薩摩本田氏
丸に洲浜
(桓武平氏) |
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本田氏は桓武平氏で、高望王の七男村岡五郎良文の末と伝えられている。すなわち、良文の後裔信濃守親幹に至って本田を称するようになったという。ちなみに、戦国時代に上杉謙信が作成したおいう『関東幕注文』のなかに本田氏がみえ「すわま」とあることから、薩摩本田氏の遠い一族と思われ、本田氏が関東から出たことをうかがわせている。
さて、本田氏初代親幹の孫親恒は畠山重忠の宿将で、島津忠久夫人の外祖父に当たる人物でもあった。そのような関係から、島津忠久が薩摩・大隈・日向三州の守護職に補任されると、親恒は忠久の命を受けて三州に代官として下向し、国勢を沙汰したうえで数年のちに復命した。その子貞親は忠久に従って三州に下り大隈国守護代をつとめ、忠久の重臣として国政に参与した。以後、本田氏は姶良郡清水郷の清水城を居城として、島津氏に仕えて戦国時代に至ったのである。
貞親の子親保は島津忠宗の、つぎの重親は島津氏久のもとで国老をつとめた。さらに、九代忠親は島津元久、その弟で十代重恒は島津久豊、つぎの国親は島津忠昌の国老をとつめる、というように代々島津氏の国老を輩出した。ところが、十四代の薫親は島津貴久に叛き、天文十七年(1548)清水城は攻撃を受けて落城、諸県郡庄内に追放の身となった。
その後、薫親の孫公親に至って、島津義久から本家惣領職の安堵を受けて復活を果たした。公親は義久の国老職をつとめ、大隅曾於郡地頭に任じられた。慶長の役に出陣し、文禄四年(1595)、島津義久が隠居して大隅富隈城に移ると義久の家老を務めたという。子孫は、田布施地頭職、湯之尾地頭職をつとめ、二十代の由親は大目付を歴任するなど、島津藩士として明治維新に至った。
■参考略系図
・「薩陽武鑑」「さつまの姓氏」を底本に作成。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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