甲斐武田氏
割菱/花菱
(清和源氏義光流) |
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武田氏は、甲斐源氏の一族であり、嫡流とされている。その祖は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光である。義光は「後三年の役」で兄義家を援けるために官途を捨てて、奥羽に下向した話はよく知られている。義光は乱の平定後に刑部丞に任ぜられ、ついで常陸介・甲斐守を経て刑部少輔に進み、大治二年(1127)に没したという。義光は甲斐守在任中に若神子城に住したというが、確証はない。
武田氏の発祥
武田氏が甲斐に土着したのは、義光の子義清・清光父子である。義清について『尊卑分脈」に甲斐国市河荘に配流されたとあることから、甲斐への下向は配流という形であったことが知られる。しかし、いつ、どこから、どのような理由で配流されたかについては、諸説あって一定しなかった。
それを志田諄一一氏が、甲斐源氏の故郷は常陸国那珂郡武田郷であることを明らかにされた。氏によれば、常陸に進出した源義光は、その子義業を佐竹郷に、義清を武田郷に配して勢力に扶植を図った。しかし、義清は常陸大掾の一族吉田氏ら在地勢力の反発をうけ、その子清光は濫行のゆえをもって朝廷に告発された。その結果、ついに義清・清光父子は甲斐国に配流されたのだという。義光の常陸進出には確証もあり、義清の母を常陸の住人鹿島清幹の子とする系図もあり、義光父子と常陸との関係を裏付けている。加えて『尊卑分脈』には義清に「武田冠者」と注記されているが、これは常陸国武田郷を領したことで武田を名乗ったものであった。
義清は清光に逸見荘方面を経営させことで、清光は逸見冠者と呼ばれた。清光には多くの男子があり、甲斐国内の要地に分封したことで甲斐源氏は飛躍的な発展を遂げるのである。そして、分封された諸家からさらに多くの分脈が生じた。たとえば、逸見・武田・加賀美・安田・平井・河内・浅利・八代らの諸氏で、これらから、一条・甘利・板垣・秋山・小笠原・南部ら甲斐源氏諸氏が派出した。これらのなかで、後世とくに繁栄するのが信義と遠光の系統で、信義は武田氏の祖であり、遠光は小笠原・南部氏らの祖である。
南北朝時代のはじめ、北条氏に従って笠置を攻めたりしたが、中先代の乱に北条時行に加わって大打撃を受け、やがて箱根竹之下の合戦以後は足利尊氏に属して各地に戦功を挙げ、陸奥・伊豆・駿河・若狭・安芸・薩摩などに所領を広げ同族を置いている。甲斐源氏の嫡流は信武の子信成が継ぎ、その弟信頼から大井氏が、同じく氏信の系統から若狭武田氏・安芸武田氏が出ている。
武田一族の繁衍
甲斐源氏が勃興した時は、源平争乱の時代にあたっていた。治承四年(1180)以仁王の令旨を奉じた武田信義は子の一条忠頼、弟の安田義定ら一族を率いて挙兵、富士川の戦いでは奇襲をもって平家軍を敗走させ、その功で信義は駿河守護に、義定は遠江守護に任ぜられた。この段階では、甲斐源氏は源頼朝とほぼ同等の立場に立つ独自の勢力で、むしろ戦いの主導権は甲斐源氏が握っていたといっても過言ではない情勢であった。その後も木曾義仲追討・平家討滅などに転戦い、武功をあげた。
信義には忠頼・兼信・有義・信光らの子があった。忠頼は一条郷を領し一条次郎を称した。源氏の挙兵以来父に従って武功をたて、源頼朝からその威勢を忌まれ、元暦元年(1184)鎌倉で謀殺された。つぎの兼信は板垣郷に拠って板垣三郎を称し、平家追討にも功があった。しかし、頼朝に疎外され、のちに「違勅以下の積悪」をもって隠岐国に流罪となった。有義は武田氏を称し、平家全盛時代には都にあって小松内府重盛の剣持を務めて有名であったが、文治四年(1188)頼朝から剣をもつように命ぜられたのを渋り、頼朝の不興を買って逐電するという失態を犯している。その後、梶原景時が幕府から糾弾を受け、滅ぼされたとき有義もこれに策応しようとして上洛を企てたが行方知れずになった。
こうして、信義の子三人までが殺されたり、失脚したり、行方不明になったことで、武田の嫡流は石禾御厨に根拠を置いた五郎信光が継ぎ、頼朝から甲斐国守護職を与えられ、以後、この系統が甲斐源氏の嫡流となったのであった。
信光は、承久三年の「承久の変」で功があり、その恩賞として安芸守護に任ぜられ、その後、南北朝時代まで武田氏の嫡流が安芸守護を務めた。甲斐守護については不明な点が多いが、鎌倉時代の末には武田三郎(石和政義)がその任にあった。
鎌倉時代、武田氏には主なものとして三流があった。第一が信光─信政─信時と続く武田氏の嫡流で、信時流武田氏と呼ばれる。武田氏の嫡流ではあったが、信光が安芸守護に任ぜられ。その子孫も安芸守護に任ぜられていることから、ある時期より本拠を安芸に移していた。第二は、信政の子で信時の弟にあたる政綱に始まる流れで、石禾御厨に本拠を置いたことで石和流武田氏と呼ばれる。そして第三は、信光の子で一条忠頼の跡を継いだ信長に始まる系統で一条流武田氏と呼ばれる。鎌倉時代の甲斐守護は石和流と一条流の武田氏から交互に出ていた可能性も指摘されている。
室町時代の武田氏
南北朝合一がなった応永後期(1416年)、関東の地で上杉禅秀の乱が起こった。武田信満は禅秀の舅であった関係からそれに与し、結果討死して甲斐武田氏は滅亡の危機に瀕する。その後、守護不在となった甲斐国では、国人層が自立の方向へと向かい、その勢力を拡大していった。
やがて、足利将軍は武田信元を新守護に任じるが、国内で成長した国人層によって信元は入国を拒まれた。やっと、信濃国守護小笠原政康の援助によって信元は入国できたが、守護武田氏の権力はまったく地に落ちていた。
信元の跡を継いだ信重の時代には、反守護勢力であった逸見一族および輪宝一揆の抵抗があり、信重は甲斐に入国することができず、弟信長の子伊豆千代丸が、信長の組織した日一揆とともに反守護勢力と対立した。
永享の頃になると、反守護勢力の旗頭は、守護代の跡部氏となった。跡部氏は信元の甲斐入国に際して支援を得た小笠原氏の一族で、守護代として甲斐に入部した一族であった。永享五年には、守護方勢力の武田信長を追い、実質的な甲斐の支配者の地位を得ていた。しかし、一転して跡部氏は信重への服属の意を示した。このことによって、信重は甲斐入国を果たせたのである。
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信重のもとに服属したとはいえ、守護代跡部氏の国内での影響力は大きく、下剋上の様相を呈していた。信守・信昌と続く武田氏は、寛正五年(1464)跡部明海の死を機に、反跡部氏の国人らを糾合して、翌六年跡部しを討伐することに成功した。これを機会に守護武田氏は、甲斐国での支配力を伸張していった。
しかし、守護権力を確立しつつあった武田氏に、信昌の跡目をめぐる家督争いが生じた。すなわち、嫡男信縄と弟油川信恵の争いである。「油川氏の乱」といわれるこの家督争いは、信恵に加担した国内最大勢力の国人小山田氏と武田惣領家との対立でもあった。この争いは、国内の国人層を二分し、甲斐国を一気に戦国時代に突入させた。
明応七年(1498)、両者の和睦はなるが、永正四年(1507)信縄が死去すると再び対立抗争が始まった。しかし、信虎は翌五年には油川氏・小山田氏を討滅し、他の国人層を掌握し、主従関係をもって甲斐国内を平定していった。ここに武田氏の戦国大名化が始まる。
以来躑躅ヶ崎は、信玄の子勝頼に至るまでの、三代、六十余年間。武田氏領国支配の中心となったのである。
戦国最強、武田軍団
信虎は、本拠を甲府の躑躅ケ崎へ移転し、武田氏の新たな体制を築いてゆく。しかし、その強引な性格を危惧した家臣団と嫡子晴信のクーデターによって駿河に追われる。そして、武田の惣領として晴信(信玄)が登場し、分国法(「甲州法度之次第」)の制定・検地など、さらに強固な体制がとられ、甲斐国を本拠とした武田信玄は、戦国最強といわれた軍隊を育て上げるのである。
信玄は野望をもって近隣諸国への侵攻を企て、信濃国をはじめとして、上野・飛騨そして、今川義元戦死後の駿河・遠江へとその野望を広げて入った。その間、信玄が行った周辺諸豪との謀略、合戦は、まさに甲信越戦国史そのものであった。なかでも、越後の上杉謙信との川中島の戦いは戦国時代の戦いの白眉として世に名高い。
元亀三年(1572)、信玄は野望の仕上げともいうべき上洛軍を起こし、甲斐国を後にした。しかし、歴史は信玄の野望を実現させてはくれなかった。上洛の途中で宿阿ともいうべき病の再発によって上洛を断念、帰国の途についたが信州駒場で、雄図むなしく死去したのであった。享年五十三歳。
信玄の死後、勝頼が気を吐いたが、天正三年(1575)五月、長篠の合戦で織田信長・徳川家康連合軍に大敗を被った。
かくして天正十年三月、勝頼は織田軍の甲斐侵攻を支えられず、郡内を目指して落ちる途中の天目山で自害した。
信玄が世を去ってのちわずか八年、まことにあっけない武田氏の滅亡であった。
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■上総武田氏
■安芸武田氏
■若狭武田氏
■参考略系図
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