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戦国山城を歩く
越前朝倉氏発祥の地、朝倉城址
戦国時代、近江の浅井長政と連合して織田信長と姉川で戦った越前の戦国大名朝倉義景、
越前朝倉氏発祥の地は但馬国朝倉であった。江戸時代末期の天保九年(1838)、当時の高柳村の
大庄屋福田宗右衛門が残した覚書によれば、朝倉村には三ヶ所の城跡があったとある。朝倉城、朝倉比丘尼城、
朝倉向山城の三城で、朝倉城は朝倉集落のすぐ西側にある小山の頂上にあったと記され、
越前に赴いた朝倉氏の本貫地とみなされて八鹿町(現養父市八鹿)指定文化財となっている。
城址は旧山陰道が円山川沿いから八木川沿いの谷に入る出入り口を押さえる要衝に位置し、
国道九号線の八鹿バイパスを抜けて西に向かって走ると朝倉交差点、そのすぐ左手に見える山上に
城址を遠望することができる。城址山麓にある宝篋印塔とお地蔵様を祀った祠が登り口の目印で、
登り口には朝倉城址の案内板と説明板が立てられ、山上の城址まで手入れの行き届いた
登山道が整備されている。
小さい城だが、越前朝倉氏ゆかりの地であることを思えば歴史の面白さを感じさせるところである。
山上からの眺めもよく、城址遺構の保存状態もよい…、
気軽なハイキング気分で登れる格好の戦国山城入門コースとでもいえる城址だ。
・朝倉天満宮より朝倉城址を遠望する
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城址登り口の宝篋印塔と石仏 ・ 登り口の城址説明板 ・ 登り道より城址を見る ・ 城址への分岐 ・ 北西尾根筋の堀切
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北西腰曲輪に残る石積址 ・ 堀切を見下ろす ・ 帯曲輪から主郭を見る ・ 東方より見た主郭櫓台 ・ 櫓台越しに西方を眺望 ・ 山上の主郭からの眺望
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段状に築かれた主郭の曲輪 ・ 主郭西曲輪の土塁 ・ 虎口の土塁と石積 ・ 虎口を見上げる ・ 主郭を南から西に捲く帯曲輪 ・ 北西尾根筋の曲輪と堀切
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朝倉城は尾根先の北曲輪群と、南に続く尾根筋の南曲輪群で構成された「二郭一城」となっている。
北曲輪群は主郭を中心として帯曲輪・腰曲輪を設けた梯郭式、南曲輪群は主郭を中核に北尾根に
段状に曲輪を配した階段式となっている。おそらく南北朝期に南曲輪群が築かれ、戦国期に至って
尾根先部分に北曲輪群が築かれ、併せて堀切・竪堀・土塁などを設けたと考えられる。
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南尾根曲輪
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北曲輪群と南曲輪群を隔つ堀切 ・ 南曲輪群を見る ・ 階段状に続く曲輪 ・ 南腰曲輪を見る ・ 主郭切岸と南腰曲輪
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南腰曲輪南端の土塁 ・ 南尾根の堀切(主郭すぐ南) ・ 南尾根の堀切 ・ 堀切から続く竪堀 ・ 南端の堀切から南尾根筋へ ・ 南尾根筋の曲輪状地形
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……………
朝倉氏は但馬に繁衍した古代豪族日下部氏の一族で、系図などによれば鎌倉時代の朝倉高清に始まるという。
嫡流の朝倉氏が承久の乱で没落したのち、ともに日下部氏一族の八木氏系朝倉氏が勢力を伸ばし、
越前の朝倉氏はその傍流に位置するようである。南北朝の動乱期に足利氏に属して越前に地歩を築いた
越前朝倉氏とは別に、本貫地の朝倉にも朝倉氏は勢力を保ったようで、応仁の乱のころ朝倉豊後守が
但馬守護山名氏に属して上洛している。
戦国時代には山名四天王の一人として勢力を誇った八木氏に属し、
八木氏勢力圏の東の護りに任じたようだ。
城址はきれいに整備され、堀切岸・曲輪の切岸、虎口や帯曲輪などの保存状態も悪くない。
なによりも、北曲輪主郭からの眺望は抜群で、朝倉城が八木谷の東部を固める要の城であったことが実感される。
小さい城だが、越前朝倉氏ゆかりの地であることを思えば歴史の面白さを感じさせるところである。
・朝倉城址縄張図
(図説養父市城郭事典:養父市教育委員会編集)
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[ 朝倉氏 ・ 朝倉向山城址 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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