薩摩平田氏
丸に上り二つ引両*
(桓武平氏宗盛流)
*宝暦の治水の指揮を執った家老平田靫負の家紋でもある。 |
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桓武天皇の十三代内大臣宗盛の三男宗正の子大炊介信宗の後裔、新左衛門親宗入道玄親に始まる。親宗は島津氏久に仕えた。孫の重宗は島津久豊に仕え、以来代々大隅国肝属郡串良を領して岩弘に住した。氏宗は島津忠国の家老、兼宗は島津立久の家老を務めた。昌宗の代に島津勝久が没落して大隅国曽於郡末吉の平田出羽守宗仍を頼んで末吉に住んだ。
天文末年に島津貴久に召し出されて家老を務め、大隅国始羅郡帖佐郷の地頭となった。光宗は、庶流平田備中守の二男に生まれ、嫡流を継いだ。天正元年(1573)早崎営をまもり、同六年石城攻め、同十一年堅志田攻め、同十二年島原合戦などに戦功を挙げる。天正五年より十五年まで、島津貴久・義久の家老を務め、下郡山に住み、帖佐・肥後国八代の地頭となった。
子の歳宗は、天正年中より義久・義弘の老中、慶長三年の慶長の役にて病没。その子増宗は島津義久の家老を務めたが不臣として誅されて、平田氏嫡流は増宗の代で断絶した。
島津氏家中には庶流平田氏が多く仕えていた。
二代重宗の次男宗保から分かれた平田氏は、天正十六年、豊前守宗祇のとき島津義久の上洛に従い、同十八年ころ薩摩国指宿郡揖宿郷の地頭となった。子の宗正は慶長四年戦死している。
三代氏宗の次男宗勝に始まる平田氏は、出羽守宗仍が日向国末吉郷の地頭となり、永禄元年豊州島津家の家臣を引き連れて常吉宮ケ原の合戦に参陣し、子の新左衛門宗徳とともに戦死した。宗徳の子宗応は、のちに鹿児島に住み、関ヶ原の戦で戦死した。この流れから、宝暦の木曽川治水工事の総奉行を務めた平田靫負正輔が出た。正輔は、宝暦の治水工事の完成後、工事費の超過や多くの犠牲者を出したことの責任をとって自刃した。正輔を始め工事に従事した薩摩武士は、「薩摩義士」として今も尊敬されている。
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薩摩平田氏には、桓武平氏高棟流の家があり、薩摩国谷山郷山田村の平田から興る。高棟の子孫良西が薩摩国に下向し、薩摩国始羅郡帖佐郷の地頭となり、その子信宗が帖佐から平田に移って平田氏を称した。その子孫にあたる重宗は島津元久・久豊の国老を務めた
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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