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入来院氏
●丸に十字
●桓武平氏秩父党
『薩陽武鑑』の入来院氏の項に拠ったが、同書には「菊花」「亀甲に蛇の目」と見える家紋も記されている。一方、『入来院氏系図』には「旗・幕紋寄生」とあるが実形不詳、「寄生」は寄生木のことで「寓生」とも書かれる。薩陽武鑑の「菊花」様のものがそれであろうか。
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入来院氏は桓武平氏秩父党の一派である渋谷氏の一族である。渋谷氏は秩父重綱の弟基家が武蔵国橘樹郡河崎に住んで河崎冠者と称し、相模国高座郡渋谷庄を与えられ、その孫重国のとき渋谷庄司を称したのに始まる。重国は石橋山の合戦では、頼朝征伐軍のなかにあったがのちに服属し御家人となった。重国の二男高重は、和田合戦で義盛方について戦死したが、長男光重は渋谷上庄、美作河合郷などを相伝した。
渋谷光重は鎌倉幕府に仕え、宝治元年(1247)の「三浦氏の乱」における恩賞として、北薩摩の祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城の地頭職を得た。光重は長男重直を本領の相模国にとどめ、次男実重・三男重保・四男重茂・五男定心・六男重貞の五人の兄弟を祁答院地方に下し、それぞれ祁答院・入来院・東郷・高城・鶴田五カ郷を分領させたのであった。
それによって、五男定心が薩摩国入来院の地頭職を継承し、入来院氏の祖となった。当時の入来院には塔之原の実力者である伴信俊が勢力を持っていたが、定心は地頭職の権力をもって伴氏を服属させ、嫡男明重に入来院地頭職を継承させた。そして、次男重経には相模国渋谷庄寺尾郷を、末子の範幹には倉野郷を分与したことが知られる。明重の嫡子公重は「元寇の役」に際して北九州に出陣、戦後、その功績によって筑前国に恩賞地を与えられている。
薩摩の有力者に成長
公重の孫重勝・曾孫重門のとき南北朝の争乱に遭遇した。入来院氏は秩父党の東郷氏・高城氏・祁答院氏らとともに南朝方に味方し、文中元年(1372)、北朝方の島津師久の属城で山田忠房が守る高江の嶺ヶ城を攻撃した。秩父党は嶺ヶ城を攻略したものの、この戦いで重門は戦死した。
重門の戦死に対して征西将軍宮は、嫡男の重頼に感状を賜った。重門戦死ののちは、嫡男の重頼が家督を継いで島津氏と対立した。さらに、島津氏が北朝方の九州探題である今川了俊と衝突するや、重頼は了俊の招きに応じて武家方に転じた。
天授元年(1375)、了俊が菊池武朝と戦ったとき、八代堺に出陣して菊池方と戦い、了俊から軍忠状を授けられ、翌年には掃部允に推挙されている。ついで、至徳元年(1384)肥後の二見に出陣して今川氏とともに宮方と戦い、翌年には佐敷に出動して水俣城救援に軍功をたてた。このように、重頼は南北朝の争乱が終わるまで奮戦を続け、南北朝合一後も島津氏と戦いを繰り返した。今川了俊は重頼に四十六通もの書状を送っており、了俊がもっとも重頼を頼みにしていたこを示すとともに、当時における入来院渋谷氏の強大さをうかがわせる。
南北朝合一がなったのちの応永二年(1395)、今川了俊が鎮西探題職を解かれ帰京した。結果、南九州の諸豪族は指導者を失うかたちとなり、守護島津氏の命にも服さず、互いに抗争を繰り返す混乱状態となった。いわゆる「国一揆」の蜂起が続き、渋谷一族のなかでは入来院氏がもっとも有力で、一所懸命の努力をはらって島津氏との抗争をつづけた。
●入来院周辺古地図(入来町史から転載)
島津氏の分裂、抗争
ところで、渋谷一族のうち鶴田氏は島津元久(奥州家)に味方したため、他の渋谷一族は「山北(渋谷)四族」と称して協力しあい島津に対抗した。応永二年、元久は鶴田氏の応援を得て渋谷氏征伐の軍を発したが、渋谷一族は菱刈・牛屎氏の応援を得て元久軍と戦いこれを撃退した。しかし、この年渋谷一族が頼みとする今川了俊がが失脚したため、翌三年、島津軍の攻勢にあって前田・市比野の諸城を奪われた。さらに、翌四年には元久に総州家の伊久が味方して、入来院氏の本城である清敷(色)城が包囲攻撃された。島津の大軍の攻撃は強烈で、ついに重頼は和を請い、城を開いて逃れ去った。
入来院氏が清色城を失ってのち、守護島津氏は総州家伊久と奥州家元久が不和となり、ついには敵対するようになった。このとき、渋谷四族は伊久に応じ、鶴田氏のみが元久に属した。伊久は居城を失った重頼に谷山郡、結黎院の半分を与え、応永八年、渋谷四族とともに元久方の鶴田氏を攻撃した。元久はただちに援軍を出し、両軍、激戦となったが、肥後の相良氏、大口の牛屎氏らの援軍を得た伊久方の勝利となった。鶴田氏は菱刈に走り、鶴田氏は没落した。戦後、伊久は鶴田を重頼に与えた。
ところが、応永十一年、将軍足利義満は日向・大隅の守護職を元久に与え、さらに十六年、元久は薩摩守護も獲得した。ここに、奥州家が幕府からも島津宗家として認められる存在となったのである。
応永十八年(1410)、元久は総州家と渋谷四族を討つため出陣、清敷に駐屯し、伊久の孫久世の拠る碇山城を攻撃した。しかし、攻撃中に元久が病を発したため、守護方は兵をおさめて鹿児島に帰っていった。元久は間もなく死去したため、入来院重頼・重長父子は清敷の地を回復することができた。
重長も総州家に協力していたが、応永二十五年、市来家親と結んで伊久の子忠朝の拠る永利城を攻撃した。ところが、重長らは敗れて奥州家久豊に応援を求めた。久豊は元久の弟で、重長の要請を一旦蹴ったが、重長は誓書を献じてなおも援軍を求めたため、久豊は援軍を出し永利城を落すとこれを重長に与えた。これに感激した重長は、ついに鉾を収めて島津本宗家に帰順したのであった。
打ち続く混乱
島津久豊は傑出した人物で、乱れていた島津一族を統一し、抵抗を続けていた渋谷高城氏を征圧した。かくして、島津氏は久豊によって守護領国制を築きあげることができた。しかし、久豊が没して嫡男の忠国が家督を継ぐと、ふたたび三州は国一揆が頻発するようになった。重長の子重茂は忠国に協力して活躍し、羽島六町を与えられたが、早世したため、嘉吉元年(1441)重豊が家督を継承した。
まもなく、島津忠国は守護代としていた弟用久と対立するようになり、島津氏はまたもや内紛が生じた。これに三州の諸豪がおもいおもいに加担したため、いっそう混乱状態は募っていった。幕府は守護忠国を援け、重長に用久の与党市来氏を討たせた。その後、忠国と用久は和睦したが、こんどは、忠国と嫡子の立久が不和となり、立久が島津氏の家督となった。重豊は立久に協力し、立久から永利・山田城などを与えられている。
やがて、京都を中心として「応仁の乱(1467)」が起ると、世の中は戦国乱世へと推移していった。島津氏は入来院氏との関係を重視して、立久のあとを継いだ武久(忠昌)は重豊・重聡父子を誓書を交わし、重豊父子もこれに誓書を返していいる。しかし、そのような誓書は乱世にあって儚い約束に過ぎず、入来院氏と島津氏の関係も対立関係へと変化していった。
文明十六年(1484)、日向の伊東祐国が島津氏に叛すると渋谷一族はこれに応じ、重豊は祁答院渋谷重度とともに島津氏に叛旗をひるがえした。このとき、重豊・重度らは帖佐の島津忠廉を味方にしようとしたが、忠廉は和平策を講じようとしていたため、情勢の非を感じた重度は忠昌に降った。ところが、忠昌は忠廉を疑い、ついに忠廉も反した。重豊は東郷重理とともに忠昌に降った重度を攻めたが、攻略には至らなかった。ほどなく、忠廉と忠昌が和睦したため重豊・重理らも忠廉とともに忠昌に帰順した。
このように守護島津氏は、一族、国人らの反抗に手を焼き、ついに忠昌は国内を治めることができない憤りが嵩じて自殺を遂げてしまった。忠昌のあとは嫡男の忠治が継ぎ、重聡はよく若い忠治を援助した。忠治も重聡を信頼し、永正七年(1510)には隅之城を与えて入来院氏に報いている。しかし、忠治は二十六歳で死去し、そのあとを継いだ弟忠隆も二十一歳で死去し、末弟忠兼(のち勝久)が十七歳で守護職を継いだ。相次ぐ当主の交代によって島津宗家はいよいよ衰退し、一族間の内紛、諸豪族の擾乱はいっそう熾烈をきわめていった。
戦乱のなかの入来院氏
領内の混乱を収拾するため勝久は姉婿の薩州家島津実久を頼んだが、実久は島津宗家の家督を望むようになり、勝久と実久とは対立関係となった。実久は自己勢力の拡大につとめ、渋谷一族の領地を侵略するようになったため、重聡は川内地方で実久の軍と戦いを繰り返した。その後、勝久は伊作島津忠良に国政を託し、その子貴久を養子に迎えた。そのため、実久はいよいよ勝久への対抗姿勢を強め、ついには鹿児島を攻撃するに至った。
こうして、島津氏の内紛は実久と宗家を継いだ貴久とその後楯である忠良との戦いへと転じていった。実久と抗争を続ける入来院重聡は忠良方に味方したが、北薩の東郷・祁答院・菱刈氏、南薩の川上・新納・平田・頴娃氏、大隅の肝付・禰寝氏、日向の伊東氏らは実久方かもしくは中立という状態であった。このような情勢において入来院氏が貴久・忠良に加担したことは、その後、明治維新に至るまで領土を保全することにつながったのである。
天文四年(1535)、勝久は実久に鹿児島を落され、帖佐の祁答院氏を頼って逃れ、ついには天文十三年ごろ豊後の大友を頼り、名実ともに消滅してしまった。一方、貴久は実久と対立姿勢を変えず、天文六年、重聡は貴久を援けて伊集院の竹山城を攻略し、同八年には市来の平城を攻め落とした。重聡の子重朝は市来城攻撃に出陣して、実久の弟忠辰を殺害し、城将新納忠苗を降した。さらに川内地方を攻略し、隈之城・平佐・宮里・宮崎などを奪取した。一方で、重聡は娘を貴久の室に入れ、のちに島津氏の勢力を飛躍させる、義久・義弘・歳久の三兄弟は重聡の娘から生まれることになる。
天文十四年、貴久は守護職を継承し、父忠良の補佐によって三州統一に邁進した。その間、入来院氏は島津氏の重要な戦力として各地の合戦に出陣して活躍、重聡のあとを継いだ重朝の時代になると川内地方に勢力を広げ、莫禰・串木野・姶良から錦江湾に到る広大な所領を手に入れた。しかし、重朝は次第に驕傲なふるまいを見せるようになり、貴久にしても入来院氏の勢力拡大をおそれ郡山城を召し上げてしまった。これを恨んだ重朝は、加治木城主肝付兼演、帖佐の祁答院良重、蒲生氏らと結んで、ふたたび島津氏と対立するようになる。
天文十八年、加治木城が陥落し肝付氏、渋谷一族らは島津氏に降伏した。とかろが同二十三年、重朝、祁答院良重、蒲生範清らはふたたび島津氏に叛き、岩剣城の戦い、蒲生城の戦いが展開され、弘治三年(1557)蒲生氏は島津氏に屈服し、渋谷一族もそれぞれ領地に退いていった。
戦国時代の終焉
こうして、薩摩・大隅は貴久によって征服されていったが、重朝のあとを継いだ重嗣は北薩摩の大勢力として独自の行動をとることが多かった。しかし、同じ秩父党の一族である祁答院氏が没落し、鶴田・高城氏らも島津氏に降ると、鎌倉以来の渋谷党は入来院と東郷の二氏だけとなってしまった。
入来院重嗣は東郷氏と連合して島津氏と対峙を続けたが、永禄十二年(1569)、重嗣は東郷重尚とともに島津貴久に降伏するに至った。結果、所領を島津氏に献上することになり、入来院の清敷のみを安堵されたのである。重嗣の子重豊も島津義久に所領を献上していることから、入来院氏は島津氏に対して懸命に疑惑を晴らそうと努めていたことがうかがわれる。
天正四年(1576)、重豊は島津義久の日向平定に従軍して高原城攻めに参加し、ついで日向の諸城攻めに活躍した。その後も、肥後征服戦、相良氏の拠る水俣城攻めに従軍して、天正十一年に死去した。重豊は男子がなかったため、島津以久(征久)の子重時が養子として入り家督を継いだ。
島津氏は天正十年より北九州征圧に乗り出し、同十三年、龍造寺隆信を討って肥前を征圧し、同十四年には豊後征伐を決し、翌十五年、豊後に攻め入った。一方、大友氏から応援を求められた豊臣秀吉が九州征伐に乗り出し、島津氏は豊臣軍と各地で戦ったが敗戦、ついに軍を鹿児島に撤収した。豊臣軍の薩摩進攻に対して、祁答院の島津歳久、大口の新納忠元、そして、清敷の入来院重時らが抗戦したが、結局敗れて、島津氏は秀吉に降伏した。かくして、島津氏は薩摩・大隅・日向の一部を安堵され豊臣大名の一員となった。文禄の役が起ると、入来院氏にも出陣命令が下され、病臥中の重時に代わって一族の入来院重興が出征している。
文禄四年(1595)、島津氏領内では旧豪族たちの所領替えが実施され、入来院氏は入来郷から大隅国湯之尾郷に移封となり、鎌倉以来、代々領してきた入来院の地から離れていったのである。そして、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際して、重豊は島津義弘に従って出陣した。戦いは西軍の敗北となり、史上有名な島津軍の撤収作戦が展開された。重豊は乱戦のなかで義弘らとはぐれ、近江の水口・瀬田あたりまで逃れてきたところで敵と遭遇、奮戦のすえに家来とともに戦死した。
重時のあとは、島津義虎の子重高が継ぎ、重高の代に名字の地である入来郷の地頭職を命じられて入来郷に復帰、以後、五千石を領する大身として明治維新に至った。ところで、鎌倉時代から明治維新までの約六百二十年間、薩摩の地に連綿した入来院家とのその分家の諸家に伝えられた家文書は『入来文書』と名付けられ、東洋における封建制度研究上、貴重な文献となっている。・2004年12月14日
【家紋:八つ割り寄生紋=『入来院氏系図』に「旗・幕紋寄生」とあるものを、いまに伝わる寄生紋の中から想定。】
【参考資料:入来町史/祁答院町史/三州諸家史(氏の研究)など】
■入来院家文書
■渋谷氏の情報にリンク
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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そのすべての家紋画像をご覧ください!
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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