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上総武田氏
●割 菱
●清和源氏武田支族
 


 武田氏は清和源氏で、新羅三郎義光の後裔。その発祥地は甲斐国北巨勢郡武田村といわれているが、常陸の武田郷とする説もある。義清から義光を経て信義にいたり、信義は以仁王の令旨に応えて甲斐源氏を率い挙兵、木曽義仲および源頼朝に兵を送って戦功を挙げ、甲斐守護を安堵されたのである。
 元弘の動乱に際しては、北条氏に従って笠置を攻めたりしたが、建武新政下に起った「中先代の乱」に、北条時行軍に加わって大打撃を受けた。その後、足利尊氏に属して箱根竹之下の合戦に活躍、以後、武家方として行動し陸奥・伊豆・駿河・若狭・安芸・薩摩などに所領を広げていった。

甲斐の内乱

 南北朝合一がなって間もない応永二十三年(1416)、関東の地で、公方持氏と前管領上杉氏憲(禅秀)が対立し、「上杉禅秀の乱」が起こった。ときの甲斐守護の武田信満は禅秀の舅であった関係からそれに与し、翌年、鎌倉府の軍勢に攻められて敗れ木賊山で自殺した。信満の子信重は叔父信元とともに出家して上方に逃れ、甲斐武田氏は滅亡の危機に瀕した。守護不在となった甲斐国では、国人層が自立の方向へと向かい、その勢力を拡大していった。
 公方持氏は逸見有直を甲斐守護にして欲しいと幕府に要請したが、室町幕府はこれを認めず信元を守護に任じて帰国させた。しかし、信元は間もなく没したため、信重の弟信長の子で養子の伊豆千代丸が国務を代行したが、幼主伊豆千代丸の命を聞かない守護代跡部氏の動きなどもあって甲斐一国は動揺を続けた。幕府は、信重を新守護に任命して帰国させようとしたが、信重は甲斐の国情を恐れ、固辞して受けなかった。
 伊豆千代丸の実父信長は甲斐国内を転戦して逸見氏らと戦ったが、公方持氏の親征を受けて降服し鎌倉府に出仕した。以後、甲斐は守護代跡部父子が権力を握り、これに加担する輪宝一揆と、信長の組織した日一揆を率いる伊豆千代丸とが対立した。この事態に信長は鎌倉を遂電して帰国すると、日一揆と協力して跡部方と戦ったが敗れて国外に逃れ去った。その後、信長は京都にあって将軍義教の保護を受けていたという。
 やがて、鎌倉公方足利持氏と将軍足利義教との対立が深刻となり、「永享の乱」が勃発、幕府は持氏追討の兵を発した。幕府軍をを迎え撃った持氏は敗れて捕えられ、自害を命じられて鎌倉府は滅亡した。その後、持氏の遺児春王丸・安王丸らを擁した結城氏朝と、それを支援する関東の諸将は結城城に籠って鎌倉府再興の兵を挙げた。「結城合戦」と呼ばれる争乱で、この合戦に信長は京都から進発した結城城攻略軍に参加して結城城を攻撃した。嘉吉元年(1441)、結城城は陥落し春王丸・安王丸は京都に送られる途中の美濃で殺害された。
 戦後、信長は功により、相模の曽比・千津島の地を賜った。その後、持氏の遺児永寿王丸が赦され、成氏と名を改めて鎌倉公方になると、信長はその近臣となった。新公方となった成氏は、関東管領上杉憲忠と対立するようになり、享徳三年(1454)、憲忠を殺害して「享徳の乱」を引き起こした。

上総武田氏の誕生

 享徳の乱は、京都で起こった「応仁の乱」に匹敵するもので、成氏方と上杉方との間で合戦が繰り広げられ、二十余年間にわたって関東を戦乱に巻き込んだ。武田信長は里見義実らとともに成氏方に味方し各地を転戦し、一連の戦功によって上総守護代に任じられた。
 康正元年(1455)、信長は里見義実、簗田出羽守らとともに、山内上杉房顕の拠る武蔵国騎西城を攻め落とし、翌年、成氏が幕府側の千葉自胤を市川城に攻めたときもこれに応じ、続いて子の信高らとともに上総地方へ侵攻した。上総に入った信長は庁南・真理谷の二城を築いて根拠とし、庁南城は上総東部を制し、真理谷城は上総西部を鎮する役割を担った。さらに久留里や椎津・造南・峰上・笹子などに城を築いて一族を配置し、支配体制を確立していった。そして、真理谷城には嫡男の信高を入れ、自らは庁南城に拠った。
 こうして、武田信長は上総に拠点を築き上げ、上総武田氏の祖となったのである。このころ、信長は六十歳に達していたようで、間もなく隠居し、文明九年(1477)ごろ八十歳位で没したらしい。信高も父と前後して死去したようで、信高のあと、庁南城には長男の道信が入り、真里谷城には信興が、久留里城には信房が入ったという。そして、道信の系は庁南武田氏、信興の系は真里谷武田氏と呼ばれ、両武田氏として明確に区分されるようになった。
 とはいえ、武田氏の上総における動向は必ずしも明確ではない。武田氏の上総における最初の確実な史料は、享徳十一年(1462)の『飯富宮梵鐘銘』で、信長が上総に入ったとされる康正二年から六年後のものである。銘文には「大旦那前三河守清嗣」とあり、清嗣は系図上の武田信興と同一人とされている。

関東の争乱

 享徳の乱に際して幕府は、上杉氏を応援して成氏討伐の軍を発した。幕府軍の攻撃によって鎌倉を失った成氏は下総古河に走り、以後「古河公方」を称した。そして、利根川をはさんで成氏勢と上杉=幕府勢は対峙し、戦乱はやむことなく続いた。この間、上総武田氏は千葉氏、里見氏らとともに、一貫して公方成氏を支援した。
 長禄三年(1459)、成氏は上杉房顕軍と武州太田庄に戦い、ついで、上杉房定と武州海老瀬・羽継原に戦った。しかし、決着はつかず成氏は古河に、房顕らは五十子の城に帰った。戦局は次第に成氏方の優勢となっていった。この情勢に気をもんだ将軍義政は、関東・奥羽の諸将に御教書を下して成氏を追討するように命じ、また、堀越公方政知に命じて成氏方の諸将を懐柔することに努めさせた。
 これに応じて、成氏方の有力大名である結城成朝が上杉方に転じた。それでも安心しない義政は武田信長を誘ったが、結城氏以外の諸将は格別な動きは見せなかったようで、以後も、成氏方と上杉=幕府方との小競り合いが続いた。応仁元年(1467)、京都で「応仁の乱」が起こったが、関東は永享・享徳の乱以降、ほとんど戦国の状態が続いていて、応仁の乱の影響はとくに目立つものではなかった。しかし、関東・京都をはじめとして、時代は確実に戦国の様相を濃くしていった。
 文明十一年(1479)、上杉方の太田道灌は千葉自胤と太田資忠に命じて、成氏方の千葉孝胤・原胤房らが拠る臼井城を攻撃させた。臼井城は太田軍の攻撃をよく防ぎ、千葉自胤は上総に兵を向けた。このとき、庁南城と真里谷城の両武田氏は千葉自胤によって攻められ、それぞれの城主である道信と信興はともに自胤に降った。
 文明十四年(1482)、成氏と幕府の和睦がなり「享徳の乱」が終熄した。ところが今度は、両上杉氏が対立するようになり「長享の乱」となった。このころになると、武田氏は自立への道を歩みだしたようで、永正七年(1510)には禁裏御服御料所であった上総畔蒜荘を押領するなど、着々と勢力を拡大していった。信興の死後、真里谷武田氏を継いだのは信勝で、信勝は永正四年(1507)に佐貫の鶴峯八幡神社を再興した武田信嗣に比定され、鹿野山神野寺の再建をしたことも伝わっている。

原氏との抗争

 十五世紀後半になると伊豆の伊勢新九郎(北条早雲)が勢力を拡大し、延徳三年(1491)堀越公方政知の死後に起こった公方家の内紛に乗じて堀越公方家を滅ぼし、伊豆を奪うと韮山に拠点を築いた。早雲の伊豆討ち入りは最近の研究では、明応二年(1493)のことであったともいわれている。
 関東進出を目論む早雲は、明応四年(1495)、大森氏の拠る小田原城を攻略して相模に拠点を築くに至った。永正十三年(1516)には相模の強豪三浦氏を滅ぼし、小田原北条氏五代の基礎を築き上げたのである。さらに、早雲は古河公方家に謀略の手を伸ばし、古河公方に内紛が生じた。公方政氏の子高基は管領上杉氏を嫌って父と不和になり、ついに両者の対立は武力衝突に発展した。永正九年(1512)政氏は古河を去り、高基が古河城に入り実質的に古河公方となった。
 これより先に、政氏の子で高基の弟にあたる義明が父兄との不和から古河を去り奥州を放浪していた。義明は出家して鶴岡八幡宮別当となり空然と名乗って鎌倉に住していたが、武勇を好んで還俗した人物であった。そして、北条早雲やこれと接近した高基・晴氏を快からず思っていたのである。他方、このころ房総では、庁南の武田宗信が小弓城主の原胤隆と国境をめぐって紛争を起していた。小弓城主の原氏は千葉氏の力を背景に、下総南部から西上総の養老川下流域にかけて勢力を振るい、庁南宗信はこれに対抗したが情勢は原氏が優勢であった。
 真里谷信勝は庁南宗信に対する原氏の圧迫を打破するため、奥州を放浪していた古河公方足利政氏の子義明を迎えて大将とし、さらに里見氏ら房総勢の協力を取り付けて、永正十四年(1517)、小弓城を攻撃した。小弓勢はよく戦ったが、ついに小弓城は落城し原胤隆は討死した。落城後、義明が小弓城に入り「小弓御所」と呼ばれるようになった。またこの時期、信勝は早雲の応援を得て、領地争いをしていた三上氏の拠る真名城を攻略し、真里谷武田氏の威勢をおおいに上げている。信勝のあとは信保(恕鑑)が継承して、小弓御所義明の管領となり上総一円に勢力を拡大した。
 永正十六年(1519)早雲が死去し、長男の氏綱が家督を継ぐと後北条氏はさらに勢力を拡大をしていった。大永四年(1524)、氏綱は扇谷上杉朝興を江戸城から追い、河越城に奔らせた。信保は上杉朝興に味方して氏綱に抵抗し、義明の命を受け里見実堯らとともに、江戸城下の港湾都市・品川や今津などを海上から攻撃した。

里見氏の内訌

に着手した。翌天文二年、氏綱は再建のための奉加を関東の諸将に求めるため、快元僧都を諸将のもとに送った。そのときの記録が『快元僧都記』であり、当時における関東諸将の名を知ることができる貴重な史料となっている。
 鶴岡八幡宮は関東の武家の崇敬を集めるところであり、氏綱はこの造営事業を契機として関東において政治的優位に立つとともに、関東諸将の去就をも探ろうとしたのである。すなわち、氏綱からの造営協力に応えることは氏綱に従うことになり、反対すれば八幡宮に弓を引いたといわれる。まことに巧妙な遣り口で、氏綱は下総小弓にも造営への協力を求める使者を派遣した。
 小弓は真里谷武田恕鑑(信保)の力を後楯として、下総・上総を治める小弓御所足利義明の居館であった。このころ、武田恕鑑は扇谷上杉朝興と結んで氏綱と対立しており、義明も兄の古河公方高基が氏綱に近付いていることから、後北条氏とは険悪な関係になりつつあった。
 この年、安房の里見義豊は叔父実堯を殺害し実堯の嫡子義堯を逐って、里見氏の家督を奪い取ったばかりであった。逃れた義堯は北条氏綱に援けを求め、氏綱もまた房総攻略の好機として義堯を支援したのであった。一方の義豊は小弓御所を擁する真里谷武田氏と結んで、義堯に対峙し、小弓御所足利義明と武田恕鑑、安房の里見義豊らは造営への協力依頼を拒否したのである。その結果として、房総勢と後北条氏の対立は鮮明となった。
 翌天文三年、北条氏綱の支援を得た義堯は兵を挙げ、犬懸の合戦で義豊軍を破り、稲村城に逃れた義豊を自害させると里見氏の家督を継ぐことに成功した。このとき、真里谷武田氏は後北条氏への対策に追われて、義豊に援軍を送ることができず見殺しにする結果となった。

真理谷武田氏の内訌

 やがて、小弓御所とこれを庇護する武田恕鑑との間に齟齬が生じ、相互に不穏な空気が流れるようになった。これは、御所として次第に専横を振うようになった義明に対して、武田恕鑑は後北条氏に気脈を通じる気配を見せるようになった。当然、御所義明は恕鑑に対して面白くない感情を抱き、恕鑑を疎んじるようになった。恕鑑は義明にとって大恩人であり、義明から勘気を蒙った恕鑑は怒りのために病を発して天文三年(1534)に憤死した。
 恕鑑には二人の男子があり、兄を信隆といい弟を信応といった。信隆は長男ながら庶出であったため、一族の多くは嫡出の信応を家督にしようとしたが幼少のため信隆が家督を相続した。そして、信応の後見には信保の弟信助を頼み真理谷城においた。その結果、両者の間に家督をめぐる不和が生じ、信隆は真理谷城を出て峯上・百首の諸城に拠り、信応らの一族とにらみ合いの形となった。
 信隆は後北条氏の力を後楯とし、信応らは小弓御所義明の力を背景として互いに争うようになったのである。そして、その抗争が表面化したのは、天文六年(1537)のことであった。真理谷城の武田信応らは小弓義明の出馬を請い、信隆らの拠る諸城に向かって攻勢に出た。このとき、小弓義明は里見義堯にも参戦を命じた。義堯は家督相続の際における後北条氏の援助を徳としていたが、断れば小弓公方の大軍を敵にまわすことになり、ついに後北条氏寄りの姿勢を変じて小弓公方に味方した。
 かくして、里見義堯は房州から兵を出して、信隆方の百首等の諸城を攻撃した。こうして、下総・上総・安房の兵のほとんどは小弓御所に味方したため、信隆は打つ手もなく降伏し、百首の城を出ると後北条氏を頼って武蔵の金沢に逃れ去った。この武田氏の内訌が契機となって、小弓御所を中心とする武田・里見氏ら房総勢と後北条氏の対立は決定的となった。

国府台の合戦

 後北条氏は早雲以来、駿河の今川氏と親しい関係にあり、早雲は今川氏の支援を得て勢力を拡大したといっても過言ではない。ところが、今川義元が後北条氏を差し置いて甲斐の武田氏と単独の同盟を結んだことから両家の間に亀裂が走った。
 氏綱は先代の今川氏輝の依頼で甲斐に兵を出したこともあり、駿河には早雲以来の領地もあった。何よりも甲駿同盟の成立で、後北条氏は背後に脅威を有することになり、氏綱は機先を制して駿河に出兵し富士川以東の地の確保に成功した。このような後北条氏の状況を好機とみて取ったのが、小弓御所義明と里見義堯だった。かれらは、兵を出し後北条氏の領国に迫ろうとした。
 一方、氏綱も兵を下総に向けた。こうして天文七年十月、下総国国府台で合戦が行われた。結果は、足利・里見連合軍に倍する兵力を動員した氏綱率いる後北条軍の一方的勝利に終わった。敗れた公方義明は戦死し、里見義堯は安房に逃げ帰り、以後、安房の地に逼塞した。この戦の結果、後北条氏は房総半島への負担を軽くでき、領国拡大をさらに押し進めていくことになる。
 信隆は金沢から中島に移り、椎津城に子の信政とともに入城した。ここに信隆は真里谷武田氏の惣領に返り咲き、上総に舞い戻った信隆は後北条氏の力を背景に、その上総進出の先兵的役割を担って湾岸沿いの椎津城に入った。そして、椎津城を拠点に領国経営と椎津城の防衛に努めた。

真里谷武田氏の内紛ふたたび

 ところで『笹子落草紙』『中尾落草紙』などには、真里谷武田一族間に内訌があったことが記されている。すなわち、天文十二年(1543)の春、武田信隆は近臣から笹子城主真里谷信茂に謀叛の兆候があるとの讒言を受けた。その讒言を信じた信隆は、ただちに後藤兵庫助と鶴見内匠助の二人を刺客として差し向け、信茂を討ち取った。ところが、その後まもなく信隆は急病で死去したため、信茂の祟りで七転八倒の苦しみの末に死去したという因縁話が伝えられている。
 信隆の死によって、監物河内という人物が後藤兵庫助と謀って、兵庫助の三男を真里谷城主にでっちあげようとした。一方、信隆の命により笹子城を守っていた鶴見内匠助は、監物と後藤の陰謀を知ると激怒して真里谷信秋らに通報して、監物河内の居宅を焼き討ちした。これを知った後藤兵庫助は、大多喜城主真里谷信清に援助を請い、信清もこれを承諾して、さらに北条氏康の援助を頼んだ。氏康は上総攻略の好機として兵を送り、笹子城は後北条氏の大軍に囲まれて落城した。
 この事態を知った真里谷信秋は怒ったものの、一人で大軍にあたることもできず、久留里城主の里見義堯に援助を求めた。義堯は正木時茂・時忠兄弟に出陣を命じ、自らも兵を率いて真里谷信秋とともに後藤の兵と後北条氏の兵の拠る中尾城を攻撃し、たちまちこれを攻め落とした。以上が『笹子落草紙』などの物語に残された真里谷武田氏の二度目の内紛のあらましである。しかし、武田信隆が死去したのは天文二十年であり、どこまでが真実かは知るよしもない。しかし、笹子城址、中尾城址などがいまも残っていることから、何らかの真実は反映しているものと思われる。
 たしかに信隆は、天文十二年に信茂を攻めて討ち取っているが、それは信茂の下剋上的行動を信隆が制圧したものであった。以後、信隆は天文二十年に死去するまで、椎津城主として領国経営にあたっていた。その間の天文十八年、里見氏の攻撃によって小久留城、佐貫城を攻略されており、領国経営は厳しいものがあったようだ。
 信隆の死後、信政があとを継ぐと、里見義堯は嫡子の義弘、正木・土岐氏らを率いて椎津城に押し寄せた。信政は小田原からの援兵とともに城から打って出たが、激戦のすえに敗退し、城内に引返した信政は自刃して果てた。天文二十一年(1552)のことで、椎津城を収めた義堯は守兵をおいて久留里城に帰り、ここに上総は里見氏の掌中に帰したのであった。

打ち続く戦乱

 やがて永禄三年(1560)になると、後北条氏に逐われて関東から越後に逃れていた管領上杉憲政を擁した越後の長尾景虎が関東に出陣してきた。この景虎の出現によって情勢は大きく転回することになる。
 景虎はこのときの越山において、上杉陣営に参じてきた関東諸将の幕紋を記した『関東幕注文』を作成した。そのなかには、里見・正木・酒井・高城・山室などの房総諸将の幕紋が記されているが、真里谷・庁南の両武田氏の幕紋は記されていない。このころ、真里谷武田氏は里見氏の麾下として認識されていたものと想像され、一方の庁南武田氏は信玄の実子が家督にあったことから景虎の陣に加わらなかったのであろう。
 さて、真里谷信政が滅亡したあとの真里谷武田氏は信応の流れが継承し、信応のあとは信高が継いで上総介を称した。永禄七年(1564)の第二次国府台合戦では、里見氏に属して出陣したようだ。『房総里見軍記』『関八州古戦禄』などによれば、真里谷信応、弟の信秀、子息の信高、そして庁南武田信栄(豊信)・氏信父子ら武田一族はこぞって里見氏に従軍したとある。
 国府台合戦は緒戦に里見氏と太田氏の連合軍が勝利したものの、後北条氏の奇襲によって敗戦となった。真里谷信高、庁南豊信らは奮戦したが、里見氏らとともに敗走し一族の信秀が討死している。合戦に勝利した後北条軍は敗走する里見軍を追って南下し、椎津城に迫った。この事態に、真里谷信高や庁南豊信、土岐氏、東金の酒井氏らは後北条氏に款を通じて里見氏から離脱した。そして、里見方に残ったのは土気の酒井氏、秋元城主の秋元氏、池和田城主の多氏らであった。そして、この年の十一月、真里谷信応が他界している。
 永禄八年、後北条氏は土気城の酒井胤治を攻め、翌年には上杉謙信が後北条方の原氏の籠る白井城を攻めた。このように、上杉=里見勢と後北条勢との小競り合いが続いたが、情勢は里見氏に不利に推移していた。そして永禄十年、後北条氏は一気に里見氏を攻め滅ぼそうとして北条氏政・氏照を大将として一万の軍勢を上総に送り、後北条軍は三船山に陣を取った。対する里見義弘は、正木時茂の出陣を促し、みずからも佐貫城から出陣した。義弘は後北条氏を相手にたくみな戦術を展開して、十倍に近い後北条軍を撃破した。奇跡的な勝利といっていいもので、後北条勢は岩付城主の太田氏資をはじめ、多くの将士が戦死した。この里見軍の勝利を見た真里谷信高や庁南豊信らは、ふたたび里見氏に服属したようだ。

時代の急転

 永禄十一年、甲斐の武田信玄が駿河に侵攻を開始したことで甲駿相同盟が崩れ、後北条氏は謙信との同盟を望むようになり、ついに永禄十二年「越相同盟」が結ばれた。これまで、謙信と結んで後北条氏と戦ってきた里見氏にとって、越相同盟の成立は謙信に裏切られたの感が強いものであったろう。そして、里見義堯・義弘父子は武田信玄からの誘いに応じて「甲房同盟」を結んでいる。
 一方、後北条氏も里見氏との和睦を望んでいたようで、北条氏康が死去した元亀二年(1571)、氏政は里見氏との和睦の斡旋を武田信玄に依頼した。信玄は庁南城主武田豊信に使いを送って、和睦の実現への努力を要請した。豊信にとって信玄は実父(異論はある)であり、早速久留里城を訪れて義堯に会ったが、義堯は頑として受け付けなかった。逆に後北条氏が駿河方面を注目していることを好機として、義弘に命じて下総に侵攻させた。
 元亀三年、武田信玄は上洛の軍を起したが、翌年、病を得て軍を甲斐に帰す途中の信州駒場で死去した。この信玄の死によって里見氏と武田氏の甲房同盟は自然消滅し、里見氏は上杉氏との房越同盟を復活したようだ。天正二年(1574)、里見義堯が死去し義弘があとを継ぎ久留里城主となった。やがて、後北条氏は里見氏の本城である久留里城に迫る勢いをみせ、守勢に立たされた義弘は、再三にわたって上杉謙信に関東出陣を要請したが、越中攻略に忙しい謙信は関東に出陣する余裕はなかった。ここに至って、里見義弘は北条氏政との和睦を決意し、房相の和議が成立したが、翌天正六年五月に義弘は病死した。
 義弘は弟の義頼を養子としていたが、晩年に男子が生まれことで家督をめぐる内紛が起こった。里見氏は二派に分かれての抗争が繰り広げられ、内紛は義頼が制した。この里見氏の紛争に際して、真里谷武田氏はどちらに加担するでもなく、ただ傍観していたに過ぎなかったようだ。
 このころになると、戦国時代も終焉を迎えようとしていた。天正十年、甲斐の武田勝頼が織田・徳川連合軍の侵攻を受けて滅亡し、同年六月には、織田信長が本能寺の変で死去した。その後、信長の部将羽柴(豊臣)秀吉が台頭し、天下統一事業を押し進めた。天正十五年(1587)里見義頼が他界し、義康が家督を継いだ。翌天正十六年、里見義康は後北条氏に転向した万喜城主の土岐頼春を攻めたが敗れ、以後、土岐氏と消耗戦を繰り返している。

戦国時代の終焉

 信長の死後、羽柴(豊臣)秀吉が台頭し、中国、四国、そして九州を平定するなど天下統一事業を推進した。秀吉は小田原北条氏、奥州の伊達氏らに上洛するように命じたが、後北条氏らは秀吉を侮って命令を無視した。
 小田原攻めを決心した秀吉は、天正十八年(1590)三月、大軍を率いて京都を進発した。後北条方は籠城に決し、関東の諸将に小田原防衛に駆け付けるように檄を飛ばした。これに千葉、原、高城氏らの千葉一族、土気・東金の両酒井氏、万喜城主の土岐氏らが小田原に兵を送っている。このとき、真里谷武田信高と庁武田豊信はどちらに加担するべきか迷ったようで、小田原に兵を送った様子もなく、豊臣秀吉のもとへ参陣もしていない。里見義康は秀吉の求めに応じたが、万喜城の土岐氏と合戦をしていため出陣が遅れた。
 七月、秀吉の降服勧告を受け入れた北条氏直は小田原城を開城し、後北条氏は壊滅した。その間、房総半島には浅野長吉を将とする豊臣軍が進攻し、後北条側に加担したり、中立的態度をおったりした諸将の居城を攻め落としていた。小田原城に入った秀吉は戦後処理をして賞罰を行い、後北条氏が領した関八州は家康に与え、里見義康は参陣が遅れたという理由で上総・下総の地を没収され安房一国だけが与えられた。態度が不鮮明だった両武田氏は、ここにおいて没落の運命となった。
 真里谷城の真里谷信高は徳川勢に降服し、真里谷城を開城すると、下野国の那須に落去し、那須家に寓居して終わったという。その子信経、孫の信相も那須氏に寓居し、信相の子信秋に至って徳川氏に仕えたと伝えている。一方、庁南城主の武田豊信は徳川勢に攻められて自刃して果てたとも、信濃国松代の長国寺に逃れて蟄居しそこで死去したともいわれる。
 こうして、戦国時代の上総に勢力を築き、盛時の所領は併せて二十五万〜二十八万石と推定される真里谷・庁南の両武田氏は没落した。その最期は、まことに呆気無いものであったといえよう。・2005年07月07日

参考資料:君津市史/木更津市史/山用町史/房総通史 ほか】  ●庁南武田氏のページ
 
●武田氏の家紋─考察

■参考略系図
 
 


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