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草刈氏
●丸の内二つ引/十曜
●藤原氏秀郷流
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戦国時代、因幡・美作地方の勢力を振るった草刈氏は、藤原秀郷流小山氏の後裔という。すなわち、小山政光の孫氏家基秀の子基近(公継ともいう)から出たという。初代の基近は足利家氏に従って陸奥に下向し、斯波郡草刈郷の地頭職を得て、その地名をとって草刈氏を名乗ったのが始まりとされる。とはいえ、その真偽のほどは検討を要するところである。
一方、『萩藩閥閲録』という毛利家の記録によれば、草刈氏の祖は上野国の豪族で、天慶三年(940)平貞盛とともに平将門を征伐した藤原秀郷と記されている。草刈の姓を称するようになったのは、寛正年中(1243〜46)鎌倉将軍であった頼経親王から陸奥国斯波郡草刈郷の地頭職を賜った基近以後であるという。
それぞれ微妙な食い違いをみせているが、原秀郷の後裔を称していたことは共通している。
草刈氏の登場
基近の曾孫貞継は、延元元年(1336)足利尊氏が京都から九州に敗退したとき、その軍勢に加わったが、備前国和気郡の三石城に踏みとどまり新田義貞の追討軍を防いだという。
陸奥国の地頭である貞継が、突然備前国三石に現れるのは奇異な感じを抱かせるが、おそらく草刈氏は武蔵守として鎌倉にあった時、またはそれ以前より尊氏の配下となっていたものと思われる。そして、元弘から建武の動乱に際して尊氏に従って鎌倉から京都に入った。建武三年(1336)、北畠顕家らの軍勢に敗れた尊氏に従って備前まで逃れ、尊氏が九州に去ったのち三石城に拠ってよく殿軍の役目を果たしたものであろう。
貞継はこのときの戦功により、暦応元年(1338)因幡国智頭郡を賜わり、同地に移り淀山城を築いて、そこに拠ったという。その後の南北朝の内乱の過程でも戦功をたてたようで、貞和年中(1345〜49)に美作国苫東郡青柳庄・三輪庄・加茂郷などの地頭職を賜ったという。あるいは貞継の子氏継は将軍義詮から苫東・苫西郡の地頭職に補されたともいわれ、氏継は山名氏清の討伐の戦に参加して功があった。さらに氏継は本領のほかに、南接する美作にも兵を出すなど所領の拡大に務めた。
応仁の乱では、盛継が山名宗全方として戦った。その子景継の代になると、智頭郡の大半を押領し、永正年中(1504〜)には播磨の赤松氏、出雲の尼子氏とも戦っている。永正五年(1508)、流浪の将軍足利義稙を奉じて大内義興が上洛の陣を起こすと景継も従軍、同八年、京都船岡山の合戦には先陣をつとめている。この時期、草刈氏は因幡の一方の雄とも呼べる存在に成長していったようだ。
尼子氏との抗争
景継の子衝継は、天文元年(1532)、美作国の加茂郷に高山城(矢筈城)を築き、本拠を因幡の淀山城から移したという。衝継は美作に移り住むと高山城に拠って、しきりに美作を侵し、近隣諸豪をはじめ尼子氏とも対抗している。
享禄二年(1529)、因幡国気多郡、高草郡、岩井郡で尼子氏と戦い、天文元年には美作に進出してきた備前の宗浦上村・宗景父子を撃退、美作のうち苫北・苫西を支配下に治めた。その後も尼子氏との間で抗争を繰り返し、よく尼子の攻勢に対抗した。天文九年、尼子晴久は台頭著しい毛利元就を除こうとして安芸郡山城に攻め寄せた。しかし、翌十年、元就の反撃にあった尼子勢は敗走、一躍、元就の名は近隣に鳴り響いた。衝継は元就に誼を通じ、天文十一年、大内義隆の尼子攻めには毛利元就に呼応して唐櫃に出陣している。義隆の尼子攻めは国人の離反などによって失敗、尼子氏が勢力を吹き返す結果となった。
以後、尼子氏の美作侵攻が繰り返され、天文二十二年、尼子氏に高山城を包囲攻撃されたが衝継は奮戦してついに尼子勢を退けた。翌二十二年、晴久は元就の謀略にのせられて一族の新宮党を討滅、みずから勢力を失墜させていた。翌弘治元年(1555)、元就は厳島合戦で陶晴賢を討ち取り、押しも押されもせぬ戦国大名へと駆け上った。そして、永禄九年(1566)、尼子氏を降した元就は中国地方から九州北部までを支配する大大名となったのである。この間、草刈氏では衝継が隠居して、嫡男の景継が毛利氏に従って尼子攻めに活躍していた。
尼子氏が衰退の色を濃くしているころ、因幡では武田高信がにわかに勢力を拡大していた。高信は毛利元就に通じて、永禄六年(1563)、守護山名氏を毒殺すると敵対する山名氏家臣らを討ち取って因幡を牛耳るようになった。そして、毛利氏に従って但馬・美作に進攻するようになった。因幡への進出を目論む景継は、やがて高信と対立するようになり、ついには武力衝突へと発展していった。
乱世の変転
永禄九年、毛利氏に降った尼子氏の残党は山中鹿介幸盛、立原源太兵衛尉久綱らが中心となって尼子氏再興を図り、京都東福寺にいた新宮党の遺子を還俗させると尼子孫四郎勝久と名乗らせて主君とした。そして永禄十二年(1569)、出雲に入ると因幡の山名豊国と結んで毛利方の武田高信を攻め、豊国を鳥取城主とし、尼子党は若桜鬼ケ城に入って毛利氏と対峙した。
対する毛利氏は、草刈景継と武田高信の仲裁に乗り出し、元亀三年(1572)内海兵庫助らを使者に遣わして和議が整った。とはいえ、和議の条件が父の代から毛利氏に尽くしてきた草刈氏より新参者というべき武田氏に厚かったことから景継は毛利氏に快からぬ思いを抱いたようだ。やがて、尼子党を支援する織田氏からの調略の手が景継に伸び、天正二年(1574)、織田方の密使として山中鹿之助が矢筈城を訪ねてきた。鹿之助を迎えた草刈氏家中は景継をはじめ毛利氏の処置に反感を持つ者が多かったことから、おおいに動揺をきたしたようだ。そして、景継は織田氏に転じることに決し、信長からのお墨付きを待つことになった。一方、尼子党が暗躍する因幡・美作方面を注視していた小早川隆景は、さきの和議に対する景継の不満を察し、その動きに目を光らせていたようだ。
鹿之助から景継内応の報告を聞いた信長は、早速、朱印を捺した誓文書を作成すると蜂須賀正勝に命じて景継のもとへ送らせた。ところが、この使者が智頭郡の北方にある毛利方の関所で捕えられ、懐中にあった景継宛の信長朱印状も押さえられてしまった。報告を聞いた隆景は、景継の家来を呼び寄せると朱印状を見せ、事態を収拾するように厳命した。立ち返った家来の復命に接した景継は、武士らしく切腹、矢筈城の山麓に葬られた。
もし、景継と武田高信の和議に際して毛利氏が景継の納得する条件で臨んでいれば、景継の事件は起こらなかったかもしれない。しかし、時代の趨勢を考えると、織田氏に転じようとした景継の状況判断はきわめて的確なものであったといえよう。事は破れたが、草刈氏が織田氏に属していたならば、その後の中国地方の戦国史、草刈氏の歴史は大きく変わっていたことであろう。
宇喜多氏の台頭
景継が自害をしたのちは、弟の重継が家督を継ぎ小早川隆景に属した。そして、草刈氏の支城である因幡の淀山城に攻め寄せた尼子勢を撃退、敗走する尼子勢を追撃して若桜鬼ケ城に攻め寄せた。以後、重継は兄景継の汚名を雪がんとして毛利氏に誠忠を尽くし西の防衛線を死守した。『萩藩閥閲録』の由緒書をみると、天正五年「輝元公御代信長公と御取相」のころから、同十年信長が本能寺の変で明智光秀に殺され、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉が毛利輝元と和睦するまでの間で、その間、草刈氏は毛利氏のために因州の忠櫃城を固守していたのであった。
当時、備前では天神山城主浦上宗景の被官であった宇喜多直家が、沼城を拠点に勢力を蓄え、天正年間には岡山城を築き、そこを新しい拠点として備前・美作に勢力を拡大していった。しかし、直家の台頭を危惧する備中の三村元親と主君の浦上宗景によって、直家は挟撃される事態となった。この生涯最大の危機に際して直家は、三村氏の後楯であった毛利氏と結ぶことに成功し、滅亡を回避することができた。以後、直家はあらゆる謀略を駆使して三村元親を備中松山城に滅ぼし、ついで美作西部の雄高田城主三浦貞弘を滅ぼした。そして、直家は播磨に進出していた羽柴秀吉の軍勢と播磨で戦って敗れ、羽柴勢の強大さを認識するに至っていた。
その後、尼子勝久を支援する羽柴勢と毛利勢が播磨国上月城で戦った。直家は当然毛利氏に味方すべき立場にあったが、毛利方の敗戦を予想した直家は病と称して動かなかった。結果は毛利方の勝利に帰し、当然のことながら直家は毛利氏の嫌疑を受け、毛利・宇喜多氏の同盟は崩れた。そのため、直家は天正六年(1578)織田信長・羽柴秀吉と結ぶに至ったのである。
そのころ直家は備前はもちろん美作地方にも勢力を伸ばし、国衆たちを着々と服属させていた。天正五年八月には、主君浦上宗景を天神山城に攻め播磨に走らせた。その結果、美作の国衆たちの間に動揺が起こった。すなわち「宗景の家臣どもを己が家僕の如く取扱」ったことに対する不満であり、かれらは美作東部の雄、三星城主後藤勝基を盟主に結束したのである。後藤氏は毛利氏に使者を送ってこれと同盟し、天正六年から宇喜多勢と後藤勢は随所で合戦を展開した。
このように勝田郡・英田郡を舞台に宇喜多勢と毛利氏を後楯とする後藤勢が戦っていた時、吉野郡では宇喜多氏と結んだ新免宗貫と、毛利氏の旗下である草刈重継が合戦を繰り返していた。すなわち、新免と草刈の両氏は、宇喜多・毛利の代理戦争を吉野郡で展開していたのであった。
新免氏との抗争
草刈・新免両氏の攻防戦については、『美作太平記』『美作古城記』などに記述されている。とはいえ、相互に矛盾したり。『東作誌』所収の史料などからみて事実に反しているような記述も多い。そして、天正十五年あるいは同十六年に佐淵の合戦があったというのである。しかし、天正十一年に草刈重継は毛利氏の勧告を受けて備後に退去しており、天正十五・六年のころに草刈・新免の両氏が吉野郡で合戦したとは考えにくいのである。
『東作誌』によれば、粟倉庄が戦国動乱に巻き込まれる端緒となったのは、草刈与次郎重久が同庄の長尾村に佐淵城を
築いたことにあったという。重久は重継の弟で、因幡の淀山城にあったが、天正六年(1578)淀山城を発し、
長尾村に入り佐淵城を築いた。そして、宇喜多氏に属する新免伊賀守・粟井右京進らの所領である吉野郡の村々に
放火・狼藉を働いた。これに対し、新免・粟井側は黙視することなく、宗貫はみずから手勢を率いて出陣し
草刈勢の鎮圧に向かった。しかし、草刈勢は強く、新免・粟井勢は敗れつづけたという。
翌年七月、新免勢と草刈勢は筏津村の姥ヶ原において戦った。このとき、草刈与次郎は孤軍奮闘ののちに
新免勢の追手に迫られて佐淵城に楯籠ろうとして引き返したが、城を目前にしたところで新免備後守家貞に討たれた。
享年わずかに十七歳の若武者であった。
ところで、草刈勢の主力ともいうべき高山城の草刈重継の軍勢と竹山城の新免宗貫の軍勢が真っ向から戦ったのが、
琴戸崎合戦と塀高合戦である。琴戸崎合戦が起こったのは天正七年六月、すなわち先の佐淵城落城の寸前であった。
高山城の重継は異母兄の景継に軍勢を授け、新免勢の追討に発向させた。
[注] この草刈勢を迎え撃つ新免宗貫は、
嫡子三郎長春をはじめ一族・家臣たち、横野・春名・船曳ら吉野郡の国衆たちを率いて立ち上がった。
寄手の草刈勢は新免勢に猛攻を加え、新免勢は浮き足立って一時は総崩れになるかにみえた。そこに、宮本・平尾・小野ら
の別働隊が横槍を入れたことで、草刈勢は混乱し、惨澹たる敗北を喫した。
草刈側の大将草刈景継、重臣の白岩阿波守らは、乱戦のなかで琴戸崎から逃走し、筏津で討ち取られた。このことは、
かれらが長尾村の佐淵城を目指したものと思われ、佐淵城の草刈与次郎も、城から出て筏津の姥ヶ原で新免勢と
戦っている。おそらく、佐淵城に難を避けようとした草刈勢を救援するためであったろう。そして、与次郎はこの合戦で
討死し、佐淵城もまた落城したのであった。
ついで、翌天正八年四月、大野庄で塀高合戦が起こった。このころ、新免家の内部で対立が起こり、
新免伊賀守に遺恨を抱いた井口長兵衛・新免総兵衛らが草刈重継に内通し、その軍勢を塀高城に引入れ、
一緒になって新免宗貫の軍勢と戦った。宗貫は事の重大さに驚いて宇喜多直家に援軍を要請し、直家みずからが
軍勢を引き連れて塀高合戦に参加した。そして、宗貫は直家とともに草刈重継の軍勢を撃退することに成功したのである。
このように高山城主草刈重継は、天正六年から同八年まで、勝田郡北部の国衆をともなって吉野郡に侵入し、
竹山城主の新免宗貫の軍勢と戦ったが、新免側の守りは堅く、ついにこれを抜くことはできなかった。この毛利氏を
後楯とする草刈氏と、宇喜多氏を後楯とする新免氏との攻防戦も天正十年に至って終焉を迎えた。
………
注)
西粟倉村史の記述に拠ったが、景継は天正三年に自害して世を去っており出陣することは不可能である。
『美作太平記』には草刈景綱が大将として出陣、宮本武蔵に討たれたとあるが、そのままには受け取れないものである。
いずれにしろ、天正七年のころ吉野郡を舞台に草刈氏と新免氏が攻防を繰り返したことは、
その詳細はともかくとして美作中世史の一齣として紛れもないことであった。
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その後の草刈氏
天正九年、宇喜多直家の死去により、毛利勢の東上を懸念した織田信長は、その部将羽柴秀吉を中国経営に向かわせた。そして、羽柴と同盟関係にあった宇喜多家の諸将はこれに従軍した。しかし、翌年の本能寺の変による信長の死と備中高松城の落城によって、毛利・羽柴の間に和睦が成立し、両氏は高梁川をもって境となし、以西は毛利氏、以東は宇喜多氏の所領となった。そのため、毛利・宇喜多両氏の間でも講和が成立し、美作国は宇喜多秀家の所領となった。その結果、草刈重継の居城である高山城や先祖伝来の所領も宇喜多領となった。
草刈重継はこれを不満とし、天正十一年八月、高山城下において、また佐良山城や石米山城で宇喜多氏に加担する美作の国衆たちと激戦を繰り返した。しかし、同年十二月、毛利輝元から退城勧告の書状が届いたため、ついに重継は諸城を開くに至った。かくして、草刈重継や中村宗継らは、恨みを呑んで備後に退去し毛利氏に仕えた。ここに至って、南北朝以来因幡・美作の両国に勢力を扶植した草刈氏も、時流の大きな変化のなかであえなく父祖の地を去っていったのである。
以後、毛利氏に仕えて、天正十三年には、小早川隆景に従って伊予白実城を預かり、同十四年には筑前国宝満城を預かった。その後、豊臣秀吉の命により、宗像氏貞の娘を娶って宗像氏を継ぎ宗像を称した。さらに筑前国中野郡福岡荘を領して福岡氏を称したが、のちに草刈に復している。
文禄・慶長の役には朝鮮に渡海し、関ヶ原の合戦後は小早川家に属したが、のちに小早川家を去って毛利輝元の麾下に復した。草刈氏の系譜は『萩藩諸家系譜』『近世防長諸家系図総覧』などにあり、その一族には白石・黒岩・中村・川端の諸氏が出ていることが知られる。
・2005年07月07日 →2011年01月28日
【参考資料:西粟倉村史/加茂町史/萩藩諸家系譜/但馬史 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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