薩摩八木氏
揚羽蝶*(桓武平氏頼盛流)
*家紋不詳。伊勢流平氏の代表紋として掲載。 |
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薩摩八木氏は桓武平氏平清盛の弟頼盛の後裔である。
平頼盛は清盛の異母弟であったが、源頼朝が平家を滅ぼした際にも、その子光盛とともに頼朝に庇護を受けて滅亡を逃れたばかりか、旧領および官位を復されて優遇された。それは平治の乱に頼朝の父義朝が敗れたとき、頼盛の母池ノ禅尼が清盛に乞うて、頼朝の一命を救った、その恩義に頼朝が報いたためだ。
光盛は、元久四年(1194)頼朝の下文によって但馬国八木郷を知行とされ、同地に下向した。そして知行地にちなんで八木を名字とした。光盛の長子盛定は但馬守、伊予守を称し、のち八木入道と号したが、土佐国波多之荘に下向、さらに日向清武に下向した。盛定あhその娘に山名二郎重村の次男安芸守盛重を迎えて婿養子とした。盛重は建長四年(1252)薩摩に下向し、伊作堀之内村、谷山中園村、西別府などを知行した。
南北朝期の正平十二年(1377)、盛継は南朝方の楡井頼仲の討伐に功があった。その子盛近は西制将軍宮に従って、天授三年(1377)九州探題今川了俊の麾下と戦って功をあげ、日向において四ケ所を賜った。
その後の八木氏は島津に従い忠勤を励み、信貞の代に至って島津勝久の没落にあたり、信貞は寝禰に浪居の憂き目をみることになった。のち貴久によって鹿児島に知行地を受けることとなった。信貞は永禄十年から十二年の菱刈合戦において、抜群の功を樹て、天正元年には義久の命により一子正信とともに寝禰に渡り、久しく島津氏に対抗していた寝禰重長を説得して、和平の目的を達し、大隅安定に力を果たした。
天正六年の大友氏侵攻に際しては、日向高城において大友軍を破り、また土持弾正を味方に引き入れるなどの功があった。同十四年の島津氏の豊後攻めに当たっては、自ら島津軍の先手の将として豊後に攻め入っている。その翌年、秀吉の島津征伐に当たっては、豊後戸次川の合戦において、長宗我部信親を討ち取る殊勲をたてた。
島津義久は正信の軍功を賞して越後守の名を与えたが、秀吉の軍門に降るに際してもまた、剃髪した正信に対して嘉笠の号を与えている。また正信は真幸吉田の地頭職をつとめ、筆道、蹴鞠の達人でもあった。正信の長子豊信もまた能書家で、島津家久の右筆となった。慶長四年から六年にかけての庄内の乱にも戦功をたて、のちに大坂御鞍奉行を務めた。
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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