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薩摩山田氏
六つ星*
(桓武平氏維衡流/島津氏一族?)


 島津氏の家臣として戦国時代に活躍する山田氏は、その伝によれば、平将門の乱に活躍した平貞盛の子維衡の後裔としている。すなわち、平貞盛から七世の孫武蔵三郎左衛門有国の孫式部大輔有賀が島津忠久に仕えて、薩摩国日置郡山田を領した。そして、地名にちなんで山田を称したことが始まりという。
 室町時代になると、薩摩守護島津氏は惣領・総州家と庶流・奥州家に分裂して抗争となったが、このとき、有親は薩州島津実久に党した。天文二年(1533)十二月、阿多・鎌田氏らの讒言により、相州島津忠良によって日置郡伊作郷で誅殺された。しかし、その子有徳の代に讒言であったことが判明し、有徳は父有親の本領安堵を受け、市来・串木野・日置郡地頭職に補されて、山田氏は復活を果たした。

島津氏の勇将、山田氏

 有徳のあとを継いだ有信は、幼少より島津貴久の側近に仕え、貴久の嫡子義久の下で各地の地頭として活躍し戦功も多い。とくに有信の勇名を轟かせたのが、大友宗麟との耳川合戦時である。当時、日向高城の地頭であった有信は、島津家久等とともにこの城に籠城し、攻囲する大友軍に最後まで屈しなかった。やがて義久以下の本隊が到着したことで反撃に出て、多くの大友勢を討ち取った。以後、島津氏の九州統一の戦いにおいて戦歴を重ね、筑前・岩屋城の戦いでは城兵の投石に当たって気絶したところを、島津義弘に蘇生されたエピソードをもっている。
 豊臣秀吉の九州平定後、その武勇を認められて大名に抜擢されたが、それを断って島津氏に忠誠を尽くした。このとき、伊集院氏は豊臣秀吉に応じて、のちに乱を起しており、有信の進退の潔さを感じさせる。その後、奏者を経て老中に列した。
 有信が高城で籠城して大友氏を相手に奮戦をつづけているときに生まれたのが、嫡子の有栄であった。高城で嫡子誕生の報に接した有信は、思い残すことはないと呵々大笑したという。有栄が世に出たのは、天正十五年(1587)のことであった。すなわち、島津氏が豊臣軍に降伏したとき、有信は日向高城を豊臣軍に明け渡したが、そのときの人質となったのが有栄であった。その後、文禄四年(1595)の朝鮮の役に出陣し、伊集院氏が反乱を起した庄内の乱にも出陣した。
 有栄の武名をもっとも高からしめたのは、「関ヶ原の合戦」における活躍であった。関ヶ原の戦いにおいて島津義弘は、行き掛りから西軍に味方した。合戦に際して先陣を島津義弘の甥豊久がつとめ、有栄は右備に配置された。戦いは西軍の敗戦となり、史上に有名な島津軍の退却戦となった。有栄は先陣の豊久よりもさきに敵陣に突入、激戦のすえ、島津義弘を守って戦線を離脱した。その後の逃避行は惨澹たる状態で、一行が路銀に窮したとき、有栄は純金鞘の脇差を売ってしのいだという。
 島津氏は多くの兵を失ったが、どうにか薩摩に帰国することができた。有栄はこのときの功によって二百石の加増を受け、義弘からは太刀を拝領した。江戸時代の寛永六年(1629)、出水の地頭となり、その後家老職もつとめた。有栄は長寿を保ち、寛文八年(1668)九十一歳を一期として死去したが、歴代の島津氏の当主から厚い信頼を受けた戦国武将であった。
 有栄のあとは次男の有隆が継ぎ、子孫は、代々島津氏の重臣の地位にあった。・2004年11月16日


■参考略系図
・『薩陽武鑑』から引用したが、山田を名乗ったという有重から。戦国後期の有信に至るまでの世代が多すぎるような。可能性として、兄弟・一族間の相続があったのだろうか?


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