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土持氏
●唐花/三つ巴
●宇佐社人田部氏後裔
『戦国大名370家出自総覧:新人物往来社』には土持氏の家紋は「三つ割若松」とある。
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中世の日向において、伊東氏、島津氏と並ぶ勢力を有した土持氏は、古代氏族田部氏の後裔という。『延世世鑑』によれば、六世紀に豊前国に宇佐八幡宮が建立されたとき、田部宿禰直亥が勅使として宇佐に下向し、日向国を賜り吾田の庄に城を築いて住んだのが始まりとある。以後、三百年余り県の庄に居住したが、貞観元年(859)、土持影綱のとき天皇の命で三河国に移った。そして、保元二年(1157)に土持栄妙がふたたび日向国を賜り三河国から県の庄に移ったのだという。
このように書かれた『延世世鑑』の土持氏の出自に関する記事は、歴史と照合して信じることのできないものである。
他方、『田部系図』には栄妙について「土持冠者、貞応二年(1223)宣綱と改む」とあり、土持氏は田部氏から分かれたものと考えられる。田部氏は宇佐・大神・漆間の三氏につぐ宇佐八幡宮の有力な神官の家柄であった。おそらく土持氏の祖は、宇佐八幡宮の日向進出によって、宇佐八幡から現地に派遣された神人の裔であったとみられる。
こうして、土持氏は日向における宇佐八幡宮の荘園の現地管理者として勢力を築き、やがて荘園周辺にも開墾の手を拡げていった。新たに開発した土地は昔からの所縁をもって宇佐八幡宮に寄進し、みずからは荘司として、また在地領主として実質的な支配を行ったものであろう。さらに、所領を守るため武装化するようになり、やがて武士に成長していった。かくして土持氏は、十一世紀には日向北部、延岡地方における最大の豪族となったのである。
土持氏の勢力伸長
ところで、日向国には古代以来の豪族として日下部氏が知られ、日下部宿禰久貞は在国司という要職に補任されるなど勢力を有していた。諸本伝わる土持氏系図の一本に、「宗綱諸県大輔」とあり、土持氏ははじめ諸県郡に本拠地を有していたようだ。そして、この宗綱の母は久貞の姉妹であった。
宗綱の孫栄妙は、文治三年(1187)二月、日下部盛平の養嗣子となり、庁執行職、在国司職のほか、広大な所領の譲渡を受け、宮崎平野中枢部の国富荘を掌握した。ここにおいて、土持氏の所領は国富庄の庄郷九百町余に達し、日向国の支配地は併せて千四百余町に及ぶ広大なものであった。建久八年(1197)の「日向国図田帳」にも、土持氏の名が岡富荘八十町の地頭・弁済使として見えている。
土持氏が勢力を伸長した時代は源平の争乱期であり、旧秩序に代わって新しい秩序がうち立てられた時期でもあった。土持氏は日向の在庁官人である日下部氏や宇佐八幡宮との縁故関係を維持しながら、鎌倉の源頼朝とも関係を結び、その勢力をたくみに拡大していったのである。
栄妙は先述のように信綱(宣綱)とも称して、「吾田土持系図」によれば景綱、通綱の二子があり、通綱の系が吾田土持氏として県の庄に拠った。一方、景綱の系は財部を本拠として財部土持氏と呼ばれた。さらに、清水、都於郡、大塚、瓜生野、飫肥などにも庶子家が割拠し、「土持七頭」と称されて日向国内に隠然たる勢力を築きあげるに至った。
宝治元年(1247)、新日吉社小五月会の小笠原太郎長経担当の流鏑馬役二番に的立役として、土持左衛門太郎秀綱が勤仕している。この秀綱はさきの景綱の長子と思われ、当時、土持氏が在京御家人として京都に滞在していことが知られる。
土持氏の歴史への登場と活躍
土持氏の人名で文書上に最初にあらわれるのは、土持宣栄で、時代は南北朝の争乱期であった。建武二年(1335)から三年にかけて、土持氏は足利尊氏に属して、国富庄の河北富田政所や足利氏の島津庄穆佐、細川殿政所南加納等に乱入した宮方勢力の平定にあたり、さらに宮崎池内城、高浮田城、浮田庄跡江政所の城や猪野見城を攻めた。
南北朝時代の日向において、木脇の伊東祐広・同祐貞・祐勝、益戸四郎行政・同秀名、肝付兼重、萩原兼政らが宮方に与し、武家方には伊東祐持・氏祐、土持左衛門太郎親綱・二郎重綱・惟信・宣栄、その子時栄、太田助頼・同資家、矢野義基らあ属していた。足利尊氏は国富庄と穆佐院の確保を考え、伊東祐持に都於郡三百町の地を与えた。また尊氏は畠山直顕(義顕)を日向国大将として穆佐院に入れ国富庄の宮方に対峙させ、伊東氏、土持氏らは直顕の配下となって行動した。
建武四年、土持宣栄は畠山直顕から軍功に対して、日向国大墓(大塚)別符地頭職に補任された。以後、土持氏は南北朝期を通じて、大墓別符を本拠地としたようだ。そのことは宣栄の孫と思われる栄勝が、今川了俊から与えられた安堵状の宛名が「土持大塚左近将監」となっていることからもうかがえる。
ところで、南北朝時代の前期、足利尊氏と弟直義の不和から観応の擾乱が起こり、政治情勢はさらに混沌を極めた。畠山直顕は直義党であり、土持宣栄は直顕に属して活躍した。このころ直顕は日向守護職にあったが、直義に与したため幕府から守護職は解任された。その結果、これまで直顕に従っていた土持一族は、幕府方に転じ、鎮西探題一色氏に属するようになった。
武家方として変わらぬ姿勢
以後、日向では直義の養子直冬方の畠山直顕・伊東氏一族と、幕府方に立つ土持一族、島津氏とが対立した。このころ、土持一族を統轄していたのは貞綱で、延文二年(1357)、一色範頼から兵糧料所として新納院地頭職を給与された。また、宣栄の子時栄は、清武城、曽井城攻めに参加して活躍、一色範頼から感状を得た。やがて、一色氏に代わって斯波氏経が鎮西探題に起用されると、氏経は土持時栄に軍勢催促状を出している。土持氏が日向における武家方として、重視されていたことがうかがわれる。
その後、懐良親王が征西宮として九州に派遣され、それを肥後の菊池氏が支援して、にわかに南朝が勢力を盛り返した。ついには太宰府を占領し、九州は征西府の天下となった。この事態を重くみた幕府は、応安四年(1371)、今川了俊を九州探題として下向させた。了俊は九州諸勢力の懐柔につとめ、太宰府を奪還すると、次第に南朝方を圧迫していった。そして、永和七年(1381)、今川勢は菊池城を陥落させ、九州宮方勢力を瓦壊させるに至った。
この間、土持氏は今川氏に属して活躍、応安六年に宇目長峯攻め、康暦元年(1379)の都之城合戦に活躍して、それぞれ今川義範から感状を与えられた。さらに、応安五年飫肥郡内北郷を、翌年には浮田庄を兵糧料所として預け置かれている。このように南北朝の争乱期において、土持氏は一貫して幕府方として行動した。
ところで、土持氏は大墓(大塚)別符を本拠としていた。それに加えて、南北朝時代初期の暦応二年(1339)以後に井上城を築いて南朝方の三田井氏、門川伊東氏に備え、都於郡の伊東本家と結ぶ南方の同族と呼応して各地を転戦したのであった。
やがて、明徳三年(1392)、半世紀以上にわたった南北朝の争乱に終止符が打たれた。つづいて、九州探題として辣腕を振るった今川了俊も探題職を解かれ、帰京したことで、南九州の政治情勢はにわかに一変することになった。
戦国乱世への序章
南北朝時代を通じて土持氏は一貫して武家方として進退し、都於郡の伊東氏、薩摩・大隅の島津氏もおおむね武家方として行動していた。そして、土持・伊東・島津の三氏は、南北朝の動乱のなかで荘園・国衙領を押領して領地と化し、弱小勢力を攻略あるいは麾下におさめていった。なかでも日向中央部を拠点とする伊東氏は、一族、国人領主らを被官化し、着々と勢力を四隣に拡大した。かくして、日向は北部に土持氏、中央部を伊東氏、そして南部に島津氏の三氏が鼎立するに至った。
当時、土持氏惣領家は県の庄を本拠とし、財部には財部土持氏、宮崎には宮崎土持氏らが割拠していたが、伊東氏の動きが活発化してくると、その対抗策に迫られるようになった。永享元年(1429)、ときの県土持氏の当主次郎太郎全宣は、宝坂城を築いて井上城から移り、宮崎土持氏の子を伊東祐堯の子として伊東氏の鋭鉾をかわそうとした。さらに、つぎの孫太郎宣綱は岡富村に新たな城を築き文安三年(1446)に移住した。これが松尾城で、以後、戦国末期まで県土持氏の本城となった。
康正二年(1456)、土持氏と伊東氏の間に戦端が開かれた。財部土持氏と県土持氏は連合して伊東祐堯と、財部城外の毛作原で戦い、激戦のすえに土持三河守金綱は戦死し、多数の兵を失った土持方の敗北となった。翌長禄元年(1457)、伊東軍は新納院土持の財部城を包囲、攻撃、ついに財部土持惟(是)綱は伊東氏の軍門に降った。
財部土持氏が没落したことで、県土持氏は伊東氏と直接、対峙するようになった。松尾城を築いた宣綱は、伊東氏が大淀川流域を一円支配するのを横目にみて、みずからは県地方の一円支配体制を作り上げていった。宣綱が死去した長禄二年になると、伊東氏の勢力は門川城にまでおよぶようになった。土持氏は北の佐伯氏と姻戚関係を結び、遠く薩摩の島津氏と提携して伊東氏を牽制することで命脈を保とうとした。以後、土持氏と伊東氏の対立、抗争関係は、伊東氏が日向から没落する天正五年(1577)まで続くのである。
・戦国期の日向諸勢力図
乱世を生き抜く
宣綱のあとは全繁が継いだが、応仁の乱が勃発した翌年に死去して、子の常綱が家督を継承した。常綱のあとは親栄が継ぎ、ついで親佐が家督となった。一方、土持氏の大敵である伊東氏では祐堯、祐国、尹祐と続き、飫肥城をめぐって島津氏との戦いを展開していた。祐国のあとを継いだ尹祐は、明応二年(1493)門川に城を築き、同四年に島津氏と和睦すると、同五年松尾城を攻略すべく夏田に進出した。
残された記録などによれば、土持氏が代々の祈願所としていた行縢(むかばき)神社よりおびただしい数の岩が飛来してきて、伊東軍は散々な敗北を喫したとある。岩の飛来のことはもとより信じられないが、土持氏は神の加護を得て勝利したことを後世に伝えたかったのであろう。こうして尹祐の北上作戦は失敗に終わり、土持氏と伊東氏は、門川・日知屋をめぐる争奪戦を繰り返すのである。
土持氏は財部を失ってからは、臼杵郡をその地盤とした。臼杵郡には臼杵院があったが、土持氏が支配するようになってのち土持院と呼ばれるようになった。そして、土持院は土持氏の名田と同様の存在となり、土持氏は土持院の上に立つ大名主、すなわち戦国大名に成長したのである。
やがて、三田井氏らの斡旋によって、土持親佐は伊東氏と和睦した。しかし、天文四年(1535)、土持氏は伊東祐吉を攻めるも逆襲されて敗北を喫している。このころになると、豊後の大友氏の勢力が飛躍的に拡大、親佐のあとを継いだ親成は娘を質に出して大友氏に臣従の礼をとった。とはいえ、いつ大友氏の勢力に併呑されるかと気が気でない親成は、島津氏とも盟約を結び勢力の保全につとめた。
大友氏と島津氏の激突
十六世紀中期になると、島津氏は薩摩・大隅を平定し、日向伊東氏への攻勢を強めるようになった。対する伊東氏は大友氏、肥後の相良氏と結んでこれに対抗したが、元亀三年(1572)木崎原の戦いで惨敗、一気に衰退の途をたどることになる。そして、天正五年(1577)、島津軍は伊東氏の本拠である都於郡に侵攻を開始した。ついに伊東義祐は都於郡を捨て、豊後の大友氏を頼って佐土原城から脱出した。
伊東氏が没落したことで、県土持親成は使者を島津氏に送って、その麾下に属することを申し出た。これに対して、島津氏は土持氏の本領を安堵し、日向の内で石塚・三ヶ名百町余を加えて宛行う厚遇をみせた。ところが、親成は大友氏にも使者を送り、大友氏から日向に出陣のおりは先陣をつとめるように命じられた。さらに、大友氏は土持氏が島津氏に送った使者土持相模守を豊後国へ参上させるように伝えるなど、親成の二股膏薬に対して厳しい態度で接した。
そして、天正六年三月、大友宗麟は土持攻めを決し、嫡男義統を大将として日向に進攻した。これを知った親成は大友氏に和を求めたが、入れられず、ついに四月大友軍は松尾城に攻め寄せた。親成は諸士を集めて、「高城の薩摩勢とともに籠城の道もあるが、本城を捨てては世の嘲りを受けることは必定、この城を枕に討死せん」と宣言、諸士一千余騎は親成の覚悟に奮い立って松尾城に籠城した。
そして、親成は養子高信に本城を守らせると自らは僅少の兵を率いて近くの行縢山に陣を取り、大友勢を迎かえ撃ったが衆寡敵せず、松尾城は陥落。親成は捕えられ、豊後の浦辺で切腹させられた。こうして、古代より、日向地方に七百年余にわたって続いた土持氏は滅亡した。
土持氏を血祭りにあげた大友軍は、一旦、兵を引き上げると改めて三万という大軍をもって日向に出陣した。しかし、高城において島津軍と戦ったが敗戦、逃れるところを追撃され耳川において壊滅的敗北を喫した。宗麟は命からがら豊後に逃げ帰り、この敗戦をもって強勢を誇った大友氏も衰退していくことになる。
土持氏のその後
ところで、親成の養子高信は松尾城で自害したとされるが、激戦のなかで城を脱出して長州に逃れ、のち島津氏の麾下に属したといわれる。そして、大友氏が撤退したのちの県地方の支配を任され、義久から一字を賜って久綱を名乗るようになった。以後、島津氏の九州統一戦に参加したが、豊臣秀吉の島津征伐によって県地方を去り、島津氏の家臣となった。文禄の役には島津義弘に従って出陣、帰国後は伏見に勤務して慶長四年(1599)に伏見で死去した。
久綱には三人の男子があったが、家督は三男の盈信が継ぎ、義久に仕えて栗野・大崎・高江・曽於郡などの地頭職をつとめた。子孫は鹿児島城下士として、近世に連綿したという。・2005年1月12日
【参考資料:宮崎県史/延岡市史/新延岡市史 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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