|
宗像氏
●丸に一つ柏
●出雲氏系古代豪族/宗像神社大宮司家
|
宗像神社は辺津宮・中津宮・沖津宮の三宮から成っており、宗像氏はこの三宮を合わせた神主家で、出雲族の支族と考えられている。
大化の改新(645)によって国郡の制が布かれると、全国七大社に神領が設置され、宗像は九州では唯一の神郡として宗像大社の神領に定められた。胸形君は神主として神社に奉仕するとともに、神郡の大領をも兼帯しその行政をつかさどった。皇室との関係も深く、胸形君徳善の女尼子娘は天武天皇の妃となり、高市皇子を生んだと伝えられている。
天元二年(979)、大宮司職が設けられ、宗像(胸形から改め)氏による権威体制が確立した。源平の争乱を経て鎌倉時代になると、宗像大宮司家も次第に武士化し、時代に翻弄されながらも宗像氏は戦国時代末まで勢力を維持しつづけたのである
・写真:宗像神社神殿
宗像大宮司の登場
さて、古代より九州の統治機関、外交の窓口として太宰府が置かれた。太宰府の長官は権帥や大弐
(太宰府の長官である帥は親王が名誉職として叙任されるため、権帥・大弐が実質的な長官となった)
であり、その下に監・典らが置かれていた。権帥や大弐は京から下向したが、監・典らは在地の有力者の子弟が任じられることが多かった。十世紀になると太宰府の公的機能が衰えを見せ、次第に権帥や大弐の私的機関化していった。
十世紀の終わりごろ、太宰大弐となった藤原有国は太宰府に政所を設置した。政所は三位以上の貴族の家政機関であり、有国は太宰府のなかに私的機関を設けたのである。やがて、権帥や大弐は私的に監代・典代を任命し、十一世紀の後半になると正式の監・典の数以上に増え、太宰府の実務執行者として欠かせない存在となっていった。かくして、太宰府は権帥や大弐が思いのままに運営するところとなったのである。太宰府を支配下においた権帥や大弐は、国司に対する支配を強めていった。一方、府官である監・典・監代・典代に任じられた九州の在地領主は、太宰府の権威を背景に自らの勢力保持を図った。
宗像氏は宗像社領を藤原摂関家や院に寄進して皇室御領とし、太宰府の支配からの離脱をはかった。やがて、十二世紀になると白河上皇(院)が中央政界に君臨し、院は太宰府の長官に近臣を任命して、太宰府の組織、長官の権限を掌握した。宗像氏は太宰府長官をしのぐ院権力にすりより、保安元年(1120)ごろまでに、宗像社領を鳥羽皇后領を本家にいだく不輸不入の荘園としたようだ。それは、宗像大宮司氏高のころであったと考えられている。
氏高は山田郷内にある須恵・稲本・土穴の三ケ村を私領としていた。同地域は弥生時代より人が住み、玄界灘に通じる玄関口にあたる要地で、古くから開発された土地であった。氏高の子氏職は大山田赤馬院得末名の開発領主となり、氏職の子氏房は山田大宮司とよばれた。『宗像市史』によれば、宗像氏は律令時代の山田郷の役人で、筑前国司の宗像郡支配の末端を担った現地役人であったと推測し、その役職を利用して周辺の公領を開発、次々に私領を拓いていったとしている。
宗像氏は宗像郡の要地を押え、国衙の役人として、勢力を拡大していった。そして、山田郷を本拠とする在地領主であるとともに、宗像社の宗教的支配の頂点に立つ大宮司に任じられ、宗像氏は神官領主と呼ばれる存在となった。大宮司氏高はそのような宗像氏において一つの画期をなした人物で、『宗像社務系図』をみると氏高より系線が引かれ、以後の大宮司職は氏高の子孫が世襲するようになった。
宗像氏の台頭
十二世紀、保元・平治の乱が起った。保元の乱で後白河院に味方して勝利を収めた平清盛は、保元三年(1158)、恩賞として太宰大弐に任じられた。ついで大弐となった清盛の弟頼盛は、自ら太宰府に入り、日宋貿易の実権を掌握するとともに、九州の武士たちを平家武士団に組織した。このとき、宗像大宮司も平家の家人になったようだ。他方、宗像社領は八条院に伝領されており、その領家は平頼盛、預所は平家の有力家人平盛俊、現地の荘官は宗像大宮司であった。
平治の乱にも勝利した平清盛は、太政大臣にまで上り平家全盛時代を現出した。宗像大宮司は平家との結びつきを強め、一族の許斐(このみ)氏は平重盛に仕えて船奉行、船大将などをつとめた。また、大宮司氏国が平重盛と黄金三千両を宋国に遣わしたという金渡伝説が伝えられているが、これも宗像氏と平氏の強い結びつきから生まれたものであろう。
平治の乱後、伊豆に流されていた源頼朝が、治承四年(1180)、平家打倒の旗揚げをした。そのころ宗像大宮司は平家に属していたようだが、文治元年(1185)、平家方から源氏方に転じたという。平家滅亡後、原田・山鹿・菊池氏ら平家方の有力武士団は所領を没収されたが、宗像氏ら中小武士らは許されて、文治三年、大宮司宗像氏実は源頼朝から所領の安堵を受けた。そして、建保五年(1217)までに惣領主地頭職、社家検断職、守護不入権を獲得することができた。
承久三年(1221)、後鳥羽上皇が北条義時追討の命令を下したことで承久の乱が起ると、大宮司氏国は上京して鎌倉方として戦った。当時、宗像社領は後鳥羽上皇の支配下にあったため、本来なら宗像氏は上皇方に味方するのが自然の成行きであった。氏国は建久五年(1194)に大宮司職に任命されたが、建保三年(1215)領家職に任じられた藤原光親が、大宮司職の押領を企てた。氏国はただちに上京して後鳥羽上皇に訴えたが、埒があかず、ついに鎌倉に訴えて建保五年に大宮司職を安堵された。このとき、氏国は在地支配権を守ってくれるのは荘園領主ではなく、鎌倉の幕府であることを実感した。それが、氏国をして鎌倉方に走らせた要因であった。
出陣に際して死を覚悟した氏国は、神官領主として重要な祭礼権(執弊役という)を子の氏昌に譲った。とはいえ、氏国は幼少のため、社家・社領の支配権は氏国が掌握した。以後、大宮司職は祭礼権と社家・社領の支配権とが分離し、神事祭祀は息子が、社家・社領の支配は父親が持つというように二重構造をとるようになった。
大宮司の武士化
承久の乱後、宗像社領は将軍家領となり、宗像社は将軍家のための祈祷を行う関東御祈願所となった。祈願所になると、寺社領の安堵、境内での殺生禁断、寺社領の寄進、造営の助成などの保護をうけ、その社会的権威を大いに高めた。ここに、宗像大宮司は鎌倉幕府体制下において、磐石の地位を築き上げたのであった。
宗像氏は氏国の代に権威を高めたが、その一方で一族間の内訌が繰り返されるようになった。鎌倉時代は惣領制による相続が一般的で、所領は男女の子供たちが分割相続し、それを家督を継いだ惣領が統轄していた。しかし、鎌倉中期を過ぎるころになると惣領制の矛盾が顕在化し、惣領から離れて自立をみせる庶子もあらわれるようになった。ついには、惣領と庶子が互いに対立するようになったのである。
正和二年(1313)、大宮司氏盛は『宗像氏事書』十三ケ条を定め、宗像郡を中心に領主制を展開し、宗像一族の掌握につとめた。他方、九州は元冦以後、鎮西探題が置かれると、宗像社は北条得宗家の強い支配を受けるようになった。その結果、宗像大宮司は北条氏の御内人(被官)になっていったようだ。
やがて、後醍醐天皇による倒幕運動が繰り返され、幕府も動揺をきたすようになったが、宗像氏は北条氏の側にあったようだ。しかし、元弘三年(1333)、少弐氏、大友氏らが鎮西探第を攻撃し、北条英時を討ち取ったとき、宗像大宮司氏範(氏長)の弟氏勝が探題攻撃軍に参加した。
建武元年(1334)、北条氏残党が帆柱岳に立て籠って兵を挙げた。宗像大宮司氏範(氏長)は反乱軍討伐のために出陣したが、北条残党方の長野氏の軍に敗れ宗像郡に逃げ帰った。北条残党方は勢力を強めたが、少弐頼尚の出撃によって帆柱城は落ち、北条残党方の反乱は鎮圧された。翌建武二年、東国において中先代の乱が起り、鎌倉が叛乱軍に征圧された。この乱をきっかけとして、東国に下った足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、建武の新政はあえなく崩壊した。
新田義貞を大将とする討伐軍を箱根に破った尊氏は、京都を制圧したが宮方の反撃に敗れて九州に逃れた。大宮司氏範(氏長)は少弐頼尚らとともに足利尊氏を宗像社に迎え、多々良浜で菊池武敏らと戦って尊氏の勝利に功を立てた。九州で態勢を立て直した尊氏は、九州の諸将を率いて海陸から西上し、摂津湊川で楠木正成を討ち取りふたたび京都を制圧した。後醍醐天皇は吉野に逃れて朝廷を開かれ、対する尊氏は光明天皇を立てて足利幕府を開いた。以後、南北朝の内乱時代となり、宗像氏はほぼ一貫して武家方・九州探題方として活動した。
南北朝の動乱を生きる
足利尊氏は上洛に際して、一色範氏(道猷)を鎮西管領(のち九州探題)として残し、九州の鎮定にあたらせた。さらに、筑前守護職も一色氏が兼務するところとなった。宗像大宮司氏俊は一色氏に属したが、一族のなかには宮方に通じるものもいた。ところで、筑前守護職は鎌倉時代より少弐氏が任じており、尊氏に味方してきたことが無駄働きとなった形の少弐頼尚は一色氏と対立するようになった。
その後、幕府内では尊氏の執事高師直と尊氏の弟直義の対立が起り、事態は尊氏=師直と直義一党との対立に発展し観応の擾乱となった。抗争は直義方の優勢で、足利直義の養子左兵衛佐直冬が九州にあらわれると、少弐頼尚は直冬を支援して九州の第三勢力となった。こうして九州は、征西将軍宮懐良親王を奉じる菊池一族を中心とした南朝方、探題一色氏が率いる武家方、少弐氏と結んだ直冬の佐殿方が鼎立状態となった。
やがて、直義が尊氏に敗れて殺害されると、後楯を失った直冬はにわかに勢力を失い中国地方へ逃亡した。一色氏の攻勢に窮した頼尚は、宮方の菊地武光と結んで一色氏と対立した。そして、文和二年(1353)針摺原の合戦に敗れた一色道猷は、劣勢の立て直しを図ったが文和四年の南朝方攻勢に敗れ九州から脱出した。
一色氏が退散したことで少弐頼尚は幕府方に転じ、大友氏と結んで宮方と対立するようになった。そして、正平十四年(延文四年=1359)、頼尚は大友氏時と連合して筑後川畔の大保原で南朝方に決戦を挑んだ。日本戦史上に残る筑後川の合戦で、激戦のすえに戦いは少弐軍の大敗に終わった。翌年、菊池武光は懐良親王を奉じて大宰府へ進出し、正平十六年、大宰府を征西将軍府となして九州宮方の本拠とした。以後、十数年にわたって九州宮方は全盛期を現出した。
この間、宗像氏俊は探題方として活動したようで、康安元年(1361)には足利義詮から宗像城合戦における感状を受け、貞治四年(1365)には壱岐国守護職に補任された。一方、征西府が全盛期を迎えると氏俊は不利な立場となり、菊池氏に通じて南朝方として活動していた弟の氏名が大宮司に補任された。
九州の情勢を重くみた幕府は、今川了俊を九州探題に任じて九州に下向させた。氏俊はただちに了俊の陣営に加わり、宗像社の造営、大宮司職と所領の安堵などを受けた。了俊軍は宗像郡を通り、太宰府に進撃し、征西府を筑後に奔らせたのである。以後、了俊の指揮する武家方の優勢となり、南朝方の巻き返しもあったが、明徳三年(1392)、将軍義満の斡旋で南北朝の合一がなった。九州の南朝方制圧に活躍した了俊は、応永二年(1395)、足利義満から突然に探題職を解任され京都に召還されてしまった。
乱世に翻弄される
了俊解任後の九州探題には渋川満頼が任命され、周防・長門の守護職大内義弘がその補佐を任じられた。その後、義弘は応永の乱を起して戦死し、大内氏の家督争いを克服した大内盛見が周防・長門・豊前の守護職に補任され、九州に進出してきた。そして、筑前守護少弐氏を筑前から追い、幕府御料所となった筑前国の代官に任命された。
九州の政情の変化は、宗像氏にも多大な影響をおよぼした。ときの大宮司氏経は、大内氏と少弐氏の抗争に巻き込まれ、渋川氏、大内氏に近い立場を示して少弐氏に対した。一方、氏経の叔父氏忠は、少弐氏と結んで氏経と対抗した。応永の乱で義弘が没落したのち、氏忠が大宮司職となり、氏経は盛見を頼って山口に奔った。その後、盛見が大内氏を継ぐと、大内氏の攻勢が展開され、ふたたび氏経が大宮司職に復活した。
永享三年(1431)、大内盛見は少弐満貞・大友持直の連合軍と筑前で戦い、まさかの戦死をとげてしまった。その結果、氏経に代わって氏忠の子氏継が大宮司職に就いた。しかし、盛見の戦死後、大内氏の惣領となった持世が九州に入り、少弐満貞を秋月で討ち取ると氏経が大宮司職に復活した。このように、宗像大宮司職は、大内氏と少弐氏の勢力争いに左右されたが、おおむね大内氏とは親密な関係にあった。
応仁元年(1467)、京都を中心に応仁の乱が起ると、筑前を治めていた大内政弘は京都に攻め上り、西軍の中心勢力として活躍した。東軍の細川勝元は、政弘の勢力を弱めるため、少弐氏・大友氏を味方にいれて北九州の撹乱を図った。これに応じた少弐教頼は筑前に進出したが、大内軍に敗れて戦死した。ついで、文明元年(1469)、少弐政尚(頼忠・政資)がふたたび筑前に進攻し、大内軍を追い払うと太宰府に入って筑前・豊前を支配下においた。少弐氏が勢力を回復したことで、宗像氏は大宮司氏定派と氏郷・氏国派とに分裂、宗像から逃れた氏定は大内氏を頼って山口に居住した。
応仁・文明の乱は、文明五年(1473)に西軍の山名宗全、東軍の細川勝元が死去したにも関わらず、前後十余年にわたって惰性的に続いた。領国の動揺、筑前・豊前における少弐氏勢力の回復を危惧した政弘は、文明八年(1470)幕府に帰順すると領国の引き締めと筑前・豊前の失地回復につとめた。政弘の本格的な九州進出によって少弐氏は劣勢に追い込まれ、文明十年、政尚は肥前に逃れ去った。そして、明応六年(1497)、大内義興の攻勢によって、政資・高経父子は肥前多久において討死した。
これらの情勢の変化は宗像氏にもおよび、大内氏勢力の復活によって氏定が大宮司職に復活し、文明十年に宗像社に戻った氏定は長享元年(1487)まで大宮司職にあった。氏定のあとは、興氏が継いだが早世したため、氏国の嫡男正氏が大宮司職となった。
宗像氏の興亡
宗像氏は大内氏と少弐氏との抗争に翻弄されながら、筑前の有力国人領主に成長していった。宗像氏は、大宮司氏経が応永十九年(1412)に朝鮮の李氏大宗に使者を遣わしてより、氏顕・氏俊・氏正・氏郷に至る永正元年(1504)までの約百年間にわたって朝鮮貿易を行った。その間、家臣団を組織して領国支配に意を注ぎ、小さいながらも戦国大名といえる存在になったのである。
天文年間(1532〜55)、少弐資元が大友氏と結んで勢力を回復し、大内氏との間で抗争が展開された。宗像氏は大内氏方の中心勢力として活躍し、大宮司正氏は弟氏続に大宮司職を譲ると、大内義隆に近侍するため山口に出仕した。正氏は吉敷郡黒川郷を賜ってそこに館を築き、大内義隆の偏諱を受けて黒川刑部少輔隆尚と名乗った。
やがて、大内氏と大友氏との戦いが激化してくると、隆尚は宗像に帰り大宮司職に復帰し、大内方の中心となって立花城、筑紫村などに出陣した。一方、大宮司職を解任された氏続は、大友氏と結んで隆尚に敵対し、天文五年には合戦に及んでいる。同年、隆尚は氏続の嫡男氏男を猶子として大宮司職を譲ると、みずからは大内氏に従って中国方面を転戦し、天文十六年に死去した。
その後、大宮司職を退いた氏男は、天文二十年四月、山口に出仕し大内義隆の側近として仕えた。そして、隆尚あとの黒川郷を相続し、義隆の一字を賜って黒川隆像と名乗った。ところが同年九月、大内氏の重臣陶隆房(晴賢)が謀叛を起すと、隆像は陶隆房からの謀叛への誘いを断わり最後まで大内義隆に従って行動した。そして、義隆が大寧寺で自害をしたとき、敵が近づくのをゆるさず奮戦して陶方に討たれた。
黒川隆像の死後、宗像家では家督相続をめぐって争いが起こった。すなわち、隆尚(正氏)の実子鍋寿丸を擁立しようとする山口派と、隆像(氏男)が宗像に残した菊姫を擁立して婿を迎えようとする前大宮司氏続らとの骨肉の争いであった。宗像支配をねらう陶氏は、武力にものをいわせて強引に内訌に介入し、鍋寿丸を入国させた。その結果、菊姫母娘は鍋寿丸派の手によって殺害され、鍋寿丸が大宮司職と宗像氏の家督を継承し氏貞と名乗った。
筑前争乱
弘治元年(1555)、毛利元就と陶晴賢との間で厳島合戦が起ると、氏貞は晴賢に味方して家臣を援軍として派遣したが、戦いは陶方が敗れ晴賢は戦死した。晴賢を討った元就は、つづいて晴賢が擁した義長を攻めて大内氏を滅ぼした。かくして元就は周防・長門を掌握し、大内氏の旧領豊前・筑前への進出を企図するようになった。この情勢の変化に際して、筑前の秋月氏、肥前の筑紫氏らが毛利氏に通じて大友氏から離叛した。
氏貞は陶氏と同盟関係にあった大友氏に属し、毛利に味方する秋月文種の討伐戦に参加した。しかし、毛利氏の北九州進出が本格化してくると、大友と手を切り毛利方に転じた。氏貞にしてみれば、遠い豊後の大友氏に従うよりは、海峡ひとつ隔てた毛利氏と結ぶ方が有利であり現実的な判断であった。
永禄二年(1559)、大友義鎮(宗麟)は毛利勢の拠る門司城を攻めた。同時に立花鑑載に命じ、毛利方に通じた氏貞に対する報復として宗像領の許斐城を攻略させた。許斐城は氏貞の部将占部尚安らが守っていたが、大友の大軍に抵抗しがたいことを悟った氏貞は、占部らの将兵を城から撤退させ、自らも居城の白山城を脱出して大島に避難した。翌年、一千の軍勢を率いて、許斐城の奪回に成功し白山城に復帰した氏貞は、宗像社領を残らず手中に収めた。その後も大友方の立花城との戦いは続いたが、氏貞は領内に侵攻する立花勢をよく撃退した。
永禄七年七月、将軍義輝の勧告によって大友氏と毛利氏が和睦し、これに伴って宗像氏も大友氏と和議を結んだ。しかし、この平和も長くは続かず、永禄十年、筑前の国人たちがいっせいに大友氏に反旗を翻した。反乱の中心となったのは大友方の岩屋城督高橋鑑種で、これに秋月種実、筑紫惟門、宗像氏貞らが加担した。さらに、立花城将の立花鑑載も大友宗隣に背き、反乱は筑前全体を巻き込む大乱となった。
・宗像神社神紋で宗像氏の家紋であったともいう「実付き楢の葉」
渾沌を深める鎮西の争乱
永禄十一年五月、大友宗隣は筑前騒乱を鎮圧するために、戸次鑑連を大将として立花城を攻めさせた。立花鑑載は毛利氏から清水左近将監らの援軍をえて、大友軍の攻撃を防戦したが、城は落ち鑑載は自害した。立花城を奪還した宗麟は戸次鑑連に、宗像氏貞・秋月文種らが攻めてきた際の指示を与えて反乱軍に対峙させた。一方、毛利氏も筑前掌握のため、立花城奪回を図り作戦を練った。氏貞は毛利氏の将吉川経好と談合し、大友氏に対する攻勢計画を協議した。
永禄十二年(1569)、大友宗麟は肥前の龍造寺隆信を討伐するため佐賀へ出陣した。毛利軍はその隙を突き、吉川元春・小早川隆景らが四万の軍勢を率いて博多に進撃、立花城攻略に向かった。立花城からの急報に接した宗隣は龍造寺氏と講和して、ただちに立花城の救援に急行したが、立花城は毛利軍によって占領されていた。
かくして、同年四月から十月までの約半年の間に、大友氏と毛利氏は大小十八回におよぶ合戦を繰り返した。なかでも五月十八日の合戦は最も熾烈で、宗像勢もこの戦いに参戦し、大友軍多数を討ちとった。以後も氏貞は許斐城の防備・普請に奔走し、毛利氏の北九州攻略作戦に尽力した。このような氏貞の功績に対し、毛利氏は氏貞に太刀・馬を贈って報いている。
毛利氏の攻勢に業を煮やした宗麟は、手元に庇護していた大内輝弘に兵を与えて周防山口に送り込んだ。さらに、尼子氏残党とも結んで、毛利氏の後方撹乱を図った。本国の情勢の急変に驚いた毛利氏は軍をまとめると筑前から撤退、毛利軍が引き揚げたあとの立花城にはふたたび大友軍が入城した。この事態に至って、それまで毛利に付いて大友に抵抗していた筑前の国人たちは大友氏と和議を結び、筑前の争乱は一応の収束を見せた。氏貞も立花の陣を退いて大友氏と和睦し、元亀元年(1570)、大友氏の重臣臼杵鑑速の女を宗麟の養女として室に迎えた。
翌元亀二年、宗麟は毛利氏の再来に備えて戸次鑑連を立花城将とし、筑前方面の防備体制を強化した。その後、鑑連は立花氏の名跡を継ぎ、入道して立花道雪と名乗った。『宗像記』によれば、氏貞は立花城主となった鑑連に妹を嫁がせて姻戚関係を結んでいる。こうして、大友氏と和した氏貞は、大友氏との関係強化と領内の安定に意を注ぎ、天正六年(1578)六月には戦乱のなかで焼失していた宗像社辺津宮の本殿を復興し、神饌を捧げて御幣を振るった。
ところが天正六年の秋、日向に進攻した大友氏は薩摩の島津氏と日向高城、耳川の地で戦い大敗した。この敗戦によって大友氏の威勢も失墜し、筑前では秋月・筑紫・原田・麻生の諸氏が大友氏から離反していったが、氏貞は大友方の立花道雪との関係維持につとめた。
戦国時代の終焉
天正九年十一月、秋月種実が大友方の鷹取城を攻めようとした。これを察知した鷹取城では、城内の食糧を確保するため立花道雪に救援を要請し、道雪はただちに糧米を鷹取へ輸送させた。氏貞は道雪からの依頼を受けて領内の通行を許し、食糧は無事鷹取城に収められた。ところが、立花家に遺恨を抱く宗像氏の家臣の一部が輸送隊の帰途を襲おうと計画し、立花勢にことが漏れたため合戦となった。これを聞いた氏貞はただちに制止しようとしたが、そこへ秋月勢も駆けつけてきて、小金原で激戦となった。
合戦後、道雪はこの戦いをひき起こした宗像の不信行為に対して、小野・由布らの部将たちに宗像攻めの出陣を命じた。小野らは宗像・立花両家の和のために出陣を取り止めるように諌言し、氏貞もまた家臣らの軽挙盲動を深く陳謝した。しかし、道雪は許さず出兵を命じたため、氏貞もやむなく兵を出して防戦し立花勢を撃退した。
天正十一年、宗像氏はふたたび立花軍に攻められ、宗像勢はよく戦ったものの許斐城を立花軍に占拠された。二年後、宗像氏と戦争状態にあった立花道雪が筑後出陣中に病死した。氏貞は立花氏の動揺を突いて許斐城を攻撃し、これを奪還した。
このころになると、薩摩の島津氏は日向・肥後を支配下におき、着々と北上作戦を展開していた。天正十二年には、有馬氏と連合して肥前の龍造寺隆信を討ち取り、大友氏への圧迫を強めていった。島津氏の攻勢に追い詰められた宗麟は、上坂して豊臣秀吉に領地を差し出すと、救援を請うた。かねてより九州平定を考えていた秀吉は、ただちに九州出兵を決し、天正十四年、黒田如水、四国勢らを第一陣として九州に先発させた。
この情勢の変化に際して、氏貞は宗像家のとるべき方途について苦慮した。毛利との関係から秀吉に付くか、または島津・秋月らの九州側に付くかを、めまぐるしい状況のなかで悩みぬいたようだ。そのような多事多難な天正十四年二月、氏貞は風邪がもとで病床につき、次第に病状は悪化し、ついに三月蔦ケ岳城において死去した。まだ四十二歳の働き盛りであった。
宗像氏の没落
氏貞には一男三女の四人の子がいたが、男子塩寿丸が早世していたため嗣子がなかった。吉田・占部・許斐氏ら重臣たちは、氏貞の喪を秘して領内の経営にあたった。天正十四年、豊臣秀吉の九州平定の陣が起ると、宗像氏重臣たちは秀吉の先陣小早川・黒田氏らに従って豊前方面に出陣して戦功をあげた。翌天正十五年(1587)、豊臣秀吉が九州に下向してくると、吉田・占部らが赤間ケ関において秀吉を出迎えた。島津氏が降服したのち、宗像氏の家臣らは秀吉を筑後境に出迎え、箱崎までの案内役をつとめた。そして、箱崎陣中において吉田・占部の両人はふたたび拝謁を許され、宗像氏も安泰かと思われた。
ところがその後の国割によって、筑前一国は小早川隆景に与えられ、五万石あったともいう宗像氏の旧領はすべて没収されてしまった。宗像氏には筑後において二百町の地が与えられたが、それは吉田・占部氏らの従軍の功に対するものであったようだ。一方、『宗像記追考』には、氏貞未亡人に対して大穂・野坂などを所領として賜ったという。いずれにしろ、嗣子のない宗像家は秀吉から自立した大名として認められなかったばかりか、格好の除封対象となり、一族、家臣らは離散の運命となった。さらに、居城の蔦ケ岳城も秀吉の命で破却され、宗像氏の栄華のあとはまったく潰えてしまった。
その後、毛利氏の重臣益田元祥の元堯が氏貞の養子とされ、娘が小早川隆景の重臣草刈重継に嫁いだことで、宗像氏の相伝文書は草刈家に伝来することになった。とはいえ、平安時代以来、宗像の地に連綿として続いた宗像氏嫡流は最期を迎えたのであった。・2006年1月30日
【参考資料:宗像市史/福岡県史/九州戦国史 ほか】
→社家の姓氏「宗像氏」へ
■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』より。胸形君は大国主命の子事代主命の後裔と伝えられているが、氏男の父清氏は宇多天皇の親王とする説もある。氏男以前の系譜については、社家の姓氏「宗像氏」のページに掲載しています。
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
|
丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
|
安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
|
|
2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
|
これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
|
|
日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
|
|
|