に進攻した大友宗麟は島津氏と戦って敗戦、以後、島津氏が大きく勢力を伸ばすようになった。天正十四年、宗麟は豊臣秀吉に支援を頼み、翌年、秀吉の九州征伐が開始されると、島津氏は降参して九州は秀吉のもとに統一された。
秀吉は九州仕置を行うと、宇都宮氏に伊予への転封を命じた。しかし、宇都宮氏はこれを拒否したため、秀吉の命を受けた黒田如水が城井城を攻撃してきた。この戦いに、貫一族は宇都宮氏に味方して奮戦、親末は丸山の合戦において討死した。あとは弟の弘信が継ぎ、得意の弓術をもって黒田軍と戦ったが、宇都宮氏は黒田氏の謀略によって滅亡した。かくして、弘信は母方の縁を頼って浪人となったが、慶長五年(1600)、小倉藩主となった細川氏に召し出され、小倉藩の弓術師範となった。また、さきの「萩藩閥閲禄」から毛利氏に仕えた貫氏の存在も知られる。・2005年4月28日
【参考資料:北九州市史/企救郡誌/九州戦国史 ほか】
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●貫城跡(企救の里)
■参考略系図
・企矩郡誌に掲載された系図を底本に作成
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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