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戦国山城を歩く
若狭の有力国人─本郷氏が拠った達城
若狭本郷駅の東南に達峰と称される南北に長い丘陵地がある。その達峰のほぼ中央に位置するピークに
主郭を置き、北尾根、南尾根に曲輪を配した城址が達城だ
。西遷御家人として若狭に移住してきた本郷氏が、戦国時代に築いた大飯町最大の山城だ。
若狭本郷氏は鎌倉御家人源美作蔵人朝親が承久の乱の功によって大飯郡本郷の新補地頭に
任じられ、同地に下向したもので村上源氏の流れを称している。朝親は本郷駅の西方にある大旗山の北端部に城を築き、
日枝神社の南側に平時の館を築き若狭に根を下した。南北朝時代を過ぎ、戦国時代もたけなわとなった
天文年間(1532〜54)に達城を築いたようで、以後、次第に拡張整備を行なっていったようだ。
遺構の総延長は南北470メートル、最大幅150メートルを測っている。最北端部には妙見さんが
祀られ、その先の絶壁下には丹後街道が通り、さらにその北方には若狭湾が広がっている。周囲は急峻な斜面で、
西方を流れる佐分利川が天然の濠となった要害である。
東北山麓の浄眼寺の後方に館址であろう平坦地があり、その北辺より城址に続く山道が上っている。
・岡田集落より達城址を遠望する (最高所が主郭)
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妙見さん登山道傍らの曲輪 ・ 妙見さんから城址に続く土橋と堀切 ・ 堀切を見下ろす ・ 曲輪と土塁 ・ 見事な切岸 ・ 段状の曲輪
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北曲輪群の主郭へ ・ 帯曲輪を見下ろす ・ 城址に建立された供養碑 ・ 堀切状の道を登る ・ 虎口状の地形 ・ 曲輪と切岸
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曲輪の保存状態は良好 ・ 登山道と帯曲輪 ・ 段状の地形は曲輪か? ・ 山腹から若狭の海を遠望 ・ 山上主郭への道 ・ 山上主郭の虎口
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城址は大きく二区画に分けられ北尾根の先端より階段状に曲輪が築かれ、
妙見さんの後方に尾根を遮断する二重の堀切、さらに畝掘や竪堀が設けられている。最高所主郭部はきれいに
整備されて、忠魂碑が建ち、三角点が設けられている。主郭の北方と南方にも数段の曲輪が設けられ、要所に竪堀が
落とされ、西尾根は堀切で遮断されている。決して大きな城ではないが、二重堀切をはじめ見どころは多い
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山上主郭東方の崖 ・ 忠魂費の建つ山上主郭(本丸) ・ 西尾根に続く曲輪 ・ 切岸と曲輪 ・ 尾根を穿つ堀切 ・ 土橋と堀切
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切岸越しに曲輪を見る ・ 主郭西の竪堀 ・ 主郭西の帯曲輪 ・ 北腰曲輪から主郭を見上げる ・ 北曲輪の竪堀を見上げる ・ 北曲輪東山麓の居館址?
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……………
中世の若狭といえば、一色氏、ついで武田氏が守護職に補任されて戦国時代に至った。若狭本郷氏はかれらの興亡を
横目にみながら、国人領主の一人として、室町幕府奉公衆の一員としてよく勢力を保った。しかし、戦国時代になると
武田氏被官武藤氏との間で抗争が起こるようになり、
高田館より要害の地である達峰に拠点を移し乱世下の若狭で自立性を保った。
その後、織田信長が上洛して時代が大きく動くと、本郷氏は信長の傘下に入り領土を安堵された。さらに信長の死後は
豊臣秀吉に仕え、よく時代の荒波を乗り切り、子孫は徳川旗本として存続した。鎌倉時代から南北朝、室町期、
そして戦国時代を生き抜いた本郷氏は中世武士としてまことに稀有な才覚を有した存在であったといえそうだ。
本郷一帯には本郷氏の祖美作蔵人朝親の像をはじめ、本郷氏の墓所などもあり、中世国人領主の歴史が実感できる格好のところである。また、達城址とともに、
本郷城址・大旗城址などを訪ねれば、時代ごとの山城の変遷を確かめることができるのも楽しい。
・西安寺の伝本郷扶泰の墓
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[ 本郷氏 ・
本郷城址/大旗山城址 ]
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