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町田氏
町田十文字
(島津氏庶流)


 島津氏第二代忠時には八男があった。家督は次男の久経が襲いだ。長男忠継は側室の出生で谷山の内の山田に居住して山田を名乗った。三男高久は信濃守護代に、六男久時は伊賀国長田郷を領して阿蘇谷を称した。七男は忠経で常陸守と称した。忠経の三男が忠光で町田氏の祖となり、庶族に阿多氏が出た。忠光の弟俊忠の子久兼から伊集院氏が出ている。
 梅久・忠栄の時代は三州動乱の時代で、梅久は戦死している。永禄十年(1567)、島津義久が父貴久の後を継いだ。そのとき、国老の一人として町田出羽守忠信が名を列ねている。また忠信は『肥後水俣陣立日記』によれば、直之地頭のひとりとして、薩摩国伊集院地頭であったことが知られる。
 忠栄は、島津本宗家と家督を争った島津実久を打ち倒し、貴久から伊集院上神殿(伊重院町)に八三〇石を加増され、島津家の家老となった。その孫が有名な町田久倍である。久倍も天正八年(1580)、家老となり、菱刈討伐には軍奉行として軍功をあげている。
  天正十二年(1584)、島津氏の肥後国の平定が勧められ、隈部親泰を下し、龍造寺政家が降和し、翌年義久は弟義弘を守護代とした。義弘は、阿蘇惟光を降し肥後国平定を完成した。義弘はつづいて、筑後国堀切城・山門郡蒲池を攻略し、大友氏攻撃を望んだ。
 天正十四年一月、義久は肥後口・日向口両方から豊後討ち入りをすべきか、あるいは日向口へ諸軍を合して討ち入るべきかについて神慮を伺った。結果、両口より攻撃することに決まった。そして、日向口には義久が本田・平田・上井の諸将を率いて進発、肥後口からは義弘が伊集院・町田出羽守らを率いて進発することとなった。しかし、ここにいたって、義久に迷いが出、豊後へ打ち入ったのは十月になってからであった。そして十二月には豊後国府内を占領し、大友義統を豊前へ追い、豊後国を平定した。
 しかし、翌年三月には秀吉が大坂を発向、島津軍は日向へ退却、四月には日向白根坂に羽柴秀長軍と戦って敗れ、義久は秀吉に降ったのであった。
 久倍は、島津歳久切腹の際に、歳久一行の襲撃を命令された。 関ヶ原の戦い直前に情報収集中の播磨で客死した。
 町田氏は樺山家・新納家と並んで島津氏の三大権門の一家として、島津氏に仕えそれぞれの時代において重要な役割を果たした。江戸時代初期、島津家久のとき町田久幸が、光久の代には町田久則が家老として名を連ねている。

●島津氏の家紋─考察



■参考略系図


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