本郷氏
三つ星
(村上源氏流)
・『見聞諸家紋』に拠る。旗本本郷氏は『丸に杏葉』紋を用いたとある。
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本郷氏は、中世若狭国大飯郡本郷に拠った武家で、鎌倉御家人源朝親の後裔と伝えている。その出自は、村上源氏の流れとするのが定説だが、清和源氏説、桓武平氏説もあり、必ずしも明確ではない。
初代の朝親は美作蔵人、美作左近大夫を称し、『吾妻鏡』の建暦二年(121)に実朝の鶴岡八幡宮参拝に随行、建保元年(1213)に鎌倉将軍御内諸番役の一つである「学問所番」が設けられると二番に「美作左近大夫」としてみえている。鎌倉御家人として活躍する朝親が、若狭国大飯郡と関係をもったのは、承久の乱後のことであった。
すなわち、大飯郡本郷の新補地頭に任じられ、同地に下向、子孫は本郷を称して土着したのであった。いわゆる西遷御家人のひとりで、鎌倉時代は在京御家人として活躍した。隆泰が若狭国一宮造営に関して、泰景が坂井郡三国湊の紛争にさいして、それぞれ六波羅探題の両使としてあらわれ、在京人としての活動が知られる。
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●本郷朝親の像
若狭に勢力を保つ
鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代になると、本郷氏は足利氏に属して所領を保った。貞和元年(1345)、足利尊氏の天竜寺参詣には貞泰が随行、将軍近侍として行動している。また、貞泰は室町幕府の所務沙汰を遵行する使節としても行動している。おそらく、在京御家人としての経歴が足利氏に評価されたものであろう。
尊氏と弟直義の不和から観応の擾乱が起こると、貞泰は尊氏方として直義方の国一揆と戦った。若狭国に多くの直義党が入国していたが、本郷氏は尊氏方の守護に味方して守護に抵抗する国一揆との戦いに身をおき一族の泰光を戦死させている。擾乱は降伏した直義を尊氏が鎌倉で毒殺したことで決着したが、その後も南北朝の争乱はやむことはなかった。
本郷氏は多くの東国御家人がそうであったように、各地の地頭職をもっていが、大半は南北朝期に失われていった。また、庶子家の分立によって、惣領家と庶子家との間で競合が起こるようになった。室町時代になると、本郷氏は奉公衆に編成され将軍近習としての立場を明確にしていった。
「永享番帳」には、庶子安親が奉公衆に名を連ね、安親の子国泰は惣領政泰と土地問題を起こしている。本郷氏のいわゆる家内騒動に対して、幕府は政泰を支援するかたちで介入、係争地の年貢赦免を行っている。やがて、幕府の権威が低下してくると、本郷氏の奉公人としての立場も動揺を見せるようになる。
●本郷氏の城址群を訪ねる
[達城址]
佐分利川越しに城址を見る ・竪堀 ・曲輪と切岸 ・主郭の虎口 ・本郷扶泰の墓(西安寺)
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[本郷城址]
海側より見る ・竪堀
[大旗山城址]
東方面より見る ・主郭の土塁と櫓台 ・南尾根の大堀切
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乱世を生きる
若狭守護は室町時代のはじめ一色氏が任じられ、ついで補任された武田氏が戦国時代末期まで守護職を世襲した。応仁の乱を経て戦国期を迎えると、守護武田氏が本郷氏惣領家の本領安堵を保証するようになった。このことは、幕府の権威の低下と、守護大名の戦国大名化が背景にあった。すなわち、守護武田氏は本郷氏ら若狭国内の国人領主たちの本領安堵を通じて、被官化しようと動きだしたのである。さらに、奉公衆や将軍料所にも武田氏の意向が及び、ついには武田氏重臣粟屋氏の所領が本郷氏の所領内に成立するに至った。
大永四年(1524)、本郷泰茂の領地が幕府料所となり、本郷氏惣領家は衰退の色をみせるようになった。加えて、隣接する佐分利石山城の武藤友益が本郷氏領への侵略を開始するようになった。これまで本郷氏は高田城を居館としていたが、新たに達城を築いて武藤氏の侵攻に対抗した。以後、本郷氏は武藤氏との間で一進一退の攻防を続けた。
若狭国内で本郷氏らが小競り合いを続けているころ、時代は大きく動いた。そのきっかけとなったのが、永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じた尾張の織田信長の入洛であった。元亀元年(1570)、姉川の合戦に勝利した信長は、若狭に進出してきた。本郷泰茂は信長の側近矢部家定を通じて信長の傘下に入り領土を安堵された。このときの縁によるものか、泰茂の二男定政が家定の養子となっている。
その後、本能寺の変で信長が横死、羽柴(豊臣)秀吉が天下を統一すると泰茂は矢部定政とともに秀吉に従って命脈を保った。定政は小田原の役、文禄の役に従軍、小さいながら一万石を領する大名となった。しかし、関ヶ原の役で西軍に属して伏見城攻撃に加わったため、戦後、所領没収されて没落した。一方、泰茂の嫡男信富は徳川家康に仕え、子孫は徳川旗本として存続した。
【参考資料:福井県史/大飯町誌/戦国の若狭/福井県史研究 ほか】
■参考略系図
・源本郷氏系図・福井県史研究「若狭本郷氏について:大原陵路氏復元系図」・寛政重修諸家譜 などから作成。
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