戦国大名島津氏は、薩隅日の三州に長い伝統をもっていたため、
その家臣団にも長い伝統があった。
島津宗家が沈滞した時期に現われた伊作島津忠良・貴久は、大永六年(1526)より天文十九年(1550)までの
間における活動によって宗家を凌いで戦国大名へと発展した。
伊作島津氏の合戦を伴った統一のプロセスは他国の戦国大名と変わらないが、
宗家に代わって旧守護家の系譜を手に入れたということは、忠良・貴久の場合の特徴的なことのひとつであろう。
薩摩で忠良・貴久が宗家の勝久にとって代わった大永・享禄・天文年間の戦国動乱期、
大隅では肝付氏と本田氏が、日向では伊東氏と島津庶子家の北郷氏が、
北薩では菱刈氏が相良相良氏と、それぞれ合戦を繰り返していた。伊作島津氏と島津宗家の一体化は、
合戦に明け暮れる薩隅日の国人領主に動揺を与え、対抗勢力との対応、家臣団の再編は
新生島津氏にとって避けられぬ課題となった。
すなわち、島津氏が守護として領国内につくりあげてきた諸領主との協調・臣従関係は
深刻な影響を蒙ることになり、島津宗家の長期におよぶ伝領に随伴してきた家臣は守護島津氏の領国体制に密着していたために、
伊作島津氏による領国再編にストレートに結び付くものではなかったのである。
戦国大名島津氏の初代は忠良であり、二代は子の貴久、
三代、四代は孫の義久・義弘(家督を継承しなかったとする説が有力)で、この四代において
島津氏は対抗する諸領主をねじ伏せ、家臣団を整備して、義久・義弘の代には
九州一円を席捲する勢いをみせるまでになった。
家臣団の再編
戦国大名島津氏を支えた家臣をみていくと
戦国以前に島津氏の家臣となっていても、戦国時代に一族の位置が替わって
忠良以後に「心易」「奉公」「召仕」となったものには、酒匂・猿渡・国分・五代・市来・大寺・指宿・有馬・平山・肥後・財部・上原・加治木・税所・
桑波田・椎原・二階堂・延時・曾木・鬼塚・竹之内・野田・白坂・福崎・安藤・竹崎の二十七氏がある。
ついで、戦国時代以前は不詳で戦国島津四代に臣従したというものに、
は、新しい島津家臣と数えてよいであろう。
これには、酒匂・猿渡・国分・五代・市来・大寺・指宿・有馬・平山・肥後・財部・上原・加治木・税所・
桑波田・椎原・二階堂・延時・曾木・鬼塚・竹之内・野田・白坂・福崎・安藤・竹崎の二十七氏をあげることができる。
戦国時代以前が不詳で、戦国島津四代に初めて臣従したというものには、
是枝・宮原・平野・津曲・八木・海江田・有川・後醍醐・田尻・井尻・河越・名越・広瀬・毛利・
児玉・家村・久留・吉井・関・押川・瀬戸口・鹿島・矢野氏らがいる。
また、島津氏とは対抗勢力であった薩摩やその他の諸領主、あるいは分家などで、
戦国時代に初めて臣従したものとしては、富山・梅北・土持・城井・入田・志賀・戸次・阿蘇らの諸氏があげられる。
これらの氏が、戦国時代に島津氏によって家臣として編成されたのである。
島津氏の三州統一から九州制覇の戦いのなかで進められた
氏の変動にともなう新規の家臣団編成は、中世以来の伝統的体制を破るものであり、
それぞれの家臣においても一大事件であったと考えられる。
戦国時代に島津氏に付き従った家臣たちは、近世大名となった島津氏の家臣の半数を占めた。
それは、戦国時代に没落していったものの存在を考え、戦国以前からのものと対比すれば、
はるかに大きな割合を占めるものであった。伊作忠良が勝久にとって代わったことで、中世以来の
島津氏の体制は大きく変化を遂げ、それは島津氏家臣団が変貌した時代ともなった。
忠良・貴久の家臣たちは薩摩半島に出自をもつ者たちだが、その出自は「中古までみえず」とか
「父は田舎に致し居り」といわれ、当時小領主あったで忠良・貴久の所領から編成された者たちであったようだ。
島津本宗家に入った忠良・貴久は本宗家に属してきた家臣層をそのまま引き継がず
、在地の名を支配するような領主層を新たに臣従組織に組み込んでいった。現代でもそうだが、
子会社から親会社の社長に迎えられた人物において、本社の重役・社員ほど使いにくいものはなく、
みずからの母体である子会社から有用な人材をもってきて本社における業績の向上を目指す例が多い。
忠良・貴久の場合も同様で、忠良は在地の領主層を新たに家臣の一支柱とし、それに成功した。
いいかえれば忠良・貴久の家臣団再編は、戦国動乱期の新情勢に対応できる新体制づくりを推進したといえよう。
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