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城井宇都宮氏
●三つ巴
●藤原氏道兼流
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後冷泉天皇のとき、藤原道兼の四代の孫で石山寺の座主であった宗円が、下野国二荒山の座主として下野に下った。奥州で安倍貞任・宗任が謀叛を起こした前九年・後三年の役に際して、賊徒誅伐の祈願を行い、奥州平定後、下野守に補任されて宇都宮の座主を兼ねて同地を治めた。
宗円の子宗綱のとき、宇都宮の別当と下野守を兼ねて宇都宮氏を称するようになった。また、宗綱は八田とも称し、母が中原氏の女であったことから中原氏をも称した。これが、中世を通じて武家の名門として続いた宇都宮氏のはじめである。
豊前に土着する
宗円の孫信房(宗綱の孫ともいう)は、文治元年(1185)源頼朝の命により、豊前守に任ぜられるとともに豊前の惣地頭職となって、平家残党討伐のため九州に下向した。信房は豊前に入ると在地豪族の坂井氏を追い、筑後・肥後を転戦して功をあげた。その後、信房は宇佐宮造営奉行となり、建久六年(1195)には豊前守護職に任じられ、城井郡を本拠として神楽山城を築き政所とした。
信房は優れた武将であり、また政治家としても秀で、神仏に対する信仰心もあつい人物であった。信房は坂井一族や平家の残党を服従させ、彦山を中心とする山岳宗徒との融和を図り、社寺の建立、勧請、復興にも力を尽くした。そして、領内に一族を配して勢力の安定を図った。豊前宇都宮一族は城井氏を中心に、山田・野中・佐田・仲八屋・如法寺・加来・犬丸・西郷・深水・奈須・伝法寺の庶流をうみ、宇佐・下毛・筑城・仲津・田川の各郡部に散在して豊前南部に勢力を伸ばした。こうして、信房は下野宇都宮氏を宗家とし、みずからは豊前の宇都宮一族の宗家となり、戦国時代に至る九州の名門城井宇都宮氏の基礎を築いたのである。
信房の子景房は父に従って九州平定に活躍し、頼朝に謁して九州四奉行に任ぜられたという。しかし、父に先だって死去したため、信房のあとは景房の子信景が継承した。『大宰管内志』によれば、建久五年に評定衆・九州四頭奉行に任じられたとあり、信景は祖父、父とともに若いころから活躍していたことがうかがわれる。信景の嫡男道房は薩摩守に叙任され、評定衆に加えられた。道房のとき蒙古の襲来があり、道房は嫡男の頼房とともに一族をまとめて難局にあたり、鎮西の武士の間で重きをなした。
元寇の変後に鎮西奉行所(のち鎮西探題)が設置されると、道房はその奉行人に登用された。ついで、頼房も大友頼泰・武藤資経・渋谷重郷とともに四奉行の一人に任ぜられた。
元寇の変を契機として、幕府は凋落の色を見せるようになった。幕府は元寇の変に活躍した武士たちに恩賞の土地を与えることができず、武士たちの間に不満が高じていった。さらに、北条得宗家の被官である御内人の専横が甚だしいものとなり、ようやく幕府の屋台骨もぐらつきだした。そこに、後醍醐天皇の倒幕の企てがあり、ついに元弘三年(1333)に鎌倉幕府は滅亡した。
南北朝の動乱
この動乱に際して、下野の宇都宮氏宗家公綱は一貫して南朝方として行動した。一方、豊前の頼房は、後醍醐天皇が伯耆から京に遷幸されたとき兵を率いて供奉し、戦乱のなかで流浪していた助有法親王を彦山の座主に迎えている。このころ頼房はすでに七十歳なかばであったようで、下野宇都宮氏から迎えた冬綱が当主の座にあったようだ。
建武二年(1335)、中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が鎌倉で謀叛を起こし、討伐軍を破って上京、京都を制圧した。ほどなく、北畠顕家・楠木正成らの官軍に敗れた尊氏は、再起を期して九州に逃れた。九州に下った尊氏は少弐頼尚に迎えられ、菊池武敏を中心とする九州の官軍と多々良浜で戦い、勝利をおさめると太宰府に入った。九州の諸将は先を争って尊氏のもとに馳せ参じ、宇都宮冬綱も参じて尊氏に忠誠を誓った。以後、冬綱は尊氏に属して、建武三年、宇佐郡に進攻して妙見氏・安心院氏を降し、子の親綱を神楽城において宇佐郡を守らせた。
南北朝の争乱は武家方の優勢に展開したが、やがて尊氏と弟直義の対立から観応の擾乱が起こった。冬綱は尊氏に味方して、直義方の討伐に活躍、尊氏の勝利に貢献した。観応三年(1352)、それらの功により、筑後・豊前・下野二郡の守護に補任された。
尊氏は九州で勢力を挽回して京をめざしたとき、鎮西管領として一色範氏を残した。その後、観応の擾乱が起こると、直義の養子の直冬が九州に下り、九州は宮方、武家方、そして直冬党の三つに分裂して抗争が展開された。やがて、直義が死去したことで直冬は長門に逃れ、ふたたび宮方と武家方の対立となった。九州宮方は懐良親王を奉じる菊池武光の奮闘で勢力を伸長し、正平十年(1355)、少弐氏と結んだ宮方軍は探題一色氏を攻撃した。さらに宮方は豊後大友氏を降し、さらに豊前にまで侵攻して宇都宮氏を攻撃、ついに冬綱は宮方に降伏した。宮方の攻勢に敗れた一色氏は、博多を放棄して長門に脱出した。
こうして、九州では南朝の勢力がおおいに振るい、薩摩の島津氏も宮方に降伏した。しかし、大友氏らは心から宮方に屈したわけではなく、やがて少弐頼尚が大友氏と結んで宮方に反旗を翻し、これに宇都宮冬綱も応じた。
打ち続く戦乱と宇都宮氏の衰退
正平十四年、菊池武光は大友氏を討つため豊後へ出兵、少弐氏は大友を支援して兵を動かした。少弐頼尚は筑前・筑後・肥前・薩摩の兵六万を催し、菊池武光は懐良親王を奉じて四万の軍勢を催した。このとき、冬綱は少弐方に属し、義弟の隆房は宮方に参じていた。両軍は筑後川畔の大保原で激突し、冬綱の勢は親王の身辺にまで迫る奮戦ぶりを示し、義弟隆房は親王を守って戦死した。戦いは宮方の奮戦によって、ついに少弐勢は潰乱し、九州宮方の勝利となった。
冬綱は大保原の合戦に敗れたのち、豊前に退いた。冬綱には重綱をはじめとして数人の男子があったが、下野の宗家公綱の子家綱を養子としていた。しかし、家綱は実父公綱に属して宮方として行動し、重綱も公綱とともに宮方に属してたびたび尊氏軍を撃退している。
その後、探題として九州に入った斯波氏経も菊池氏に敗れて、なすところなく九州から去った。かくして、正平十六年、太宰府を掌握した九州宮方は征西府を置くと、以後、十年以上にわたる征西府全盛時代を現出した。幕府は応安三年(1370)今川了俊を新探題に起用して、頽勢の挽回を図った。了俊の卓抜した政略と軍略によって征西府は太宰府を失い、次第に勢力を後退させていった。
一方、冬綱の養子家綱は武家方に転じて豊前守護に任じられたが、その後、豊前守護職は畠山氏が補任された。これには宇都宮氏も心穏やかではなく、家綱の子直綱は宮方に応じて、松丸の高畑城に拠って挙兵した。直綱の挙兵に驚いた了俊はただちに討伐軍を送って高畑城を攻撃、直綱は激戦を展開したすえに城は落ちた。この事件を契機に、豊前守護職は完全に宇都宮氏から離れ、宇都宮氏は衰退を招いた。
今川了俊の活躍によって九州宮方は逼塞し、明徳三年(1392)、足利義満の尽力で南北朝の合一がなった。かくして、半世紀以上にわたった南北朝の動乱は終焉を迎えたのである。九州平定の最大の功労者であった了俊は、大内氏らの讒言によって罷免され、京都に召還されていった。ここに、九州をめぐる政治状況は一変した。
了俊が更迭されたあとの探題には渋川満頼が補任され、その後見を大内氏が命じられ豊前守護に補任された。大内氏は了俊に協力して九州との関係をもったが、豊前守護に任じられたことで本格的に九州に進出してくるようになった。この探題=大内氏に対したのが少弐氏で、少弐氏は大友氏と結んで大内氏との小競り合いを繰り返した。
ところで、直綱のあと宇都宮氏は、盛綱、家尚、尚直と続くが、逼塞を余儀なくされていたようで、事蹟はほとんど伝わっていない。とはいえ、南北朝の合一がなってのちの城井氏は、大内氏に属して勢力の回復を目指したようだ。
鎮西の戦国乱世
応仁元年(1467)、京を中心に応仁の乱が起こった。豊前守護大内政弘は西軍に味方して上京、西軍の中核勢力として奮戦した。これに対して東軍に加担する将軍足利義政は、大友氏、少弐氏ら大内氏を討つように命じた。大友氏らは豊前・筑前に侵攻、大内方の城井秀房は長野行種とともに出陣、大友勢と戦った。
応仁の乱をきっかけとして筑前の回復を狙う少弐氏は、大内氏と再三にわたって戦ったが、戦局は大内氏が優勢であった。明応九年(1500)、少弐資元は大友親治と結んで豊前に侵入、馬ヶ岳城を攻略してそこに拠った。このとき、城井興房は少弐方に味方したため、大内氏の反撃によって馬ヶ岳城が奪回されたとき、城井氏の本城であった本庄城も攻撃を受けている。
大内氏の反撃によって少弐・大友氏の勢力は豊前から一掃され、一時平穏が訪れた。しかし、天文元年(1532)、少弐資元と豊後の大友義鑑が連合して挙兵した。大友義鑑は豊前の宇佐郡妙見岳城を攻め、大内義興は二万三千の大軍を豊前に送った。この大内軍には城井正房が一族の佐田朝景とともに加わり、妙見岳城を攻撃、その後、筑前・肥前まで転戦した。大内軍は少弐資元を肥前に追い詰め、天文三年、資元は大内義興に降伏した。その二年後、義興は陶興房を大将とした軍を肥前に送り、少弐資元を多久に追い詰めて滅ぼした。正房は一貫して大内氏に属して、豊前国上毛郡の段銭奉行をつとめ、大内氏麾下の勇将として各地を転戦した。
ところで、宇都宮氏には古くから伝わる「艾蓬(よもぎ)の射法(豊治の射法)」という弓の射法があった。これは蓬の茎を矢にして射るもので、吉凶の占いや、戦勝祈願に用いられる秘法で、元寇の国難には鎌倉鶴岡八幡宮の社前でしばしば射行されたという。代々、一子相伝の掟が守られて当主以外には執行することができなかった。
永正六年(1509)三月、宇都宮正房は、足利十代将軍義稙の御前で礼射して太刀を賜った。また、室町期だけでも十回以上も将軍家の前でこの射法を行っている。この射法は武門宇都宮氏のシンボルであり、誇りと格式をもっていた。ところで、宇都宮氏の家紋は三つ巴だが、これはもともと弓射に用いる武具であった鞆を形象化したものとする説がある。この鞆の形と巴の字形が鞆の図形に似ていたことから、トモエと訓ばれるようになったのだという。
乱世に翻弄される
正房の子長房は大内義興の女を室に迎えて姻戚となり、豊前の有力者として勢力を維持した。義興の死後、大内氏を継いだ義隆は、父の遺業を継いで豊前・筑前の支配を確固たるものにした。ところが、天文二十年(1551)、重臣陶隆房(晴賢)の謀叛によって殺害されてしまった。隆房は義鎮の弟晴英(義長)を大内氏の家督に迎えて実権を掌握したが、弘治元年(1555)、安芸厳島で毛利元就と戦って敗死した。
晴賢を滅ぼした元就は山口の大内義長を攻撃、大友氏は豊前の諸将に大内氏支援を催促した。しかし、城井氏、野仲氏らは動かず、怒った大友宗麟は豊前に兵を入れた。大友軍は正房の弟房統の守る竜王城を攻略し、宇佐三十六人衆と称される武士たちを屈服させた。ついで、野仲氏の長岩城を攻略、さらに秋月勢、仁保氏を追い、彦山の衆徒も制圧して豊前一円を掌握した。一方、山口の大内義長を討ち取った毛利元就は周防を制圧して領内の態勢を固めると、大内氏の遺領であった北九州回復をめざし豊前への出兵を開始した。
この多難な時代に城井氏の家督にあった長房は大内氏から室を迎え、嫡男の鎮房は大友義鎮の偏諱を賜り室は大友氏から迎えていた。城井宇都宮氏は、大内、大友両氏に挟まれて苦しい立場におかれ、ついで大友・毛利両勢力の狭間で激しく揺れ動いた。宗家の城井氏は、弘治二年(1556)以来大友側につき、城井谷の要害を固めて鎌倉以来の伝統を守っていた。
永禄元年(1558)、毛利軍は門司城を占領して北九州進出の拠点とした。一方、豊後の大友義鎮(宗麟)も、これを阻止するため大軍を差し向けて対抗した。以後、毛利氏と大友氏は鎮西の覇権をめぐって、豊前・筑前の各地で激戦を展開した。
毛利氏と大友氏の抗争は泥沼化し、一計を案じた義鎮は豊後に庇護していた大内輝弘に兵を付けて山口に送り、毛利氏の後方撹乱を図った。さらに出雲の尼子氏残党と手を結び、毛利氏の領国にゆさぶりをかけた。これには、流石の元就も窮し、兵を九州からひきあげていった。かくして、大友宗麟は豊後・豊前はもとより筑後・肥前・肥後までも支配下におき、九州探題に任じられ、一躍九州一の勢力を築き挙げたのである。
戦国時代の終焉
天正六年(1578)九州一の勢力を誇った大友宗麟は、日向で島津義久と戦って大敗、以後、大友氏は衰退の一途をたどることになる。大友軍を破った島津氏は日向を征圧すると肥後方面に進出するようになった。同十二年には「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信を島原で敗死させ、大友氏を圧迫しながら北進の態勢をとり九州制覇を目指した。
宇都宮氏も大友氏にしたがって日向に出陣したようだが、大友氏の衰退をみてとると、筑前の秋月氏らと結んで大友氏の勢力を豊前から追い払い、勢力の拡大を図るようになった。鎮房は馬毛岳の長野氏と結んで下毛郡に侵攻したが、一族の佐田氏、西郷氏らは大友方にとどまり、所領の拡大は思うにまかせなかった。一方、大友氏も巻き返しを図って豊前に侵攻したが、秋月氏らの反撃によって敗退した。やがて、島津氏は筑後・筑前・豊後に兵を進めてきた。
天正十四年四月、宗麟は島津の攻勢に対抗できず、上坂して豊臣秀吉に島津征伐を上訴した、秀吉はこれを島津征伐の格好の口実として、九州征伐の陣ぶれを発した。翌十五年にはみずから二十万の大軍を率いて九州に進攻、抵抗する島津・秋月らへの討伐を開始した。宇都宮鎮房・朝房父子は、秋月氏とともに島津側についていた。しかし、秀吉軍の猛攻とその軍備のきらびやかさに圧倒された秋月種実はたちまち降伏した。
その後の島津征伐に秀吉から出兵を命じられた鎮房は病と称して出陣せず、子の朝房を代理に立て、しかもわずかな人数しか出さなかった。しかも、秀吉の九州滞在中も病気を理由に挨拶にも出向かなかった。五月、秀吉は島津義久を降伏させて九州平定を終えたが、緒戦において島津氏に加担した宇都宮父子の立場は微妙であった。
やがて、秀吉の九州知行割りが発表され、鎮房父子の本拠城井郷を含む豊前六郡十二万石余は、黒田孝高(如水)に与えられた。豊前最大の国人領主宇都宮鎮房の処遇はといえば、朝房が父の名代として秀吉軍に参加していたことで、朝房に豊前国外に転封の朱印状が与えられた。その内容については、伊予今治で十二万石といい、また、上筑後二百町ともいわれる。十二万石と二百町では大きな違いだが、秀吉の国人ら旧勢力解体の方針からすれば、あるいは二百町であったのかもしれない。鎌倉以来の一所懸命の地である豊前の領地に愛着を持つ鎮房は、朝房への秀吉朱印状を返上した。
朱印状の返上は秀吉に楯突くことであり、容認されるはずもなかった。結果として、鎮房は秀吉の逆鱗にふれ、所領安堵は沙汰止みとなった。鎮房は勇将であったが、時流を読みとる目はあまりにも暗かったといえよう。
秀吉は九州平定の成果を急いだため、帰参してきた国人たちへ、やたらに朱印状を与えてその所領を安堵した。そのため、国人たちは自分たちの所領が秀吉から、そっくり保証されたものと思った。他方、秀吉のもとで活躍した小早川・佐々・黒田・毛利・立花らが、豊前・筑前において大名に取り立てられ、それぞれ新領地に入部した。かれらは、旧領主である国人たちの解体統合に乗り出した。こうして、邪魔者あつかいされるようになった、在地旧領主たちは、自分の土地も自由にできなくなり不満を募らせるようになった。
城井氏の抵抗
豊前六郡の新領主となった黒田孝高は、天正十五年七月、豊前に入国すると長野氏の居城であった馬ケ岳城に入った。黒田氏の入国で宙に浮いた鎮房は、企救・田河両郡の大名となった毛利勝信に秀吉への旧領安堵の取りなしをたのんだが、叶うはずもなかった。勝信は鎮房に同情し、自領の田河郡赤郷のうち白土・柿原・成光の三村を貸与してくれた。その間、黒田孝高・長政父子は新領地に対する施策をつぎつぎに行っていった。ここにいたって鎮房は、ついに居城大平城を出て赤郷へ移っていった。
鎮房が赤郷に移って間もなく、肥後国で国人たちの不満が爆発し一揆が起こった。一揆はたちまち肥後北部から中部へと広がり、肥後国内は大混乱におちいった。秀吉はただちに一揆鎮圧のため、小早川・黒田・毛利・立花らの諸大名に出動を命じた。孝高は子の長政に留守中の措置を命じると、兵を率い筑後まで出陣した。孝高の出陣をみた上毛郡の如法寺輝則をはじめ、緒方維綱、日熊直次、有吉内記らが一揆ののろしをあげた。
一揆の火の手があがると、赤郷に寓居していた鎮房も反黒田、反豊臣政権への挙兵に踏み切り、赤郷を出て黒田の将大村助右衛門が守備する大平城を奪回して入城した。鎮房の室静の方や、嫡子朝房とその室竜子、鎮房の娘鶴姫らの家族をはじめ、一門・家来たちも大平城に入り籠城の態勢をとった。さらに、鎮房の挙兵に応じて、宇都宮氏配下の求菩提山の山伏たちや、各地の国人たちがつぎつぎに蜂起した。
事態の急変に驚いた孝高は、秀吉に報告するとともに、帰城して近隣の毛利勝信や中国の毛利輝元らに援軍を要請した。孝高は子の長政とともに黒田軍を率い、毛利勝信の援軍を併せて、豊前各地に一揆勢と戦った。黒田連合軍はつぎつぎに蜂起する国人たちの鎮圧に手を焼いたが、最大の難敵は大平城に拠る宇都宮鎮房であった。『黒田家譜』には、「鎮房は武勇人にすぐれ、力量つよくして人数多くしたがへ、城井谷の内、家田村の奥、鬼ケ城という所に立て籠る」と記されている。
城井城址
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写真:左上から●城井城址への標識 /宇都宮一族の碑 /城井城址への道 /城井上城址(撮影:論手千春さん)
黒田氏の謀略で無念の滅亡
黒田・毛利連合軍の城井谷攻撃は十月に始まった。孝高は時機尚早とみて許さなかったというが、長政は父の許しを待てず、宇都宮への決戦を挑んで出陣した。その勢三千騎であったという。これに対し、鎮房の方は千余の兵数で、尾根の各所に陣地を設けて待ち伏せていた。長政は狭い山道を猛進して大平城に迫ったが、宇都宮勢に四方から攻撃された黒田方はたちまち先陣が崩れ、二陣も浮き足だち、ついには総崩れとなり、戦いは城井方の一方的勝利となった。
この敗戦によって戦略を立て直した孝高は、付け城を築いて城井谷を監視させ鎮房との決戦を避けた。そうしておいて、上毛郡の観音原で一揆勢を撃破し、さらに、宇都宮鎮房につぐ下毛郡の一揆のリーダー、野仲鎮兼が守る長岩城を攻め落とした。一揆方の城は次々と黒田勢に潰され、次第に鎮房らの拠る城井谷は孤立していった。籠城が長引くにつれて、鎮房方は食糧、物資が欠乏し、兵たちの間にも厭戦気分が漂いはじめた。このままでは自滅しかないが、城から打って出るわけにも行かず、剛勇の鎮房は苦慮した。
一方、黒田側も城井勢を鎮圧しない限り一揆を討伐したことにはならず、かといって力攻めは犠牲が大きい。ここに、両者の利害が一致して、ひとまず講和が結ばれた。天正十五年十二月下旬、宇都宮鎮房の降伏によって豊前一揆はすべて鎮圧された。とはいえ、黒田父子はなお鎮房を警戒していた。翌年、孝高は秀吉の命で、肥後へ出張することになった。このとき、孝高は鎮房の嫡男朝房を同行させた。そして、留守を命じた長政に「城井谷のこと、油断あるべからざるよし」と言い置いて出発した。
孝高らが肥後に滞在しているとき、鎮房が婿長政への挨拶と称して突然中津城にやってきた。長政はこの来訪を強引と感じ、挨拶のためなら父孝高の在城中に参上するのが妥当であろうとも思ったようである。いずれにしろ、長政は直ちに家臣と打ち合わせて鎮房謀殺の手筈を整えた。こうして、城内には鎮房と小姓の松田小吉だけが案内され、他の家臣たちは城外で待たされた。長政は酒席を設けて岳父鎮房を接待し、鎮房が心を許したところを斬殺した。城外にいた家臣たちもことごとく討たれ、城井勢は悲惨な最後を遂げた。
鎮房を謀殺したのち、長政はただちに城井谷に兵を差し向けて、鎮房の居館を焼き払い、父長甫を捕えて斬った。一方、肥後にいた孝高は、鎮房誅殺の知らせを受けると、同行させた朝房を兵に襲わせて殺害した。ときに、朝房は十八歳の若武者、ここに鎌倉以来の名族城井宇都宮氏は滅亡した。
城井宇都宮氏、補遺
戦国時代きっての器量人といわれた黒田孝高であったが、この城井氏の扱いだけはかれの人生における少ない汚点の一つと呼べるものであった。そして、黒田父子は城井氏の怨念を、のちの移封先である筑前国へもひきずっていったようだ。黒田氏は江戸時代なかごろより、男子に恵まれずに養子が続いた。それは城井氏の怨念のなせるものと噂されたという。
城井谷が落ちたとき、身ごもっていた朝房の妻竜子は、侍女らに守られて彦山を目指して逃れた。その後、竜子は男子を出産し、その子孫は越前松平家に仕官したという。
ところで、天下を統一した豊臣秀吉は朝鮮出兵を思い立ち、文禄・慶長の役を起こした。秀吉は出陣にあたって、宇都宮氏に伝わる「艾蓬の射法」を行おうとしたが、射法は宇都宮氏の一子相伝であったため方法が分からず真似事しかできなかった。このとき、秀吉は宇都宮氏を滅ぼした短慮を悔やんだと伝えられている。・2005年5月11日
【参考資料:豊前宇都宮興亡史(小川 武志氏 著)/九州戦国史/九州戦国の武将たち(吉永 正春氏 著)】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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そのすべての家紋画像をご覧ください!
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
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約12万あるといわれる日本の名字、
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
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