赤松氏



家紋アイコン 長水城戦記
播磨の中世史に幕をひいた落城



 長水山城は、播磨国宍粟郡山崎にある、標高585メートルの長水山に築かれた要害であった。赤松則村の嫡男範資の子広瀬師頼が、赤松則祐によって封じられたのがはじめという(釜内氏が居城したいう説もある)。そして、広瀬満親・親茂父子のとき嘉吉の乱に遭遇し落城。
 文明元年にいたって、満利が再興し、以後、宇野氏の居城となった。満利の子越前守祐秀は、守護の赤松政則に従い、京都の洛北船岡合戦に戦功を立て、その領地は「宍粟郡・神西郡並びに但馬国八東・七美(ママ)・朝来五郡で高十二万石也」とある。

秀吉軍、播磨に侵攻

 天正五年(1577)十月、織田信長の代官として、羽柴秀吉が播磨に侵攻してきた。当時播磨では赤松則房をはじめ別所長治・小寺政職・小寺孝高らは信長に服従を約していた。一方、赤松政範・赤松広英・宇野政頼・三木通秋らは毛利輝元と通じて信長への服従を拒否していた。秀吉の播磨平定は順調に進むかとみえたが、別所長治が秀吉にそむき、戦線は膠着状態にはいっていった。しかし、天正八年三木城が落城して、別所長治は自殺した。
 こうして東播を手中におさめた秀吉の攻撃目標は長水山城に向けられることとなった。この時、長水城は下総守政頼が子の民部大輔祐清と守っていた。秀吉は二月、英賀城を攻略すると、長水城の政頼に使者を出して、これを呼び寄せた。
 政頼が使者とともに姫路に着いたのは、天正八年(1580)の三月二十七日の夕方で、その時秀吉はたまたま碁を囲んでいてすぐには会わなかった。これに対して政頼は憤り、馬首を返して長水城に帰ったといわれている。そこで秀吉はおおいに怒って、四月一日兵を発して長水城に向かった。

秀吉軍との戦い

 秀吉はまず支城の篠の丸城を攻め落とし、長水山城を力攻めをせずに完全包囲。そして、蜂須賀小六らの兵を残して三木氏攻略のために姫路に引き返している。
 さきに、長水城では政頼の後継者の決定をめぐって、長男満景派と次男祐清派の対立があり、その結果満景が篠の丸に追われ、政頼・祐清らによって殺害されたことがあった。秀吉は満景派で、当時は赤松則房の軍中にあった安積将監をとおして長水城中の田路五郎左衛門ら、かつての満景派の武士約二十人を動かして、城中の様子を内通させていたのである。
 籠城十数日、城兵の疲労をまっていた秀吉軍は、五月九日に至って攻撃を開始し、翌十日、城内の内通者によって、長水城は火を発し、落城は必至の事態となった。その夜城主政頼父子らはひそかに城を脱出して、長水山頂を彷徨いながら小競り合いを続けた。しかし、孤立無援で食糧難に苦しんだ長水軍は、六月五日の夜陰にまぎれて長水山からの脱出をはかり、三男で作州竹山城主新免伊賀守宗貫をたよって、蔦沢谷より間道を抜け、鷹巣を超え千種の岩野辺に落ちて行った。これを急追する秀吉軍に対し、長水軍の心ある武士たちは踏みとどまって、ここかしこに戦ったが、歴々の士数十人が討ち取られた。
 脱出した政頼・祐清らは、鷹ノ巣を越えて千草に到着したが、おりからの雨で千種川は洪水で渡ることが出来ず、 秀吉軍の蜂須賀正勝、荒木平大夫、神子田半左衛門らの軍勢に追われ、宇野一族をはじめ長水勢はことごとく討死した。 現在、宇野政頼をはじめとした宇野一族の墓碑とともに討死した家臣の板石が残されている。
・写真:長水城祉本丸方面を見る

●石塔碑名
 宇野右衛門佐祐光
 宇野民部大輔祐清
 宇野下総守 政頼
 宇野采女正 祐政
●板石連名
 宇野 内匠   下村治左衛門  春名 修理
 石原 勘解由  神山 但馬   横治三郎兵衛
 小林 三河   広瀬七郎兵衛  安積 久蔵
 宇尾墨 勘介  石田小兵衛   阿甫助大夫
   他に女房二人

 現在、宍粟郡山崎町御名にある西光寺に、『朝(長)水城自害討死連名』として、宇野一族とその家臣について、文化二年(1805)のものと思われる記録が残っている。なお、同寺には『長水落城乱軍 死生不分員数』四十人と、『長水落城浦(補)伐逆心之党』として落城時の二十人に、篠の丸城主満景を加えた二十一人が書き残されている。

落城余話

 宇野政頼に三歳の幼児があった。落城の時、乳母に抱かれて落ち伸びていった。途中で六郎右衛門という盗賊に襲われ、乳母は片腕を失ったが、かろうじて船越山に逃れ、その幼児は出家した。瑠璃寺中興の真賢大師がこの人であるといわれている。『赤松秘士禄』にも、政頼の末子に真賢の名がみられ、「船越山瑠璃寺僧 釈鉢故無別条」と記されている。



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