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戦国山城を歩く
赤松一家衆、永良氏が拠った残要の城─谷 城
谷城は播磨平野を南流する市川流域にあり、一帯は中世永良荘とよばれていた。
城址東方山麓を播磨と但馬を結ぶ街道が通じ、いまも播但自動車道がはしる交通の
要衝である。
南北朝時代末期、赤松氏円心の孫永良三郎則綱が、北方尾根続きに位置する
稲荷山城(鶴居城)とともに築き、
赤松氏領国播磨の北方を守る「残要の城」と呼ばれて重きをなした。
赤松満祐が将軍義教を殺害した嘉吉の乱が起こると、但馬の山名氏が生野峠を
越えて播磨に侵攻、赤松氏は敗れて没落した。乱に際して永良氏は、
満祐の弟直操禅者に属して但馬口に出陣したが山名勢に打ち破られた。
以後、播磨は山名氏の支配するところとなり、谷城・稲荷山城ともに
山名氏の支配下にあったと思われるが詳細は不明である。
応仁の乱で赤松政則が播磨守護職に返り咲くと、広瀬近江守盛雅が谷城と稲荷山城の
城主に任じられた。盛雅の子孫は永良を称し、
永禄三年(1560)に落城するまで永良荘一帯を支配した。
そもそも永良氏は赤松一家衆の一つであったが、
則綱以後の歴史は系譜をはじめとして不明というしかない。戦国期の
広瀬氏も宇野氏の一族といわれるものの、その系譜を詳らかにすることはできない。
さらに、永禄三年の落城に関しても羽柴秀吉の播州攻めによるものというが、
明らかな妄説に過ぎない。おそらく、赤松宗家と浦上氏が争った擾乱において
永良氏は赤松氏に属して敗れ去ったものであろう。
このように永良氏の歴史は不明なところが多く、永良氏が拠った山城も
遺構が歴然と残っているにも関わらず、その城史は判然としないのである。
・南山麓より城址を見る
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登り口に鎮座する大歳神社 ・ ハイキングコースを登る ・ 南尾根筋の堀切 ・ 堀切後方尾根の竪堀 ・ 切岸に残る石垣址 ・ 西城道と主曲輪との分岐
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主郭へ(右手腰曲輪) ・ 主郭南腰曲輪から主郭を見る ・ 主郭へ ・ 主郭から曲輪越しに市川市街を鳥瞰 ・ 主郭西帯曲輪
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谷城は山上の主郭を中心に、南北尾根に腰曲輪を段状に築き
主郭西部に帯曲輪を配した梯郭式の山城である。
そして、大手側の南尾根先に二重の堀切、北尾根先に三重の堀切を切って
城域を画定している。
主郭をはじめとした曲輪群は十分な広さを有し、
曲輪ごとの切岸も高く削平も丁寧に行われ、一部に石垣址も確認できる。
北曲輪と南曲輪を結ぶ城道が城址西方に設けられ、井戸址西山腹にが残るなど、
東方からの攻撃を意識した縄張となっている。
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曲輪切岸に残る石垣址 ・ 主郭北腰曲輪切岸と土塁 ・ 北曲輪から主郭を見る ・ 竪堀 ・ 北曲輪から主郭部を見る ・ 北尾根先の堀切
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堀切/横堀が連なる北尾根 ・ 西斜面の井戸址 ・ 主郭西の城道 ・ 大歳神社の石垣 ・ 玉垣に刻まれた「永良」の名字
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……………
谷城址一帯は里山の自然公園として整備され、南山麓に鎮座する大歳神社から
ハイキングコースが設けられており、迷うことなく城址へ登ることができる。
北方尾根をつめていけば稲荷山城へと至り、見方によれば谷城が居館、
稲荷山城が詰めの城といった関係にあったようにも思われる。
実際、稲荷山城は小曲輪を階段式に連ねた連郭式の構造で、
谷城に先立って築かれた旧式の山城にみえる。
おそらく、領地支配の拠点として新たに谷城が築かれ、
稲荷山城は詰めの城として改修が施されたのではないか。さらに、
大歳神社の境内一帯が平時の居館であった可能性も捨てがたい。
ともあれ、谷城址は近代城郭を思わせる構造で、城域も広く、
高い切岸を有した曲輪群、土塁・竪堀、たくみに設けられた城道、
城域南端・北端の堀切、井戸址などなど見所の多い城址だ。
谷城・稲荷山城を築き、永良荘を支配下においた永良氏だが、その歴史は漠としており
戦国時代における動向も必ずしも明らかにはされていない。
下山したのち、大歳神社本田を取り巻く玉垣を見ると、城主の子孫と思われる永良氏や
能登・岩城・加賀井・古隅といった家臣のものであろう名字が刻まれている。
失われた歴史を復元することはできないが
いまも中世以来の名字が続いているのは、なんともゆかしいとことであった。
・主郭案内板の縄張図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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