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安芸武田氏
●割 菱
●清和源氏武田氏流
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武田氏は、甲斐源氏の一族であり、嫡流とされている。その祖は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光である。義光は「後三年の役」で兄義家を援けるために官途を捨てて、奥羽に下向した話はよく知られている。義光は乱の平定後に刑部丞に任ぜられ、ついで常陸介・甲斐守を経て刑部少輔に進み、大治二年(1127)に没したという。義光は甲斐守在任中に若神子城に住したというが、その確証はない。
武田氏の発祥
武田氏が甲斐に土着したのは、義光の子義清・清光父子のときである。義清について、『尊卑分脈」に甲斐国市河荘に配流されたとあることから、甲斐への下向は配流という形であったことが知られる。しかし、いつ、どこから、どのような理由で配流されたかについては、諸説あって一定しなかったが、甲斐源氏の故郷は常陸国那珂郡武田郷であることが明らかにされた。(志田諄一氏の研究)
すなわち、常陸に進出した源義光は、その子義業を佐竹郷に、義清を武田郷に配して勢力の扶植を図った。しかし、義清は常陸大掾の一族吉田氏ら在地勢力の反発をうけ、その子清光は濫行のゆえをもって朝廷に告発された。その結果、ついに義清・清光父子は甲斐国に配流されたのだという。義光の常陸進出には確証もあり、義清の母を常陸の住人鹿島清幹の女とする系図もあり、義光父子と常陸との関係を裏付けている。
甲斐源氏が勃興した時は、源平争乱の時代にあたっていた。治承四年(1180)以仁王の令旨を奉じた武田信義は子の一条忠頼、弟の安田義定ら一族を率いて挙兵、富士川の戦いでは奇襲をもって平家軍を敗走させ、その功で信義は駿河守護に、義定は遠江守護に任ぜられた。この段階では、甲斐源氏は源頼朝とほぼ同等の立場に立つ独自の勢力で、むしろ戦いの主導権は甲斐源氏が握っていたといっても過言ではない情勢であった。その後も木曾義仲追討・平家討滅などに転戦し、武功をあげた。
信義には忠頼・兼信・有義・信光らの子があった。しかし、源頼朝からその威勢を忌まれ、忠頼・兼信・有義らは次々と殺されたり、失脚したり、行方不明になったことで、武田の嫡流は五郎信光が継ぎ、頼朝から甲斐国守護職を与えられ、以後、この系統が甲斐源氏の嫡流となったのであった。
安芸守護に補任される
鎌倉時代から南北朝、さらに室町時代にかけての安芸守護については、明確に判明していないが、建久六年(1195)から建保五年(1217)ごろまで、宗孝親が安芸守護だったことが知られている。そして、承久三年(1221)の承久の乱後、武田伊豆守信光が安芸守護に補任された。以後、武田氏からは信時、信宗が守護として確認され、建武の新政のなった建武元年(1234)、武田兵庫介信武が安芸守護に補任された。しかし、鎌倉から室町時代、さらに戦国時代にかかての安芸守護は一貫して武田氏が在任したわけではない。
また、武田氏は甲斐国が本拠であったため、安芸には代官(守護代)を送って、在地支配を行っていたことが知られている。これは、当時における在地支配の一般的なスタイルであり、武田氏が安芸に下ったのは信武の代であった。とはいえ、中世における武田氏の動向は甲斐はもとより、京都、若狭、安芸におよんでいて、その実態を明らかにすることは単純にはいかない。さらに、安芸武田氏の場合、戦国末期に滅亡したことで、家伝文書が失われ、その系譜に関しても不明な点が多いのである。
いずれにしろ、安芸国守護となった武田氏は佐東、安南郡方面において中小武士や在国官人を家臣化し、荘園・国衙領を押領して支配の基礎を固め、鎌倉末期の信宗のとき銀山城を築き安芸における拠点とした。鎌倉末期の動乱に際して、武田氏ははじめ北条氏に従って笠置攻めに加わっている。建武の新政がなったのちに起った中先代の乱には、北条時行軍に加わって大打撃を受けたがやがて足利尊氏に属した。
尊氏が後醍醐天皇に叛して上洛すると、信宗の子で安芸守護の任にあった信武は、安芸国内の武士をまとめて上洛しようとした。これを熊谷蓮覚らの安芸宮方が矢野城に籠城して阻止しようとしたが、武田軍はこれを破り上洛を果たした。以後、京都周辺を転戦したが、奥州から上洛してきた北畠顕家軍に敗れた尊氏が九州に奔ったのち、信武の動向は知られなくなる。
九州で体制を立て直した尊氏は、ふたたび京都を奪回するため上洛軍を発した。楠木正成を討ち、新田義貞を敗走させた尊氏は京都を制圧し、光明天皇をたて幕府を開いた。これを北朝といい、一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開き、以後、南北朝争乱の時代となる。信武は安芸国人をひきい、尊氏に属して各地を転戦し、尊氏から安芸守護の地位を安堵された。
安芸の争乱を生き抜く
南北朝の争乱は北朝の優勢に推移するかと思われたが、やがて、尊氏と弟直義の対立から「観応の擾乱(1350〜)」が起ると信武は一貫して尊氏に属した。そして、直冬(直義の養子)党に呼応する北条・毛利・寺原氏らを討つため、二男氏信を安芸に下向させて激闘を展開させた。しかし、氏信は苦戦が続き、安芸国内は動揺が続いた。そのような中の延文四年(1359)、信武が没し、甲斐国守護職は嫡男の信成、安芸国守護職は二男の氏信がそれぞれ継承して、ここに甲斐と安芸の両武田氏に分立した。
以後、氏信は安芸の直冬党と戦いを繰り返したが、戦況は思うように展開しなかった。そのため、氏信は責任を追求され安芸守護職を改替されてしまった。そのあとは、周防・長門・石見の守護大内氏が安芸に勢力を振るい、応安四年(1471)には、今川了俊が安芸・備後守護職を兼帯した。とはいえ、武田氏は銀山城に拠って、安芸中央部に根強い勢力を保持していた。
氏信のあとを継いだ信在は、明徳三年(1392)の相国寺供養に際して足利義満に供奉したことが知られる。しかし、安芸国守護には、細川頼元、渋川満頼らが補任され、信在は本拠の佐東郡守護に任じられた。これは郡守護というべき存在で、以後、武田氏は安芸一国守護職に補任されることはなかった。
応永の乱(1399)後、安芸守護には山名満氏が補任されたが、安芸国人は一揆を結んでこれに対抗した。一揆のなかに武田氏の名はみえないが、武田氏の一族をはじめ、熊谷氏、温科氏、香川氏、山県氏ら武田氏と関係の深い諸氏が加わっていることから、武田氏も一揆方に与していたことは疑いない。その後、武田氏は幕府=守護方に帰順した。そして、新たに山県郡守護を与えられ、さらに、永享二年(1430)のころ武田信繁が、佐東.山県・安南の三郡守護職の地位にあったことが知られる。
武田氏は安芸国の中枢部にあたる分郡守護に任じて、周防・長門の有力大名大内氏への抑え役としての機能を果たしたのである。
中世の争乱
永享十二年(1440)、大和永享の乱に出陣していた武田信栄は、将軍足利義教から一色義貫討伐を命じられた。このとき、土岐持頼も義教によって殺害されている。一色氏を討った信栄は、義教から恩賞として一色氏の遺領のうち若狭守護職と尾張国智多郡を与えられ、分郡守護に甘んじていた武田氏は、一国守護職を得たのである。信栄のあとは弟の信賢が継ぎ、嘉吉元年(1441)に起った嘉吉の乱に活躍し、着々と若狭の領国支配体制を確立していった。
一方、安芸では大内氏との対立が深まった。武田氏に社領を侵食される厳島神主家が大内氏と結んで、武田氏に対して抵抗してきた。一方、瀬戸内海の支配や対外貿易をめぐって大内氏と対立関係にあった細川氏が武田氏支援の姿勢を強めてきた。かくして、武田氏と大内氏の対立は中央政界とも直結するものとなったのである。ついに文安四年(1447)、安芸において武田、大内両氏が戦闘におよんだ。ついで、長禄元年(1457)、大内軍は武田氏の本拠である銀山城に押し寄せてきた。武田氏は幕府の命を受けた毛利、吉川氏の支援を得て、どうにか落城をまぬがれることができた。
このように武田氏は大内氏と対峙を続けたが、銀山城において武田軍を指揮していたのは信賢の父信繁であった。当時、信賢は若狭の領国支配の確立に忙しく、安芸では信繁が分国守護代として経営にあたっていた。そして、信繁が死去してのちは信賢の弟元綱がその地位を継承した。
応仁の乱(1467)には、大内氏との対立関係から東軍細川方に属し、武田信賢は赤松政則らとともにその中核をなした。信賢は弟の国信、元綱らを率いて、京都で市街戦を展開した。武田軍は東軍に属して奮戦したものの、おおむね敗戦がつづいたようだ。やがて、元綱が大内方の毛利・福原氏らの勧誘を受け、大内方に転向した。それと前後して信賢が死去し、弟の国信があとを継いだ。国信は動揺した武田家の家督をぐと、よく勢力をまとめて危機を乗り越えた。
元綱が大内氏方に奔ったのは、安芸銀山城にあって父から受け継いだ安芸分国守護代的地位から脱却して、惣領家からの分離独立を図った。しかし、安芸の武田氏勢力は東軍に属しており、思うように独立できなかった元綱は大内氏に摺り拠っていったのであろう。その後、元綱は兄国信と和解し、安芸分国の経営を任されたものの、分国守護職は兄国信が掌握していた。
大内氏との抗争
国信が没したあとは嫡子の元信が継ぎ、若狭守護職、安芸分国守護職を受け継いだ。一方、安芸の元綱のあとは元繁が継承した。
明応二年(1493)、管領細川政元が将軍義材を追放するという政変が起った。この政変に際して、元信は細川方に与した。京を逐われた義材は神保氏を頼って越中に逃れ、さらに大内義興を頼って山口に下向して将軍職回復への協力を訴えた。その間、元信は義材に協力するとの噂が流れ、細川氏からその進退を疑われた。他方、安芸では大内氏が侵攻し、さらに温科国親が武田氏に背いた。温科氏の叛乱は熊谷膳直が討ち取ったが、大内氏との関係は悪化していた。
永正五年(1508)、大内義興は足利義尹(義材改め)を奉じて上洛軍を起し、この陣に武田元繁も従った。一方、京の元信はこれに応じるという噂もあったが、幕府軍との密接な関係を維持した。これ以後、元信の子孫は若狭国を本拠とするようになり、安芸分郡の経営は元繁系があたり、安芸武田氏は若狭と安芸に完全に分立したのであった。
その後、大内義興は足利義尹を将軍職に復位させ、京都に駐在して得意絶頂期を迎えた。そのようなおり、上洛軍に参じていた厳島神主興親が病死したことで、その後継をめぐって一族間に内訌が起った。国元の神領衆も東西に分かれて抗争を続けたため、義興は元繁を帰国させてこれを鎮圧しようとした。永正十二年(1515)、帰国した元繁は義興から与えられた妻を離別し、反大内の態度を示し、神領衆東方に与して佐西郡の己斐城を包囲した。元繁の離叛に接した義興は、毛利興元、吉川元経に命じて、武田方の有田氏が拠る有田城を攻略させた。以後、武田元繁は大内方の毛利・吉川勢との対峙を続けた。
永正十四年(1517)、武田元繁は有田城を奪回しようとして、今田城に拠って攻撃に転じた。武田軍の動きを知った猿懸城の毛利元就はただちに有田城救援に出陣し、吉川氏らとともに武田軍と激戦を展開した。そして、十月二十二日の中井手の合戦で、武田方の勇将熊谷元直が戦死し、ついで、元繁も又内川畔で流れ矢にあたって落馬したところを元就の家臣井上左衛門尉に討たれてあえなく戦死した。この戦いは元就の初陣としても有名なもので、武田氏は元繁の戦死によってその勢力は急激に衰退していくことになる。
元繁のあとは光和が継ぎ、大内氏と対峙した。大永四年(1524)、大内義興は嫡子義隆とともに三万余の兵を率いて、光和の拠る銀山城に押し寄せた。武田氏の危機を知った尼子経久は銀山城を救援するため、ただちに安芸に急行した。この尼子軍のなかには、光繁を討ち取った毛利元就も従軍していた。尼子軍の出撃によって、大内氏も銀山城を落すことができず兵を引き上げていった。
安芸武田氏の滅亡
武田光和は厳島神主家の後継者争いで大内氏と対立した友田上野介を支援するなど、武将として秀でたところもあったが、斜陽武田氏を復活するまでには至らなかった。光和は熊谷信直の妹を室に迎えていたが、女は二年後に実家に逃げ帰り再婚してしまった。これが原因で熊谷氏は武田氏から離反して毛利氏に走り、武田氏の衰退を一層早めた。光和は熊谷氏の本城を攻めたが、熊谷氏の守備は堅くついに兵をひきあげた。その後、ふたたび熊谷氏を攻めようとした矢先に三十三歳の若さで病死してしまった。天文三年(1535)のことで、熊谷氏の離反、当主光和の早世により、安芸武田氏の衰運は決定的となった。
武田氏家中では光和の後継をめぐって、重臣らが会議を開いた。光和には子がなかったため、若狭武田氏から信実を迎えることになっていた。会議で老臣の香川光景が信実を立てて、毛利方と和を結び、家を安泰たらしめたのちに元繁・光和の弔い合戦を行おうと意見を述べた。これに対して、品川左京亮らが、ただちに弔い合戦をすべしとの意見を出し、会議は紛糾した。
光和の後継には信実が迎えられたものの、重臣間には亀裂が走り、品川一党は香川氏らの拠る八木城を攻撃した。しかし、攻めあぐんでいる所へ、平賀氏、熊谷氏らはが香川氏に味方するとの報に接した品川一党は退陣した。この状況をみた武田氏家臣らから、銀山城を逃れ去るものが続出した。事態の急変に接した信実も銀山城を捨てて若狭に奔った。
天文九年(1540)、尼子晴久が毛利元就を討つため安芸に出陣すると聞いた信実は、晴久に銀山城再興を願いでた。晴久もこれを承諾し牛尾遠江守に兵二千騎を与え、信実とともに銀山城に帰城させた。安芸に討ちいった晴久は郡山城を攻め立てたが、攻略できないばかりか翌天文十年、大内氏の救援軍の出現と毛利方の反撃で、敗戦を喫した晴久は出雲に退却していった。
ここに銀山城は孤立化し、信実はふたたび城を捨てて出雲に逃れ、多くの城兵も逃れ去った。しかし、銀山城にはなお三百余騎の兵が立て籠り、城を枕に討死を決していた。ところが、香川氏らは毛利氏と和睦を進め、ついに銀山城は開城となった。ここに至って、承久の乱以来、安芸に勢力を維持してきた武田氏はまったく終焉を迎えたのである。
安国寺恵瓊のこと
戦国時代の末期、毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊が知られる。安国寺恵瓊は信実の従兄弟信重の子といわれ、田氏が滅亡したとき、東福寺末寺であった安芸安国寺に逃れ、竺雲恵心の法弟となった。恵心は毛利氏の外交僧としても活躍したが、恵瓊はそのあとを受けて、当代きっての外交僧となった。
毛利氏が豊臣政権下の大名になると、恵瓊も秀吉に直仕するようになり伊予六万石の大名となった。一方で、安芸安国寺の住持。また東福寺退耕庵庵主、東福寺二二四世、そして南禅寺住持の公帖を受け、禅僧としての最高位に達した。関ヶ原の戦では石田三成方に属し、戦後京都六条河原で斬られた。
恵瓊は信長の最期を予言したことで有名だが、みずからの最期は関ヶ原合戦に石田三成に与して、京都で斬られた。慧眼の持ち主であった恵瓊だったが、自分の末路までは見通せなかったようだ。・2004年11月10日
【資料:室町幕府守護職事典/安芸府中市史/戦国大名系譜人名事典/五日市町誌/広島県大百科事典 ほか】
●武田氏一族のページにリンク
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■甲斐武田氏
■上総武田氏
■若狭武田氏
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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