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戦国山城を歩く
西播の戦国大名・宇野氏が羽柴勢を迎え撃った─長水山城
長水山城は東方に播磨から因幡に通じる因幡街道、南方に播磨から美作に通じる
街道を眼下におさめる交通の要衝を押さえる立地にある。
播磨の中世といえば赤松氏を抜いて語ることはできない。長水山城も播磨守護職に任じられた赤松則祐が、本城である白幡城の
北の護りとして築き、一族の広瀬氏を配したものである。
広瀬氏は則祐の兄貞範の流れで、弥四郎師頼を祖としたが満親(一説に子の親茂の代)
のとき嘉吉の乱に遭遇、赤松宗家に与した広瀬氏は没落した。
赤松氏は政則のときに再興がなり、応仁の乱における活躍で播磨守護に返り咲いた政則は
一族の宇野氏を西播磨守護代に任じ長水山城主とした。以後、宇野氏は西播磨を領して
最盛期には播磨はもとより美作・但馬まで勢力を及ぼす戦国大名に成長したのである。
宇野氏は西播磨の諸武士を配下に従え、長水山城を中心として宍粟市内各地に城塞群を構築、
長水山城は宍粟の戦国時代の中核となるところとなった。
長水山城址は山上の主郭(本丸)を中心に、南、北、東の尾根に曲輪が築かれた
連郭式の山城である。さらに、南尾根先に三の丸が築かれ、大手にあたる谷筋の要所に曲輪址、
門址などが構えられ、山麓には平時の居館址が残り城主政頼の慰霊碑が建立されている。
一方、搦手山麓の五十波には城主の隠居所であった構居が築かれるなど、
西播磨に覇をとなえた宇野氏にふさわしい広大な城域を有している。
山上からの展望は抜群で、東方山麓に構居があった五十波、北方に水剣山、
南方に国見山、西方を見下ろせば伊沢川沿いの集落群、晴れた日には
瀬戸内海が見えるときもあるという。
但馬の竹田城にはおよばないが、天空の城というにふわしい佇まいの山城である
・聖山城址より長水山城方面を遠望する(2010_08/13)
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生谷側の登り口 ・ 尾根筋より篠ノ丸城址を遠望 ・ 南曲輪群尾根先の堀切 ・ 段状に続く南曲輪群 ・ お馴染みの矢竹が茂る
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南曲輪群北端の堀切(宇野分岐) ・ 主曲輪へ ・ 主郭の高石垣を見上げる ・ 東山麓の五十波方面を鳥瞰 ・ 南尾根筋を振り返る
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見事な高石垣 ・ 本丸址に立つ長水山信徳寺 ・ 宇野氏の供養碑・ 二の丸を見る ・ 二の丸の切岸と腰曲輪
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長水山最大の見どころは、本丸址から東曲輪部にかけて築かれた見事な高石垣だが、
石垣は廃城ののちに寺院が建立されたときに積まれたものとも考えられ、当時のものと断言はできないようだ。
本丸址には日蓮宗の長水山信徳寺の本堂、東曲輪の一角には庫裏が建てられ、
いまも住職の方が住んでおられる。
みれば電気も水道もひかれているようだが、その日常生活は決して楽なものでは
ないはずだ。いわんや、むかしの暮らしを想像すれば…、絶句してしまった。
もっとも、戦国時代には宇野氏をはじめとした将士と一族が暮らしていたわけだが…。
本丸の信徳寺本堂後方に天守台状の壇があり、秀吉に敗れ去った宇野一族の供養碑が
祀られ、碑の正面に宇野氏の紋「三つ巴」が刻まれている。
本丸一帯と南尾根筋の三の丸を分かつ
宇野分岐より大手筋を下っていくと、一の門・二の門址が残り、
城門址の近くには武士が詰めていたのであろう小曲輪が階段状に築かれ
石積も残っている。そして、
伊水小学校の裏手の台上は宇野氏の居館址という曲輪が連なり、
その一角に宇野政頼の供養塔が祀られている。
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空堀越しに南曲輪へ ・ 南曲輪西側の帯曲輪 ・ はるか伊沢谷を見下ろす ・ 本丸方面を見る ・ 東曲輪群の石垣
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東曲輪切岸 ・ 五十波分岐より石垣を見る ・ 南端部の片堀切 ・ 大手筋の曲輪址の石積 ・ 伊水小学校裏手の居館址を見上げる
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……………
長水城への登山道は、大手にあたる西方山麓の伊水小学校から、搦手にあたる
五十波から、そして、城址から南に伸びる尾根筋先端に位置する生谷からの
ハイキングコースなどがある。
生谷からの登城コースは、下三津-四等三角点、
五十波-四等三角点など曲輪を思わせる地形がつづき、
主郭から伸びた南尾根先に切られた堀切を越えると南尾根曲輪群(三の丸)へと至る。
段状に曲輪が続く南尾根曲輪群一帯は、戦国時代の名残であろう矢竹が生い茂っている。印象的には曲輪の切岸は甘く、
削平も十分ではない、おそらく南北朝時代に築かれた曲輪群を改修したものであろう。
三の丸北端に切られた堀切は、そのまま大手道と主曲輪部に通じる城道の
分岐となっている。
その先の自然地形の曲輪を過ぎれば、主曲輪群南端を区切る片堀切があらわれ、
城道は主曲輪部南部の二の丸東斜面をまいて、山上の本丸へと続いていく。
長水山城址は、本丸と東曲輪、南曲輪のあたりはお寺との関係もあってよく整備されている。しかし、
北尾根の曲輪群、東尾根の曲輪群、南曲輪群は藪化が深刻で、
探索は諦めざるをえなかった。また、
庫裏のある東側の曲輪に倒壊した家屋の残骸、居住部以外の藪化など、
以前に登ったときに比べると荒廃の色合いが深まっていた。歩いて登るしかない
山上であれば、やむをえないことなのであろう。
長水山の歴史を考えれば、地域ならず戦国時代の重要な文化財として申請、
播磨北西部における歴史的山城として整備、保存する道もあるのではないだろうか。
ハイキングコースとしての整備はこれからも継続されていくであろうが、
山城としては本丸以外は荒廃する一方なのでは?と思うと、
宍粟市の奮起を願いたいところである。
・羽柴勢が攻め寄せた揖保川方面を見る(左手に聖山城址)
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[ 宇野氏 ・ 篠ノ丸城址 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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