上井氏
梶の葉*
(清和源氏満快流諏訪部氏) |
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上井氏は諏訪氏の後裔を称し、薩蜜日置郡永吉地頭であった。諏訪為秋は大隈国上井を領していたが、天文十七年(1548)島津家に降り、薩摩吉永地頭に命ぜられた。以後、島津氏に仕えるようになり、姓を諏訪から上井に改めた。為秋の子薫兼は、辺田七人衆の一人であった。
天正元年(1573)薫兼は、家督を嫡子覚兼に譲った。この覚兼が「上井覚兼日記」を記したことで知られる上井覚兼その人である。
覚兼は、永禄二年(1559)頃、元服して島津貴久に仕え、永禄四年、17歳の夏に初陣して以降、功績を重ねた。父から永吉郷の地頭職を譲け、天正元年(1573)29歳にして島津義久の奏者となり、鹿児島へ移った。よく義久に仕え、天正四年には老中に抜擢された。以後も、日向高城、牛根など各地を転戦し功を重ねた。
天正八年(1580)には大友氏から攻めとった日向宮崎地頭に任ぜられ、 島津家久を助けて日向の大将をつとめ日向の経営にあたった。宮崎にあって、島津家中における一領主であると同時に義久の家臣でもあった。そして、年に数回鹿児島の談合に参加した。
軍事面においても、義久の九州制覇の為に東奔西走し、「寔軍陣軍旅戦場常在也」という有様であった。日向勢を率いて天正九年(1581)から天正年十三(1585)にかけて四度肥後へ出陣している。しかし、天正十三・十四年には出陣を遅延し義久に咎められたこともあったが、それは理由があってのことであり、覚兼は義久に対して奉公熱心な家臣であった。
天正十四年(1586)七月二十七日には、大友氏の武将高橋紹運の守る筑前岩屋城に対する島津勢の総攻撃のとき、石打と鉄放とに当たって負傷した。同年十月十五日、家久と共に大友氏の本国である豊後に攻め入り各地を転戦した。
しかし、翌十五年 (1587)豊臣秀吉の下向により兵を収めて宮崎に撤退。やがて羽柴秀長に降伏し鹿児島に帰り、ほどなく伊集院に隠居した。このとき、義久より永年の労に対しての書を賜った。これが島津氏に尽くして各地に転戦しながら、ついには隠居を余儀なくされた覚兼にとっての慰めであったろう。その後、覚兼は表舞台に立つことはなく、失意のまま天正十七年六月十二日、伊集院の地において他界した。享年四十五歳であった。
島津家には、新納忠元をはじめ、教養の高い人物が多いが、覚兼も優れた教養人であった。覚兼が書き残した 「上井覚兼日記」は有名である。これには軍事や政治などの記述のほかに和歌や詩歌についても記述されており、 文武両道であった覚兼の人柄をしのばせるとともに、当時の薩摩の武将たちの生活を知ることが出来る貴重な資料でもある。また、随筆として「伊勢守心得書」も残している。
ところで、覚兼の弟秀秋も器量人であった。小林・馬関田・綾の地頭を務め、義弘に従って飯野城へ入り、日向伊東氏との木崎原の合戦で活躍した。天正十年、義弘飯野城時代の家老となった。子の里兼も家老職を継いだ。
■参考略系図
・『薩陽武鑑』掲載の系図に、諏訪氏系図を加味して作成。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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