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宇野氏
●三つ巴/二つ引両*
●村上源氏赤松氏流
・山崎町(現宍粟市山崎)郷土資料館に展示された長水城の瓦には、巴紋と二つ引両が見られる。
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戦国時代、播磨国西北に位置する宍粟郡長水山城に拠った宇野氏は、村上源氏の後裔と称し、山田入道頼範の子為助(将則という説もある)を祖とする。為助は播磨国佐用郡宇野荘に館を造り、その地名をとって宇野新大夫を名乗ったのがそもそもの始まりという。
為助が生きた時代は源平争乱期にあたっており、当時の播磨国は平家の知行国であった。やがて、源頼朝によって鎌倉幕府が成立すると、梶原景時が播磨守護職に補任された。一方、『赤松系図』によれば山田伊豆守入道則景が、建久四年(1193)七月、佐用庄地頭職に任じられ、北条義時の娘を娶ったと記されている。山田則景は別の系図では為助の弟で宇野頼景とみえ、名乗りの「景」の字は梶原景時から一字を賜ったものという。
赤松氏の祖家範は則景の末子となっており、佐用庄の一部の赤松村の地頭代官に補せら赤松を名乗ったものであろう。赤松氏は元弘の乱から南北朝期における円心(則村)の活躍によって世にあらわれたが、家系からいえば一族の本流ではなく庶子家であったと思われる。円心と同時代を生きた宇野宗清・頼季・国頼の三兄弟は、東福寺の首座太朴玄素を開山に招請して円応寺を開基している。太朴玄素は赤松円心(則村)も招こうとした名僧であったが、円心をして遠慮せしめたのは宇野氏が嫡系であったと考えると違和感がない。
赤松氏の系図は、『村上源姓赤松氏族譜』『赤松系図』『赤松族譜』などなど諸本が伝来しているが、それぞれ異同が多く、まことに判断に苦しむものばかりである。これは、のちに赤松氏の本流となった円心が、みずからの家系を赤松氏の嫡流とする作為をほどこした結果ともいわれている。室町時代において、赤松氏一族に宇野を名乗る人物が見られるのは、宇野姓が一族の本姓と考えられていた傍証ともいえそうだ。
赤松氏の勃興
鎌倉時代末期、後醍醐天皇による倒幕計画である「正中の変」「元弘の変」が起こった。この動乱に際して赤松円心は、護良親王の令旨を受けてこれに応じ、後醍醐天皇方として大活躍した。『太平記』によれば、円心の旗揚げに佐用・宇野・小寺・別所らの赤松一族が馳せ参じ、その勢は一千余騎になったという。
元弘三年(1333)、赤松円心は京都六波羅攻めの軍を進め、先陣の三男則祐には宇野国頼が兄の小寺頼季とともに従った。しかし、六波羅方の反撃によって赤松軍は惨敗を喫し、からくも八幡方面に退散した。その後、足利高氏が幕府から離反して六波羅を攻撃、東国では新田義貞が鎌倉に攻め込み、ついに鎌倉幕府は滅亡した。
かくして、天皇親政による建武の新政が開始されると、赤松円心はその戦功により播磨守護に補任された。しかし、のちに守護職を解任され、佐用庄地頭職のみを安堵されるという左遷を受けた。これは護良親王と不和になった後醍醐天皇が、親王に近い赤松氏を排除した結果ともいわれている。建武二年(1445)に起こった中先代の乱をきっかけとして尊氏が天皇に叛旗を翻すと、新政に不満を抱く円心はこれに応じた。
やがて、南北朝の争乱を迎え足利幕府が成立すると、則村には播磨守護職が、長子範資には摂津守護職が与えられ、赤松氏は一躍山陽道の要地を押さえる有力守護にのしあがったのである。
円心の死後、赤松宗家は嫡男範資が継ぎ、ついで三男則祐が継承、以後、則祐の子孫が赤松氏の嫡流となった。則祐のあとを継いだ義則のとき、宇野備前守が播磨守護代に任じられているが、その実名は伝わっていない。明徳二年(1391)、山名氏の内訌から明徳の乱が起こるった。侍所所司の任にあった赤松義則は乱の鎮圧に活躍、山名氏との戦いにおいて弟顕則をはじめとして宇野・佐用・柏原・櫛橋氏らの諸将が討死した。
宇野氏西播磨の守護代に任ず
明徳の乱の翌年、将軍足利義満の斡旋によって南北朝の合一がなり、室町幕府体制が確立された。播磨守護赤松義則は、播磨十六郡を二つに分ち、東播磨八郡の守護代に別所氏を、西播磨八郡の守護代に宇野氏を任じて播磨一国の支配を行った。
戦国時代の宇野氏は宍粟郡山崎の長水山にある長水城に拠ったが、播磨守護代に任じられた当時の宇野氏は佐用の宇野城(熊見城・米田城とも)を居城にしていたようだ。
播磨守護に任じられた赤松氏は、但馬・因幡・美作に通じる要地である宍粟郡山崎を重視して、円心は次男の貞範に篠の丸城を築かせた。のちに、則祐は甥の広瀬師頼を長水城主とし、篠の丸城主をも兼ねさせた。長水城は標高585メートルの長水山に築かれた要害で、師頼の子孫が城主を世襲したが、広瀬満親・親茂父子のとき嘉吉の乱に遭遇して落城した。
嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐は将軍足利義教を自邸に招いて殺害するという事件を起こした。世にいう「嘉吉の乱」で、赤松満祐は京都の邸を焼き払うと領国に下向し、書写坂本城を本営に領国の武士に参集を求めた。『書写山坂本城着到』によれば、小寺・別所・有田・浦上氏らとともに宇野太郎の名も見える。
赤松追討軍は、摂津から進む大手軍と但馬から南下する搦手軍、そして備前方面の三方から播磨に進撃した。大手軍は阿波守護細川持常を総大将に、細川一族の守護勢、それに赤松氏庶流の赤松貞村・有馬持家・赤松満政らで構成され、搦手軍は但馬守護でもある山名持豊が総大将となり、伯耆守護山名氏之ら山名一族で編成されていた。
宇野氏は竜門寺真操の軍に参加して丹波大山口を守備したが、敗れて粟賀まで退き、さらに敗れて坂本城へ逃げ帰った。各地の赤松方も敗北を重ね、ついに満祐は坂本城を放棄して、本城である城山城に奔った。そして、山名軍の総攻撃よって、赤松満祐は自刃し一族六十九人も共に自害して果てた。
赤松氏の再興
城山城の落城によって赤松宗家は没落し、播磨守護職には乱制圧に功のあった山名持豊が補任された。その後、赤松氏再興の動きがあったが、ことごとく山名氏によって潰され、遺臣は逼塞を余儀なくされた。
一本赤松氏系図によれば、嘉吉の乱に赤松宗家に参じた宇野太郎は頼則で、満祐とともに城山城において自刃した。頼則の子満利は父の命によってひそかに逃れ世を隠れていたが、小寺氏らとともに赤松再興運動に尽力、長禄元年(1457)の吉野退治(神器奪回)に駆けつけて奮戦した。この赤松遺臣の功によって満祐の弟義雅の孫赤松政則が許され、加賀半国の守護に補任され赤松氏の再興がなった。
やがて、将軍家、管領畠山氏、斯波氏の内訌から、幕府管領細川勝元と四職の一家で播磨守護でもある山名宗全(持豊)の対立に発展、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。播磨回復を狙う赤松政則は、東軍の細川勝元に味方して山名氏と対立した。赤松氏再興に尽くした越前守満利は播磨宍粟郡内の地頭職となり、越前守を号して文明元年(1469)長水山城に拠った。
播磨・美作・備前の三国の守護職を回復した政則は、侍所所司にも任ぜられ赤松氏の勢力を旧に復したのである。満利の子越前守祐秀も赤松政則に従い、京都の洛北船岡合戦に戦功を立て、西播磨八郡の守護代に任じられた。
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宇野氏系譜の考察
ところで、長水城主となった宇野氏に関しては不明な点が多く、伝えられる系譜も諸本あって異同が多い。『宍粟郡誌』には、宇野加順を初代として頼継−祐頼(政頼)−光景とあるが、代数が不自然に少なく、さらに伊和神社に残された文書にみえる村頼が記されていないなど疑問が多いものである。一方、『長谷川本赤松系図』には、宇野国頼のあと、清頼−祐頼−(頼則)−満則(満利?)−祐季(祐秀?)−祐利−政顕(村頼)−政頼とあり、代数をみる限り妥当性があるように思われる。
同時代の記録にあらわれる宇野氏をみると、応仁の乱当時、宇野越前守則高が『応仁別記』にみえる。文明十二年(1480)、則高は山科家領の宍粟郡都多村の年貢収納に便宜を図り、山科家から扇三本を贈られている。その後の享徳四年(1490)、赤松政則が将軍義尚に従って近江に出陣したとき、則高も浦上則宗らとともに出陣している。そして、永正元年(1504)には鹿苑院から、則高・則清親子と重臣下村氏に対して杉原代二百疋が贈られたことが『鹿苑日録』から知られる。
則清については、横川景三(おうせんけいさん)の『補庵京華別集』、景徐周麟(けいじょしゅうりん)の『翰林葫蘆集』のなかに残された則清の肖像賛などから、その実在は疑いないものである。そして、則清の子が村頼で、以下政頼−満景と続くのである。
則高、則清の名乗りは政則に仕えて則の字を賜り、村頼は義村に仕えて村の字を賜ったものと思われる。そして、政頼は晴政から一字拝領したものと思われ、『長谷川本赤松系図』に比べて、代々の名乗りの蓋然性が高いといえそうだ。
いずれにしても、戦国末期の村頼−政頼以前の長水城主宇野氏の系譜を明らかにする作業は容易ではないようだ。
・景徐周麟( けいじょしゅうりん)
室町後期の臨済宗の僧。相国寺八十二世。五山文学僧。景徐は道号、周麟は諱、号に宜竹・半隠等。用堂中材の法を嗣ぐ。相国寺、鹿苑院に歴住し、晩年は相国寺の慈照院に閑居する。永正十五年(1518)寂。
・横川景三(おうせんけいざん)
戦国時代の臨済宗の僧。播磨の人。別号は小補、補庵。相国寺常徳院の英叟の僧童であったが、英叟の師曇仲道芳の三十三回忌を機に、その塔を拝して師資の礼を結び、以後曇仲の門弟龍淵本珠、瑞渓周鳳らの教導を受けた。応仁の乱中は近江に移り、豪族小倉実澄の帰依を受ける。文明十年(1478)正式に曇仲の法を嗣ぐ。景徳寺・等持寺の住持を経て相国寺・南禅寺に昇住、明応元年鹿苑院塔主・僧録司に任ぜられた。著に『補庵集』『小補東遊集』などがあり、また『百人一首』の編者でもある。
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播磨錯乱
明応五年(1496)、赤松政則が四十二歳の若さで急死、一族の七条家から義村が赤松惣領に迎えられた。この頃から、守護代浦上氏の横暴が表面化、播磨の諸将は守護代浦上則宗方と一族の村国方の双方に分かれて戦いが繰り返された。この争乱に際して宇野氏は、赤松下野守(政秀)らとともに則宗を支持して戦い、村国方の栗栖中山城を攻略している。
浦上氏は則宗のあとを継いだ村宗の代になると、その権勢は赤松氏を凌ぐようになり、ついには義村は村宗の排除を図るようになった。永正十五年(1518)、義村は三石城の村宗を攻めたが逆に敗れて兵を退いた。このとき、宇野氏は義村方についたが兵を送らず、みずからの勢力拡大につとめていた。すでに、播磨・備前・美作の守護職をつとめた赤松氏の威令は衰え、播磨は下剋上が横行する乱世となっていたのである。
永正十七年、宇野村頼は龍野城主赤松村秀らと義村を援けて出陣、村宗方の諸城を攻略した。ところが、小寺則職が岩屋城を攻めて敗れ、義村は家督を政村(のち晴政)に譲って村宗との和睦を図った。しかし、村宗は勝ちに乗じて守護赤松義村を捕え、播磨の室津に幽閉すると、大永元年(1521)七月義村を暗殺してしまった。文字通り、村宗は下剋上によって一躍備前・西播磨を支配する戦国大名にのしあがったのである。
赤松氏と浦上氏が抗争を展開しているころ、幕府内部では管領細川氏が内訌を繰り返していた。いわゆる両細川氏の乱で、抗争に敗れた細川高国が浦上村宗を頼ってきた。享禄三年(1530)、村宗は細川高国を援けて兵を挙げると、細川晴元に味方する東播の別所氏を攻撃した。宇野村頼は宍粟郡内の兵を率いて村宗に味方し、東播から摂津へと進撃した。
翌四年、高国=村宗軍と晴元=阿波の三好氏、細川氏らは摂津で対陣した。これに、赤松政村が晴元方に味方したため、村頼らは村宗を離反して政村方に転じた。こうして、決戦の火ぶたがきられたが、浦上村宗は戦死、敗走した高国は捕えられて尼崎で自害した。村宗の死によって勢力を回復した赤松政村は、将軍足利義晴から一字を賜って晴政と改めた。
戦乱を生きる
このころになると、日本全国に戦国大名が割拠するようになり、播磨宍粟郡の北方に位置する因幡は出雲の尼子氏が支配下においていた。
尼子氏は出雲守護佐々木京極氏の一族で、出雲守護代として富田月山城に拠り勢力を扶植した。経久の代になると主家を凌ぐ勢いをみせるようになり、ついには京極氏に代わって出雲を支配下に置くようになった。はじめ周防の大内氏に属して京都にも出陣して活躍したが、やがて帰国すると備後・備中、美作方面に出兵、支配領を拡大していった。大永元年(1521)には、山陰・山陽十一ヶ国を制圧する大大名となったのである。
大永四年、経久は伯耆に攻め込むと米子・淀江・尾高・天満・不動ケ丘を落とし、八橋・岩倉・堤、また南条宗勝の羽衣石城をも陥落せしめ、ついで毛利元就と連合して大内軍を備後銀山城に破った。文字通り、尼子経久は中国の覇者にのし上がったのであった。そして、天文七年(1538)、尼子氏は播磨に侵入してきたのである。
宇野村頼は尼子氏に協力して所領の安堵を受けたが、置塩城の赤松晴政は尼子氏に敗れて淡路に逃れ、阿波の細川持隆の庇護を受けた。その後、晴政は持隆の支援をえて三木城に入ったが、晴政の威令は全く行われなかった。やがて、天文十年になると、但馬の山名氏が宍粟郡に侵攻してきた。村頼の嫡男政頼は山名軍を迎え撃ち、撃退したことで尼子晴久から感状を受けている。一方で政頼は置塩城の赤松晴政との抗争を繰り返し、晴政を窮地に陥れている。
やがて尼子氏は毛利氏との抗争を繰り返すようになるが、宇野氏は尼子氏に属して浦上宗景の播磨進出に対抗した。そして天文十七年ごろ、政頼が宇野氏の家督を継いだことが伊和神社に残された安堵状から知られる。
永禄五年(1562)、尼子晴久が死去*すると、毛利氏の尼子氏への攻勢が活発化した。永禄九年、尼子氏は富田月山城を開いて毛利氏の軍門に降った。すでに大内氏は滅亡しており、中国地方は毛利氏が支配するところとなった。この情勢の変化に対して、政頼は毛利氏に属する途を選び宇野氏の勢力拡大につとめた。
西播の一大勢力となった政頼は嫡男の満景を篠の丸城に置き、三男の宗貫を美作竹田城主新免氏に入れ、四男の宗祐を林田本郷城主本郷祐義のもとに、五男祐光を常屋城主常屋光成のもとに養子とし、宇野領国の支配体制を固めていった。そして、永禄十年ころ、赤松晴政との間に和睦を成立させたようだ。
こうして、長水城主宇野政頼は、『長水軍記』によれば「宍粟郡・神西郡並びに但馬国八東・七美(ママ)・朝来五郡で高十二万石也」とあるように全盛期を現出したのである。
* 尼子晴久の没年は、永禄三年の暮とする説もある
時代の変転
宇野氏が西北播磨にあって勢力を拡大しているころ、世の中は大きく変化をとげようとしていた。永禄十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛、義昭は征夷大将軍に任じられ、信長が一躍乱世の主役に躍り出てきたのであった。
政頼は毛利氏と友好関係を保っていたが、天正元年(1573)、信長との関係を模索して京都に雑掌を派遣している。これに対して毛利氏の外交僧安国寺恵瓊は、信長に宇野氏を見放すように働きかけ、さらに宇喜多直家に長水城攻めを促している。西播磨の要地をおさえる宇野氏は、時代の荒波に翻弄されるようになった。翌二年、政頼は嫡男満景を殺害して、次男の祐清を家督に据えている。
この事件は単純な家督をめぐる内訌ではなく、信長と毛利氏のいずれに通じるのか、その対応をめぐって家中に対立が生じたようだ。嫡男の満景とその一派は新興の織田氏に通じようとしたが、政頼は毛利氏に着く途を選び満景を粛正、一派を排除したようだ。
天正四年(1576)、織田信長は部将の羽柴(のちに豊臣)秀吉に中国地方の平定を命じた。これに対して、置塩城主赤松則房をはじめ三木城主別所長治、御着城主小寺政職・小寺孝高(黒田孝高)らは信長に服従を約した。一方、上月城主赤松政範、龍野城主赤松広英、英賀城主三木通秋、そして宇野政頼らは毛利輝元と通じて信長への服従を拒否した。
宇野氏が織田信長に帰服しなかったのには毛利氏との関係もあったが、播州門徒と呼ばれる領内の一向宗の存在が大きかった。播磨は古くから本願寺門徒の四大勢力の一つで、当時、総本山の石山本願寺は織田信長との抗争を続けていた。宇野氏の菩提寺である西光寺は播磨で最有力の一向宗の寺院で、元亀元年(1570)、住持了海は門徒を率いて石山寺に参じて戦死している。宇野氏にすれば、信長に鋭く対立する一向宗門徒を無視して領内の統治は成り立たなかったといえよう。
信長軍の播磨侵攻
天正五年十月、播磨に兵を入れた秀吉の播磨平定作戦は、黒田孝高の活躍もあって、上月城を陥落させ、龍野城主赤松広英を降し、順調に進むかにみえた。しかし、翌年、別所長治が秀吉にそむいたため、戦線は膠着状態に陥った。天正八年、頑強な抵抗を続けていた三木城が落城して別所長治は自殺し、英賀城の三木氏も孤立した。
こうして秀吉の攻撃目標は、長水山城で抵抗を続ける宇野氏に向けられたのである。
天正八年四月、秀吉はみずから大将となって本陣を率い、先陣荒木平大夫が一千騎、中陣小寺官兵衛孝高が三千騎、そして後陣の神子田半左衛門が一千騎をもって播磨山崎に兵を進めた。そして、林田松山城、常屋城、香山城らを攻略、ついで篠の丸城、杉ケ瀬城、都多城、五十波構などを陥すと長水山城を完全包囲した。そして、力攻めの愚を避けた秀吉は、押えとして蜂須賀小六らの兵を残すと、三木氏の拠る英賀城攻略のために姫路に引き返していった。
先述のように、長水城では政頼の後継者の決定をめぐって、長男満景派と次男祐清派の対立があった。これを察知していた秀吉は、満景派で赤松則房の軍中にあった安積将監をとおして内通者を探った。そして、長水城中の田路五郎左衛門ら、かつての満景派の武士約二十人を動かして、城中の様子を内通させたのである。籠城十数日、城兵の疲労をまっていた秀吉軍は、五月九日、田路らの手引きで攻撃を開始した。翌十日、さしもの長水山城も炎上し、城主政頼父子らは三男で作州竹山城主新免伊賀守宗貫をたよって、蔦沢谷より間道を抜け、鷹巣を超え千種の岩野辺に落ちて行った。
『長水軍記』などは城を脱出した政頼らの宇野氏主従は、長水山頂を彷徨いながら小競り合いを続け、孤立無援で食糧難に苦しんだすえに六月五日の夜陰にまぎれて長水山から落ちていったという。しかし、これは『信長公記』にある「宇野民部、六月五日夜中に退散」の記述にこだわったもので、一ヶ月もの間、狭い山頂で抵抗を続けるということは不可能であろう。●
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・恒屋城址を見る ・ 香山城址を見る ・ 長水山城址南尾根先より揖保川方面を見る ・ 篠ノ丸城址を遠望
→ 篠ノ丸城址に登る
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宇野氏の滅亡
作州を目指した宇野氏主従を急追する秀吉軍に対し、長水軍の心ある武士たちは踏みとどまって、ここかしこに戦ったが、歴々の士数十人が討ち取られた。鷹ノ巣を越えて千草に到着した政頼・祐清らは、おりからの雨で千種川は洪水で渡ることが出来ず、秀吉軍の蜂須賀正勝、荒木平大夫、神子田半左衛門らの軍勢に追いつかれてしまった。
万事窮した宇野一族をはじめ長水勢は、秀吉軍と激闘のすえにことごとく討死した。現在、宇野政頼をはじめとした宇野一族の五輪塔とともに討死した家臣の板碑が、終焉の地千草字大森に残されている。
●石塔碑名
宇野右衛門佐祐光
宇野民部大輔祐清
宇野下総守 政頼
宇野采女正 祐政
●板石連名
宇野 内匠 下村治左衛門 春名 修理
石原 勘解由 神山 但馬 横治三郎兵衛
小林 三河 広瀬七郎兵衛 安積 久蔵
宇尾墨 勘介 石田小兵衛 阿甫助大夫
他に女房二人
現在、宍粟郡山崎町御名にある西光寺に、『朝(長)水城自害討死連名』として、宇野一族とその家臣について、文化二年(1805)のものと思われる記録が残っている。なお、同寺には『長水落城乱軍 死生不分員数』四十人と、『長水落城浦(補)伐逆心之党』として落城時の二十人に、篠の丸城主満景を加えた二十一人が書き残されている。
落城のとき、宇野政頼には三歳の幼児があり、乳母に抱かれて落ち伸びていったという。その途中で六郎右衛門という盗賊に襲われ、乳母は片腕を失ったが、かろうじて船越山に逃れ、その幼児は出家した。瑠璃寺中興の真賢大師がこの人であるといわれている。『赤松秘士禄』にも、政頼の末子に真賢の名がみられ、「船越山瑠璃寺僧 釈鉢故無別条」と記されている。・2006年3月26日
・宇野氏ダイジェスト
【参考資料:山崎町史/宍粟郡誌/兵庫県史/三日月町史/赤松円心・満祐/播磨戦国史/西播磨の中世/赤松氏・三木氏の文献と研究 ほか】
■長水城戦記
●播磨国宍粟市山崎の情報
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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