藤原秀郷の後裔の首藤資清の子通清は、源為義に仕えて、駿河国磐田郡御厨村に住した。その子正清は平治の合戦に敗れて東国に落ちる源義朝に従い、尾張国の住人長田忠致の手で義朝が殺されたとき、一緒に殺された。光政は源義経に属して、平家との屋島の合戦で戦死した。 光政の子政佐は文治二年島津忠久に従って、薩摩に移住した。そのとき弟の政重も薩摩に移り住んだ。 戦国時代、尾張守政年は、島津忠国の三男伊久逸の家老をつとめ、文明十七年の日向櫛間牟田迫の合戦で、久逸を守って戦死。その子政盛はその賞として伊作荘永谷名を与えられた。 政盛の子筑前守政心は、薩摩郡百次郷、曽於郡財部郷の地頭となり、天正十四年の筑紫城攻めのときに戦死した。政心のあとは一族の鎌田政広の子政良が継いだが、病弱だったため、鎌田図書頭政勝の子政近が継いだ。 鎌田政近は、島津家久・忠恒に仕え慶長七年(1602)山城伏見城で徳川家康に引見され、本多正信・山口直友をして、島津義久及び忠恒への家康からの誓紙を受け取っている。以後代々島津氏に重臣として仕えた。 ■参考略系図 |