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川上氏
石持ちに十字
(島津氏庶流)


 島津貞久の子川上大夫判官頼久に始まる。頼久は建武三年(1335)、薩摩の軍勢を率いて新田義貞の拠る越前敦賀城を攻め、文和元年(1352)に薩摩国加世田別府半分地頭職を与えられている。
 五代兼久は薩摩国日置郡伊集院の地頭となった。十代昌久は、天文四年(1535)島津勝久の行跡を諌め、自殺している。その孫久貞は同国薩摩郡中郷地頭、その子久運は頴娃郡頴娃郷・大隅国肝属郡高山郷・日向国諸県郡飯野郷・薩摩国高城郡高城郷の地頭となった。
 久運の子久尚は、延宝三(1675)年大隅国肝属郡百引郷地頭、宝永二年(1705)には日向国諸県郡吉田郷地頭となった。あとを継いだ久東も同六年同郷地頭、同七年に寺社奉行となった。
 庶流の川上久朗は、忠良に仕えて永禄五年(1562)より家老を務める。久朗は、日新斎忠良より島津家に無くてはならない武者といわれ、看経所に名をとどめられた四人のうちの一人であった。その時まだ十八歳だったという。島津家の領内統一戦に従って転戦し、功をあげるが、永禄十一年(1568)に堂ヶ崎における菱刈軍との戦いで、島津義弘を守って戦死した。
 堂ヶ崎の戦いでは、菱刈方の勢は四、五千に対し、島津義弘勢は三百余りであった。義弘はこの寡勢でもって敵方に当たろうとしたため、久朗は懸命に諌めた。しかし、血気にはやる義弘はこれを聞かず出陣する。結果義弘は惨澹たる敗北を喫することになるが、久朗は諫言を容れなかった義弘のために一命を投げ出して闘い、義弘は九死に一生を得たのである。
 また、義久の家老を務めた忠智の子忠堅は、天正十二年(1586)島津氏と龍造寺氏が戦った沖田畷の合戦において、竜造寺隆信を討ち取った事で名を残している。忠堅は、天正十四年(1586)鷹取攻めで戦死している。

●島津氏の家紋─考察



■参考略系図



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