若狭武田氏
割菱
(清和源氏武田氏流) |
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清和源氏で、源義光を先祖とする。信義のとき武田村に住んで武田姓を称した。その子信光は、承久の乱の勲功によって安芸守護に補任されたが、鎌倉時代を通じて守護だったわけではなく、また、初めのころは本拠は甲斐にあって、守護代が派遣されていた。
しかし、鎌倉末期になって、信宗のとき銀山城を築き、在地に勢力を扶植していった。その子信武は南北朝の内乱で足利方に属して安芸守護職に任じられ、まもなく後醍醐方に転じた一族の政義に代わって甲斐守護職も獲得した。
安芸武田氏の出頭
南北朝争乱の時代、信武は安芸国人をひきい、尊氏に属して各地を転戦した。さらに、尊氏と弟直義が対立した「観応の擾乱(1350〜)」にも一貫して尊氏に属した。そして、直冬(直義の養子)党に呼応する北条・毛利・寺原氏らを討つため、二男氏信を安芸に下向させて激闘を展開させた。
延文四年(1359)、信武は没したが、甲斐国守護職は嫡男の信成、安芸国守護職は二男の氏信がそれぞれ継承して、ここに甲斐と安芸の両武田氏が分立したのである。
以後、氏信は安芸の直冬党と戦いを繰り返したが、戦況は思うように展開しなかったため、責任を追求され安芸守護職を改替されてしまった。とはいえ、武田氏はその後も銀山城に拠って、安芸中央部に根強い勢力を保持した。
氏信のあとを継いだ信在は、明徳三年(1392)の相国寺供養に際して足利義満に供奉したことが知られる。しかし、安芸国守護には、細川頼元、渋川満頼ら足利一門が補任され、信在は本拠の佐東郡守護に任じられた。これは郡守護というべき存在で、以後、武田氏が安芸一国守護職に補任されることはなかった。
永享二年(1430)のころ武田信繁が、佐東.山県・安南の三郡守護職の地位にあったことが知られ、銀山城を中心に、温科・香川・戸板・壬生などの国人層を家臣化して、一定の勢力を堅持していた。そして、周防・長門の有力大名大内氏への抑え役としての機能を果たしたのである。
若狭一国守護職を得る
永享十二年(1440)、大和永享の乱に出陣していた武田信栄は、将軍足利義教から一色義貫討伐を命じられた。一色氏を討った信栄は、義教から恩賞として一色氏の遺領のうち若狭守護職と尾張国智多郡を与えられ、分郡守護に甘んじていた武田氏は、一国守護職を得たのである。信栄のあとは弟の信賢が継ぎ、嘉吉元年(1441)に起った嘉吉の乱に活躍し、着々と若狭の領国支配体制を確立していった。
一方、安芸では大内氏との対立が深まってきた。武田氏は管領細川氏の支援を得て大内氏と対抗し、文安四年(1447)、長禄元年(1457)と大内氏との戦いを繰り返した。長禄元年のときは、本拠である銀山城まで大内軍が攻め寄せたが、幕府の命を受けた毛利、吉川氏の支援を得て、どうにか落城をまぬがれることができた。
このように武田氏は大内氏と対峙を続けたが、銀山城において武田軍を指揮していたのは信賢の父信繁であった。当時、信賢は若狭の領国支配の確立に忙しく、安芸では信繁が分国守護代として経営にあたっていた。そして、信繁が死去してのちは信賢の弟元綱がその地位を継承した。
応仁の乱(1467)には、大内氏との対立関係から東軍細川方に属し、武田信賢は赤松政則らとともにその中核をなした。信賢は弟の国信、元綱らを率いて、京都で市街戦を展開した。やがて、元綱が大内方の毛利・福原氏らの勧誘を受け、大内方に転向した。それと前後して信賢が死去し、弟の国信があとを継いだ。国信は動揺した武田家の家督を継ぐと、よく勢力をまとめて危機を乗り越えた。
元綱が大内氏方に奔ったのは、安芸分国守護代的地位から脱却して、惣領家からの分離独立を図ったが、思うように独立できなかった元綱は大内氏に摺り拠っていったのであろう。その後、国信は元綱と和解し分国守護職は国信が掌握した。
若狭武田氏の成立
国信が没したあとは嫡子の元信が継ぎ、若狭守護職、安芸分国守護職を受け継いだ。一方、安芸の元綱のあとは元繁が継承した。
明応二年(1493)、管領細川政元が将軍義材(義尹・義稙を追放するという政変が起った。この政変に際して、元信は細川方に与したが、義材が越中に逃れ、さらに大内義興を頼って山口に下向して将軍職回復への協力を訴えた。その間、元信は義材に協力するとの噂が流れ、細川氏からその進退を疑われた。他方、安芸では大内氏が侵攻し、さらに温科国親が武田氏に背いた。温科氏の叛乱は熊谷膳直が討ち取ったが、大内氏との関係は悪化した。
永正五年(1508)、大内義興は足利義尹(義材改め)を奉じて上洛軍を起し、これに武田元繁も従った。一方、京の元信はこれに応じるという噂もあったが、幕府軍との密接な関係を維持した。これ以後、元信の子孫は若狭国を本拠とするようになり、安芸分郡の経営は元繁系があたり、安芸武田氏は若狭と安芸に完全に分立したのであった。
若狭武田氏は、甲斐武田氏から安芸武田氏が分立し、さらに安芸武田氏から分立した家といえよう。そして、若狭武田氏の祖は信繁の子信賢とされる。しかし、信賢の兄信栄が将軍足利義教の命によって永享十二年五月、一色義貫を討伐した功により若狭国を賜り守護職を得たのがはじめとすべきであろう。ちなみに、若狭武田氏は元明まで続いたが、信栄を初代として元明を九代に数えている。
ところで、信繁・信栄・信賢の親子関係については系図によってまちまちである。
たとえば、信栄・信賢の関係を
信繁−信栄┬信賢
└国信−元信 と、父子とする系図
信繁┬信栄
├信賢
└国信−元信 と、兄弟とする系図がある。
下記、若狭武田氏系図では、信栄と信賢が在世した年代的なことも考えて兄弟説によった。
乱世に翻弄される
文亀二年(1502)、元信は幕府相伴衆となったものの、度重なる出兵で土一揆が勃発し、一族が討たれるなど領国経営は苦しい状態にあった。さらに一色氏の残党が暗躍するなどしたため、永正三年(1506)、細川氏の応援を得て一色義有が支配する丹後へ侵攻した。戦いは長期化し、翌年には管領細川政元自身が軍を率いて若狭・丹後へ向かったが、結果は武田軍の敗北となった。その翌年、「永正の政変」が起り、政元は養子澄元を擁する香西元長らに殺されてしまった。その後、永正十四年になると丹後軍が若狭に侵攻、元信は朝倉氏の支援を得て丹後に進撃し、丹後の一部を占領することに成功した。
元信は若狭の領国支配に苦労しながら、文芸面での活躍も知られる。三条西実隆、甘露寺親長、飛鳥井兄弟ら当代一流の文化人と親交を重ね、和歌、連歌、古典籍に通じていた。そして、晩年の大永元年(1521)十月には守護大名として異例の従三位にのぼっている。
元信のあとを継いだ元光の代になると、時代は確実に戦国の様相を濃くし、若狭国内では丹後との緊張に加え、重臣間の軋轢も表面化してきた。元光は後瀬山に新たな城を築き、守護館を山麓に移すなどして、油断のならない時代に対応している。室町時代の守護は在京して将軍に奉仕するのが原則で、武田氏も在京することが多かった。しかし、応仁の乱以後、幕府内部では権力闘争が繰り返され、元光は京から領国に下向し、以後、在国が常態化した。そして、元光が築いた後瀬山城と守護館が、滅亡まで若狭武田氏の拠点となった。
管領細川氏の内訌に際して元光は細川高国に味方し、大永六年末、京に出兵した。翌年、三好勝長・柳本賢治らの軍と京都西郊で戦い、大敗した高国、元光らは近江へ落去した。この敗北は国元にも波及し、丹後の海賊らが若狭の浦々を襲撃したが、国人衆の活躍でことなきをえている。
天文四年(1535)元光は出家し、嫡男信豊に家督を譲ろうとしたが、弟の信孝を擁立する勢力があり、にわかに波乱含みとなった。さらに、これまで元光を軍事的に支えてきた粟屋党が離反し、天文七年には武田氏との間で武力衝突が起った。元光は幕府の支援を得て内紛常態を克服、天文八年、信豊の家督継承を実現した。
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・武田氏が戦国時代に拠った後瀬山城址。
・武田元信が建立した福応山佛国寺(後方に後瀬山城址)、境内の一隅にある武田元信の墓所。
・武田元光が建立した霊松山発心寺、境内墓地にある武田元信の墓碑。
→ 後瀬山城址に登る
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家臣団との抗争
家督となった信豊は細川晴元に味方して、天文十一年三月、三好長慶と河内太平寺に戦ったが、武田氏の軍事力の中心をなす粟屋党の面々を多数失う敗戦となった。信豊は武将としての素質に関しては疑問を残すが、文化面では武家故実の筆写をよくし、連歌師宗養や吉田兼右らが若狭へ下向している。天文二十一年(1552)には、三好長慶に京を逐われた細川晴元を庇護し、連歌興行を行って晴元を慰めている。同二十三年、細川晴元を支援して逸見昌経や粟屋氏ら大飯郡の武士たちを丹後・丹波へ派遣し、晴元方の丹波勢とともに三好党の松永長頼と戦っている。
その後、信豊の隱居をめぐって被官人の間で争いが起こり、 信豊を支持する弟で小浜新保山城主の信高が没したため、家督を子の義統に讓った。しかし、それで円満解決とはならず、義統と不和となった信豊は六角氏を頼って近江に逃げるという事態になった。永禄元年(1558)、信豊は若狭への帰国を果たすため、義統軍と戦うなど親子での争いが続いた。この内紛は、信豊・義統をそれぞれ支援する家臣間の対立が背景にあり、被官人の分裂を深め、武田氏は家臣統制力を失っていったのである。
そして永禄四年、国吉城主栗屋勝久と砕導山城主逸見昌経勢の反乱が起こった。義統は朝倉氏に支援を求め、逸見氏・粟屋氏らの連合軍に立ち向かい、叛乱を制圧したものの、逸見氏、粟屋氏を討伐するまでには至らなかった。その後も粟屋、逸見氏らの反抗は続き、永禄九年、逸見氏は粟屋勝久と連携して義統の子元明を擁立し、高浜と三方という東西で叛乱を起こした。
義統はふたたび朝倉氏に援軍を頼み粟屋氏を包囲すると、自らは逸見氏に立ち向かい、これを打ち破っている。義統は政治力はともかくとして、武将としての素質はなかなか優れた人物であったようだ。しかし、落日の若狭武田氏を建て直すことはできなかった。
永禄十年(1567)四月、義統は父信豊に先立って死去し、嫡男の元明が家督を継いだ。元明の代になると家臣の多くは元明を軽視し、守護とは名ばかりに過ぎない存在であった。翌十一年、越前朝倉氏が若狭に侵攻し、元明は越前へ拉致された。以後、若狭中心部は朝倉氏の支配に入ったが、被官人の一部は信長に通じ、元亀元年(1570)、織田信長が朝倉氏攻撃のため若狭へ下向すると、多くの被官人はこれに従った。
若狭武田氏の滅亡
天正元年(1573)、朝倉義景が滅亡した後、若狭は丹羽長秀に与えられた。元明も一乗谷から若狭へ帰国し、粟屋勝久らかつての被官人の嘆願により信長から赦免され、神宮寺に蟄居したとされる。とはいえ、その後も若狭被官人を束ねる地位にあったと考えられる。天正九年、逸見昌経没後、彼の所領大飯郡のうち三千石を与えられた。
翌天正十年六月、本能寺の変で織田信長が殺されたとき、勢力挽回を目論んで明智光秀に加担し兵を起こした。丹羽長秀の佐和山城を攻め落としたものの、山崎の合戦で光秀が羽柴秀吉軍に敗れると、丹羽長秀に海津に呼び出され自害を強いられた。元明にとって抗らうすべもなく、ここに若狭武田氏は滅亡した。
余談ながら、元明の室は室は京極高吉の女で、その美貌に目を付けた羽柴秀吉が元明室を手に入れるため、元明を自害させたともいう。のちに、元明室は豊臣秀吉の側室となり、松丸殿を名乗っている。
【参考資料:室町幕府守護職事典/戦国大名系譜人名事典/福井県史 ほか】
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■参考略系図
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