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戦国山城を歩く
若狭守護武田氏が拠った後瀬山城
後瀬山城は丹後街道を見下ろす後瀬山上に、大永二年(1522)、
若狭守護武田元光によって築かれた中世山城である。北方の山裾には守護館が構えられ、
元光以後、代々の若狭武田氏の本拠となった。
武田氏は後瀬山城を本拠に小浜湊を拠点に海外貿易を行い威勢を振るったが、末期には一族や家臣の離反にあい、
勢力を失っていった。
永禄十一年(1568)、ときの当主元明は朝倉氏によって越前へ拉致される有様となった。
その後、元明は小浜に復帰したが非力な存在にすぎなかった。天正十年(1582)、本能寺の変が起こると、
元明は光秀に加担して家名挽回を図ったがならず、近江海津で自害して武田氏は滅亡した。その後、慶長五年、
若狭へ入部した京極高次が小浜城を築くと、後瀬山城は廃城となった。
・右:現地説明板の案内図
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・登城口の愛宕神社鳥居・城址に続く整備の行き届いた道・最初の曲輪群・曲輪の保存状態は良好・本郭手前の土塁
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・土橋と堀切・主郭下の曲輪・主郭を取り巻く野面積みの石垣・主郭の石垣と城址碑・本郭に立つ愛宕神社
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城跡は南北500m、東西350mにまたがる大規模なもので、山頂の主郭を中心に海側の尾根に曲輪が連続して配され、土塁、堅堀、堀切、土橋などが設けられている。主郭は南北90m、東西30の広さで、愛宕神社が鎮座している。主郭の北面を石垣が取り巻いているが、これは武田氏が滅亡したのちの丹羽氏時代のものといわれる。一方、主郭を取り巻いていた野面積みの石垣は、いまも往時の壮大さを実感させる素晴らしいものだ。また、主郭から西南側に下ったところにある曲輪は、
近年の発掘によって築山や礎石を伴う建物遺構が検出され、山上御殿跡と推定されている。
・主郭の南東部の立派な石垣・山上御殿の土塁・主郭と山上御殿を穿つ空掘・八幡方面の堀切・登山口側の竪堀
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城下を歩く
後瀬山城の北麓に建つ空印寺、元光以下の代々が居館とした守護館にあとにある。江戸時代は小浜藩主酒井氏の菩提寺で、
境内の一角には八百比丘尼が入定したという洞窟がある。城下には武田氏ゆかりの福応山佛国寺、霊松山発心寺が散在、
それぞれ武田氏の定紋である「割菱」を寺紋としている。
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武田氏
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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