戦国山城を歩く
美作の有力国人、草刈氏が築いた─矢筈城


矢筈城は高山城ともよばれ、戦国時代に美作国と因幡国にかけて勢力を有した草刈氏の築いた城で、 岡山県内では最大級の山城である。天文元年(1532)に衡継が築いた山城で、 以後、景継・重継の三代の居城となった。 標高756メートルの山上に設けられた主郭は全国屈指の高さにあり、 山麓との比高差は426メートルという険しい山上に位置する要害城である。
矢筈城主草刈氏は毛利氏に属して尼子氏、ついで織田信長の命を受けて 中国攻めの陣を進めた羽柴秀吉と戦った。その間、草刈氏は美作の強豪として美作北部に勢力を保持した。 ところが、毛利氏の処遇に不満をもった景継は織田方の誘いに心を動かされ 毛利陣営から離脱しようとしたが露見、景継が毛利氏に粛清されたのちは弟の重継が当主となり 果敢に羽柴勢に抗戦を続けた。本能寺の変を契機として毛利氏は秀吉と和睦、 天正十二年、吉川元春の命を受けて矢筈城を開城するまで一度も落城することはなかった。
・城址説明板に描かれた矢筈城イメージ図



河井方面より城址を見る ・ 河井駅前の城址石碑 ・ 草刈景継の追善墓所 ・ 日常の居館祉−内構


城址へは西方山麓の知和に鎮座する千磐神社から取り付き、 尾根曲輪群を経て、西曲輪群、主郭のある東曲輪群を巡り、北方の河井駅へと下っていった。 矢筈城は岡山県最大、全国でも屈指の高所にある城だけに、山城に登るというより低山登りであった。 しかし、尾根筋に散在する曲輪、山上に連なる西曲輪と東曲輪に残る遺構の数々は残存状態もよく、 地元の保存会の方々による手入れ行き届いていた。城址を目の当たりにして、 これだけの規模の城をよくぞこのような高所に構築したものと驚かされた。さらに、山岳寺院を改修したという 西の曲輪、戦う城として築かれた東の曲輪は、別城一郭を呈するものとして注目される構造でもあった。



山上本丸の城址石碑 ・ 本丸から西方知和方面を見る ・ 本丸から北方河井方面を見る ・ 城址に残る石垣址


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山上の矢筈城に立てば、その規模の大きさ、たくみな縄張構造、 加えて周辺の山々に散在す矢筈城を取り巻く支城群とがあいまって、 草刈氏が羽柴軍・宇喜多軍らの攻撃を勇猛果敢に跳ね返したことが実感される。 戦国時代の城として傑出した構造、難攻不落を誇る戦史など、 矢筈城は文字通り戦国山城を堪能できるところであった。
歴史に「 if 」はないが、織田氏に通じようとした景継の行動が成功していれば、 美作の戦国史、ひいては日本の戦国史は大きく変わっていたのではないだろうか…ということである。 さらに、草刈氏は近世大名として生き残っていた可能性もある。そんな戦国時代における 微妙な機微を考えさせてくれるのも矢筈城の大きな魅力であった。
・矢筈城址縄張図 (地元保存会発行のパンフレットより)


・城址に登る… ・西尾根曲輪群 / ・東主曲輪群

[ 草刈氏 ]



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