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戦国大名島津氏は、薩隅日の地に長い伝統をもっていたので、これに対応してその家臣団にも長い伝統があった。 伊作島津忠良・貴久は、宗家が沈滞した時期に現われて、大永六年より天文十九年までの事業により、戦国大名として発展した。その合戦による統一の過程はいずれの戦国大名ももっているが、旧守護家の系譜を手に入れるということは、忠良の場合の特徴的なことのひとつであろう。 当時、薩摩で忠良・貴久が勝久にとってかわる、大永・亨禄・天文年間の戦国動乱期には、領国でも、大隅で肝付氏と本田氏が、日向で伊東氏と北郷氏、島津氏分家が、北薩で、相良氏と菱刈氏、島津分家が、それぞれ合戦を繰り返しており、旧来の領主の動揺、再編と新領主の叢生とが避けられぬ事態となっていた。 島津氏が守護として領国内につくりあげてきた、諸領主との臣従関係は、これによって深刻な影響を蒙らざるをえなかった。また、島津宗家の長期におよぶ伝領に随伴する家臣は、守護島津氏の領国体制に密着していたために、伊作島津氏による領国再編にはストレートに結び付くものではなかったのである。 戦国大名島津氏の初代は忠良であり、二代は子の貴久、三代、四代は孫の義久・義弘であって、この四代は政治組織的にはまったく一心同体のものである。 戦国以前に島津氏の家臣となっていても、戦国時代に一族の位置が替わったもので、忠良以後に「心易」「奉公」「召仕」となったものは、新しい島津家臣と数えてよいであろう。これには、酒匂・猿渡・国分・五代・市来・大寺・指宿・有馬・平山・肥後・財部・上原・加治木・税所・桑波田・椎原・二階堂・延時・曾木・鬼塚・竹之内・野田・白坂・福崎・安藤・竹崎の二十七氏をあげることができる。 また、戦国時代以前が不詳で、戦国島津四代に初めて臣従したという、是枝・宮原・平野・津曲・八木・海江田・有川・後醍醐・田尻・井尻・河越・名越・広瀬・毛利・児玉・家村・久留・吉井・関・押川・瀬戸口・鹿島・矢野などの氏も加えてよいだろう。 また、薩摩やその他の諸領主、あるいは分家などで、島津氏と対抗していて、戦国時代に初めて臣従したものも加えられてよいであろう。すなわち、富山・梅北・土持・城井・入田・志賀・戸次・阿蘇などの氏がそれである。 以上、それぞれの氏の変動にともなう新規の家臣化は、各家臣にとっても一代事件であったと考えられるが、これらの氏が戦国時代に島津氏によって家臣として編成されたのである。これらは、近世島津氏の家臣の半数を占め、戦国時代に没落していったものの存在を考え、それ以前からのものと対比せうれば、はるかに大きな割合を占めるものであった。忠良に始まる島津の戦国時代は、島津氏の家臣が変貌した時代であったことは明白である。忠良と勝久のそれとの間にはかような断絶を生み出す契機が存在していたのであった。 しかも、忠良・貴久の臣従者中には、薩摩半島に出自をもち、「中古までみえず」とか「父は田舎に致し居り」といわれ、当時小領主で、忠良・貴久の同地方の所領から編成されたとみなされる市来・上原・加世田・薗田などの諸氏がいるので、忠良・貴久が島津本宗家の有してきた家臣層をそのまま引き継がずに、薩摩半島に存在していた在地の名を支配するような領主層を新たに臣従組織に組み込み、これを家臣の一支柱としていることが考えられる。これは、忠良が、家臣の刷新においても新機軸を打ち出し、それに成功しているとも要約することができる。いいかえれば家臣の再編は、戦国争乱期の新情勢に対応した伊作島津氏ならではの政策でもあったといえよう。 |
・伊集院氏 ・新納氏 ・町田氏 ・北郷氏 ・川上氏 ・鎌田氏 ・東郷氏 ・比志島氏 ・八木氏 ・平田氏 ・梅北氏 ・上井氏 ・土持氏 |