宇野氏-ダイジェスト-
三つ巴/二つ引両*
(村上源氏赤松氏流)
*山崎町郷土資料館に展示された
 長水城の瓦に巴紋と二つ引両が
 見られる。

 戦国時代に播磨の長水山城に拠った宇野氏は、村上源氏の後裔と称し、山田入道頼範の子将則(頼則の弟という説もある)を祖とする。播磨国作用郡宇野荘に館を造り、その地名を名字としたのに始まる。
 宇野宗清・頼季・国頼の三兄弟は、東福寺の首座太朴玄素を開山に招請して円応寺を開基している。太朴玄素は赤松円心(則村)も招こうとした名僧であったが、当時、宇野氏は円心をして遠慮せしめる勢力を有していたようだ。
 元弘・建武の争乱には、赤松氏に従って各地に戦い、播磨西八郡の守護代となっている。ちなみに東八郡守護代は別所氏が任じられている。
 嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍足利義教を自邸に招いて殺害するという事件があった。世にいう「嘉吉の乱」で、赤松満祐は京都の邸を焼き払って領国に下向し、書写坂本城を本営に領国の武士に参集を求めた。西八郡守護代の宇野頼則も激に応じ、赤松討伐軍と戦い敗れて、赤松氏らとともに城山城で自刃している。子の満利は父の命によってひそかに逃れ隠住していたが、長禄元年(1457)の吉野退治(神器奪回)に駆けつけて奮戦した。赤松政則が赤松家を再興、応仁の乱における活躍で旧領を回復すると、満利は播磨宍粟郡内の地頭職となり、越前守を号して長水山城に拠った。
 長水山城は、播磨国宍粟郡山崎にある標高585メートルの長水山に築かれた要害であった。そもそもの始めは、赤松則村の嫡男範資の子広瀬師頼が、赤松則祐によって封じられたことにあった(釜内氏が居城したいう説もある)。そして、広瀬満親・親茂父子のとき嘉吉の乱に遭遇し落城した。文明元年(1469)にいたって、満利が再興し、以後、宇野氏の居城となった。
 満利の子越前守祐秀は、守護の赤松政則に従い、京都の洛北船岡合戦に戦功を立て、その領地は「宍粟郡・神西郡並びに但馬国八東・七美(ママ)・朝来五郡で高十二万石也」とある。

●播磨争乱

 明応五年(1496)、赤松政則が四十二歳の若さで急死、一族の七条氏から義村が赤松惣領に迎えられた。この頃から、守護代浦上氏の横暴が表面化、播磨の諸将は守護代浦上則宗方と一族の村国方の双方に分かれて戦いが繰り返された。この争乱に際して宇野氏は、赤松下野守らとともに宗則を支持して戦い、村国方の栗栖中山城を攻略している。
 その後、赤松氏は浦上氏の下剋上によって衰退し、播磨には合戦が止むことなく続いた。やがて、享禄四年(1531)に浦上村宗が滅亡、勢力を挽回した赤松政村は将軍義晴から偏諱を受けて晴政と名乗りを改めた。
 天文七年(1538)、山陰の戦国大名尼子詮久が播磨に侵攻した。時の長水山城主宇野村頼や宍粟の武士たちは、いち早く詮久に協力してその所領を安堵されている。間もなく詮久は家臣を残して播磨から兵を返し、備後で毛利氏と戦っている。この尼子氏の播磨進入には一向宗徒が詮久を応援し、赤松氏の播磨奪回戦にも尼子軍を助けてその阻止に動いている。
 同じころ、但馬からは山名氏が宍粟郡に侵攻し、宇野村頼は子の政頼とともに山名軍を破り、尼子晴久(詮久改め)から軍功を賞されている。ついで天文十二年には備前から浦上宗景が侵攻するなど、播磨の戦乱は収拾のめどがつかない泥沼へと落ち込んでいった。
 永禄のころ(1558〜69)になると、尼子氏を降した毛利元就の手が播磨に伸び、宇野氏は毛利氏の配下となった。そして、このころが宇野氏の最盛期でもあった。

●織田氏の播磨侵攻

 天正四年(1576)、織田信長は部将の羽柴(のちに豊臣)秀吉に中国地方の平定を命じた。これに対して、播磨国内の諸豪族のうち、赤松則房をはじめ別所長治・小寺政職・小寺孝高らは信長に服従を約した。一方、赤松政範・赤松広英・宇野政頼・三木通秋らは毛利輝元と通じて信長への服従を拒否した。
 天正五年、播磨に兵を入れた秀吉の播磨平定作戦は順調に進むかにみえたが、翌年、別所長治が秀吉にそむいたため、戦線は膠着状態にはいっていった。天正八年、頑強な抵抗を続けていた三木城が落城して別所長治は自殺し、英賀城の三木氏も孤立した。こうして秀吉の攻撃目標は、奥播磨で抵抗を続ける長水山城宇野氏に向けられることとなったのである。
 天正八年、播磨山崎に兵を進めた秀吉はまず篠の丸城を攻め落とし、長水山城を力攻めをせずに完全包囲した。そして、蜂須賀小六らの兵を残して、三木氏攻略のために姫路に引き返していった。籠城十数日、城兵の疲労をまっていた秀吉軍は内通者を得て攻撃を開始した。秀吉軍の総攻撃と内通者の働きによって、さしもの長水山城も炎上し、落城した。政頼・祐清らの城兵は美作の新免氏を頼って落ちていったが、千草で追撃軍と激戦の末、力尽きて一族自刃して滅亡した。
 長水城主の宇野政頼・祐清父子は、赤松一族という誇りと、土地が僻地であったためか、あくまで反抗の気勢を示した。しかし、その末路は、時代を見抜く目が暗かった武将の、迎えるべき最期であったともえいよう。

●播磨国宍粟群山崎の情報/ ●長水城戦記

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