|
■
戦国山城を歩く
若狭に根を下した─西遷御家人本郷氏の居城群
鎌倉時代、東国から若狭に西遷してきた鎌倉の御家人本郷氏は、
高田に館を構え、大旗山の北端に本郷城を築いて領地の支配にあたった。
本郷城は若狭本郷駅のすぐ西方の山上にあり、往古は若狭湾まで尾根が突き出していたようだが、いまはその
北端部を国道27号線と小浜線が通過し尾根先は消滅している。城址は先端のピーク部に主郭を置き、北尾根、
南尾根に自然地形を生かした曲輪が階段状に設けられている。全体に古い縄張のもので、南北朝時代に築かれたようだ。
足利尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱に際して、直義方の山名氏が若狭に没落したとき、
尊氏方の本郷氏は本郷城によって山名氏に対抗したことが知られる。
・大籏城址西曲輪から岡田・尾内集落を見る
|
本郷城址
………
海側より城址を見る ・ 北端の曲輪…削平は甘い ・ 若狭の海を見る ・ 竪堀を見下ろす ・ 主郭部へ
|
主郭手前の曲輪 ・ 鉄塔の合間に主郭の切岸 ・ 南側から主郭を見る ・ 南尾根の曲輪 ・ 土橋状の道を大旗城址へ
|
.
大籏山城址
………
本郷城から南に伸びる尾根先に大籏城があり、最高所の主郭を中心として三方に伸びる尾根先に曲輪を配した梯郭式の山城だ。
主郭の西部には土塁が設けられ櫓台と思しき土壇もある。尾根の要所には堀切が切られ、西方曲輪の北側に築かれた
土塁、曲輪西端直下に切られた堀切は見事なものだ。大籏城は戦国の様相が濃くなったころ、本郷城に代わるものとして築かれたようだ。その後、
戦国時代が本格化してくると東方の達峰に新たに山城を築いて乱世に身を処したのである。
|
岡田方面より城址を遠望 ・ 北端の曲輪へ ・ 南北に長い北曲輪 ・ 堀切をさらに登る ・ 主郭北側の堀切と土橋
|
小曲輪が続く(左2点) ・ 主郭西側の土塁 ・ 主郭の櫓台? ・ 西曲輪群に続く尾根の堀切
|
西曲輪手前の堀切 ・ 階段状に連なる西曲輪 ・ 西端の曲輪北側に築かれた土塁 ・ 最西端の大土塁 ・ 西尾根に穿たれた塹壕状の堀切
|
……………
本郷氏は鎌倉時代から戦国時代末期まで、国人領主、幕府奉公衆としてよく勢力を保った。本郷氏は史料の乏しい
中世若狭の国人領主のなかで歴史がたどれる珍しい存在で、氏が伝えた
「本郷文書」は、若狭の中世を知る貴重な史料となっている。
現在、本郷氏の居館祉であった高田館は土地改良工事で消滅、本郷城址の北側も道路や鉄道の建設で失われた。
若狭本郷に本郷氏の歴史を語る遺跡は決して多くないが、拠り所とした山城群は間違いなく存在している。
これ以上、環境整備や開発といったまやかし事で歴史遺産が損なわれないことを願うばかりだ。
・若狭本郷氏の祖─蔵人朝親の銅像
|
|
[ 本郷氏 ・
達城址 ]
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
| ……
|
|