寛仁三年(1019)の「刀伊の乱」に活躍した武士に平為賢が知られる。この為賢の一族に九州総追捕使を務めた伊佐平次がいて、その子孫から川辺氏・給黎氏・薩摩氏・別府氏・揖宿氏・知覧氏・阿多氏など、伊佐平氏と呼ばれる一族が派生した。頴娃氏もその一つで、建久八年(1197)頴娃郡荘園五十七町歩の下司として頴娃平太が見える。この頴娃氏は戦国時代の伴姓頴娃氏と区別して、平姓頴娃氏と呼ばれる。 平姓頴娃氏は頴娃古城を拠点として室町時代に至ったが、応永二十五年(1418)、島津元久と戦い敗れて滅亡し、頴娃地方は島津久豊の領する所となった。その後、元久が死去したため、久豊が島津氏の家督を継承すると、久豊の養子の肝付兼政(忠重)が頴娃地方の領主となった。これが伴姓頴娃氏の始まりである。 ■平姓頴娃氏─参考略系図 |
伴姓頴娃氏の勢力伸張
頴娃地方に入部した頴娃氏は、新たに頴娃城を築いて本拠とし、文明年間(1469〜1486)に菩提寺大通寺を建立した。頴娃城は、別名獅子城または野首城ともいわれる。海外にはじめて紹介された城としても知られ、現在も当時の城壁や空堀・土塁などの跡が残っており、戦国時代末期の山城の構造を知る上で貴重な資料となっている。また、大通寺跡には、四代兼洪夫妻、五代兼友、六代兼堅側室、七代久虎の墓塔群五基が静かに佇んでいる。 三代兼心は、島津氏に属して文明八年(1476)、祢寝重清・肝付兼忠・蒲生宣清らとともに、島津久継のよる指宿城を攻め、これを攻略している。また、兼心は男子がなかったため、島津忠昌の三男忠兼を養子に迎えた。その後、忠兼は島津氏を継いだため、代わって本家肝付氏から兼洪が迎えられた。兼洪の時代はまさに戦国の世であり、頴娃氏の周辺も平穏ではなかった。兼洪は指宿城攻め、島津忠良らとの抗争に明け暮れた。 指宿地方は応永二十七年(1420)に兼政が領有して以来、島津氏、知覧氏、祢寝氏、肝付氏らの間で争奪戦が繰り返された要地であった。兼洪は大永五年(1525)、執事の津曲若狭守に命じて指宿城を攻撃させ、これを落すと津曲を地頭に命じて守らせた。一方、島津氏は島津勝久(忠兼)と島津貴久とが対立しており、兼洪は義兄にあたる勝久に加担していた。 享禄四年(1531)、貴久の実父である忠良(日新斎)が、兼洪に出府を命じてきたが、兼洪はこれに応じなかった。その結果、島津氏は頴娃攻めを開始して、頴娃城は落城寸前に追い込まれた。この頴娃氏の危機に際して、執事の津曲道三(若狭守)は兼洪を説いて、兼洪の嫡子稲千代を抱いて島津の陣に出向いて和議を申し入れた。島津氏もこれを入れたため、両者、誓約書を出して和議が成立、頴娃氏は危機を回避することができた。以後、頴娃氏は島津貴久派につき、天文二年(1533)兼洪は貴久から指宿の地頭に任命され、勝久派の田代民部介を追放した。 天文七年、兼洪は三十三歳の若さで死去し、嫡男兼友が十歳で家督を継いだ。しかし、兼友も二十歳で早世したため、弟の兼堅があとを継いで頴娃氏の当主となった。 島津氏の重鎮に成長 兼堅は信仰心があつく、天文十八年(1549)指宿野神社、同二十一年新宮掖宮、同二十三年開聞神社西宮、永禄元年(1558)には指宿御崎権現社などの修理を行っている。一方、島津氏との関係にも心を配り、天文二十三年島津貴久から盟書を送られ、弘治三年(1557)にも貴久から書状を送られ、兼堅はは島津氏との関係を強化している。こうして、島津氏との友好関係を進めることで、頴娃氏の地位は安定し、兼堅の代に伴姓頴娃氏は最盛期を現出した。 頴娃氏は執事津曲若若狭守を筆頭に、頴娃左近将監・鮫島因幡守・竹内伊豆守らの家老がいて、領内もよく統治された。そして、頴娃・指宿両郡の地頭として、兼堅の所領はおよそ四万七千余石といわれた。頴娃氏は、立派に大名並みの勢力に成長したのである。 兼堅のあとを継いだのが、勇将として知られる頴娃久虎である。 久虎の最初の武功は、天正四年(1576)に島津義久が日向の伊東義祐を三之山に攻めたとき、義久の手勢に属して伊東氏を敗ったときの戦いであった。以後、島津義久・義弘らの九州統一戦に参加し、耳川合戦・水俣攻め・肥後千々輪城攻め・島原合戦・日向合戦などの合戦において活躍した。さらに、天正十二年には義久の談合衆を務め、義弘をして「豊肥戦はすべて久虎によった」と言わしめた挿話は有名である。 一方、居城である頴娃城に三層五階の天守閣を造営、さらに、指宿新宮の東宮の修築、開聞神社の造営など、領主としての力も誇示した。ところが、天正十五年(1587)、二十五歳の若さで事故死してしまった。そのあとは、わずか五歳の嫡男久音が継いだ。翌十六年には、島津義弘から盟書を与えられ頴娃の領有を認められた。 挫折、そして近世へ ところが、同年十一月、久音は頴娃・指宿・山川の本領を没収されて、谷山郷山田に移封されてしまった。頴娃・指宿三万石余に対して、谷山郷山田は三百石で、実に百分の一に減封という厳しいものであった。その理由は、島津氏が秀吉の九州征伐に敗れて、領地不足をきたしたこと。あるいは、久虎の代に伊集院忠棟との確執があって、久虎が急死したのち忠棟が頴娃氏を讒言したためなどといわれる。いずれにしろ、改易に近い処分を受けたことで、伴姓頴娃氏の頴娃・山川・指宿の支配は八代をもって終ったのである。 文禄二年(1593)、久音は日置郡満家院西俣村に七百五十石を与えられたが、代々の家臣も従っていた頴娃氏の財政はかなり苦しかった。そして、慶長二年(1597)、久音は島津義弘に従って朝鮮に出陣した。このとき、久音は義弘から「つつがなく帰国できれば、本領を復し、公姫をもって配すべし」と約束された。 慶長三年十月、島津軍は泗川の戦いにおいて、明軍二十万を撃退し、三万八千人を討ち取る大勝利をえた。久音もこの戦いに活躍したが、戦いから一週間後に戦病死してしまった。かくして、久音は本領回復もならず、異郷の地で、十六歳を一期として死去してしまった。久音には男子がなかったため、伴姓頴娃氏の血脈は断絶した。久音のあとは、島津義虎の五男久秀が入嗣して頴娃氏の家督となり、子孫は島津藩士として近世に続いた。・2004年12月7日 【参考文献:頴娃町郷土誌/三州諸家史・薩州満家院史 など】 ■参考略系図 |